旧東明駅舎と4110形機関車 旧東明駅舎と4110形機関車 美唄市街地からアルテピアッツァ>>43>>44へ向かう途中に、旧三菱鉱業美唄鉄道の「東明駅」の駅舎が残されている。 そしてこの駅舎と一緒に、炭鉱時代に活躍した「4110形式十輪連結タンク機関車2号」が保存されている。 機関車は美唄市の指定文化財となっており、近年では駅舎と共に「炭鉄港」の構成文化財に指定されている。 続きを読むここに挙げた写真は2009年と2019年のものである。 その後、これらの保全のためのクラウドファンディングも行われ、更に見学しやすく綺麗に整備されたようだ(筆者も寄附しているのだが、その後訪れる機会がなく成果を確認出来ずに年月を経てしまっている)。 ▼2009年7月 この年の前月にアルテピアッツァや炭鉱メモリアル森林公園>>46等に向かう時に通った道だったのだが、その時は気づかず通り過ぎていた。後で知って>>80の帰り道に寄ってみた。 まったく古びていない、この時から綺麗に保たれていた駅舎。当時は個人的に廃墟趣味の方が強くあったため、本音を言えば綺麗すぎて物足りない感があった。 それからかなり年月が経ち、炭鉱遺産の機運が盛り上がって今も変わらず残されているのを見ると、これは素晴らしいことだったのだと考え直さざるを得ない。 裏手のホーム側。駅だった面影がはっきりとある。 駅舎の内部には入れなかったが、見た限りは劣化もなく塗装も定期的にされていたのか、汚れも見当たらなかった。花壇もあり、ちょうど花も咲いていたのが人の手が入っている証拠だ。 傍らには蒸気機関車が展示されている。こちらも見る限り綺麗だ。 説明板はかなり年季が入っていた。 美唄鉄道の勾配路線と、大量の石炭の運搬に耐えるための力強い十輪「E型」機関車で、当時は多く作られたが現在はここでしか見られないものだそうだ。 三菱造船がドイツの4100形を基に製造、閉山までの50年超を走り続けた機関車である。 かつての路線は、サイクリングロードとなり、傍らにはプラットホームの跡も残っている。 ▼2019年5月 その間も駅舎前の道はしばしば通っており、駅舎の姿は目にしていたのだが、10年経って再訪。 間近で見ても変わらず綺麗だ。この時も駅舎内の入口は固く閉ざされた状態だったが。 窓も目隠しされているので、内部を窺うことは出来ない。 機関車も変わらず綺麗。2号車の「2」が眩しい。 ただそれなりに傷みはあったようで、このあとクラファンが行われている。 あの説明板はさすがに新調されていた。横書きで見やすくなった。 機関車の仕様など、詳しい人には興味深いだろうと思う。 三菱鉱業美唄鉄道は、元々は石狩石炭株式会社が敷設した軽便鉄道が始まりであった。 三菱美唄炭鉱の始まりは、鉱区の所有者黒柳氏と、同地に進出した石狩石炭の間に係争が起こったことに遡る。黒柳側が勝訴したものの、弁護士飯田氏への報酬支払が滞ったため、鉱区の所有は飯田に移り、飯田美唄炭鉱として1913年(大正2)に操業を始めた。敗訴側の石狩石炭は鉄道を敷設し、飯田に譲渡したことで炭鉱経営が進んだが、資金調達のため販売権を委ねていた三菱に買収され、1915年(大正4)に三菱美唄炭鉱、及び三菱美唄鉄道となった。前年に第一次世界大戦が開戦したこともあり、その三菱が景気需要に乗る思惑もあったとされる。 こちらの注意看板は錆びついたまま放置されている。 サイクリングロードは、我路キャンプ場の方まで伸びているようだが、途中道が荒れ通行止めになっているため通行する人はほぼ居ないと思われる。 荒れた道とプラットホーム跡、自転車専用道路の標識が物悲しさを誘う。 鉄道の路線跡は、サイクリングロード跡にもなりつつある。 現在、駅舎は炭鉄港の催しの一環で定期的に内部公開が行われているらしい。 東明駅舎一般公開・2号機関車の見学サポート(美唄市) 畳む #炭鉱 #鉄道 #古建築 いいね ありがとうございます! 2025.9.2(Tue) 02:49:47 道央,美唄
旧東明駅舎と4110形機関車
旧東明駅舎と4110形機関車美唄市街地からアルテピアッツァ>>43>>44へ向かう途中に、旧三菱鉱業美唄鉄道の「東明駅」の駅舎が残されている。
そしてこの駅舎と一緒に、炭鉱時代に活躍した「4110形式十輪連結タンク機関車2号」が保存されている。
機関車は美唄市の指定文化財となっており、近年では駅舎と共に「炭鉄港」の構成文化財に指定されている。
ここに挙げた写真は2009年と2019年のものである。
その後、これらの保全のためのクラウドファンディングも行われ、更に見学しやすく綺麗に整備されたようだ(筆者も寄附しているのだが、その後訪れる機会がなく成果を確認出来ずに年月を経てしまっている)。
▼2009年7月
まったく古びていない、この時から綺麗に保たれていた駅舎。当時は個人的に廃墟趣味の方が強くあったため、本音を言えば綺麗すぎて物足りない感があった。
それからかなり年月が経ち、炭鉱遺産の機運が盛り上がって今も変わらず残されているのを見ると、これは素晴らしいことだったのだと考え直さざるを得ない。
駅舎の内部には入れなかったが、見た限りは劣化もなく塗装も定期的にされていたのか、汚れも見当たらなかった。花壇もあり、ちょうど花も咲いていたのが人の手が入っている証拠だ。
美唄鉄道の勾配路線と、大量の石炭の運搬に耐えるための力強い十輪「E型」機関車で、当時は多く作られたが現在はここでしか見られないものだそうだ。
三菱造船がドイツの4100形を基に製造、閉山までの50年超を走り続けた機関車である。
▼2019年5月
間近で見ても変わらず綺麗だ。この時も駅舎内の入口は固く閉ざされた状態だったが。
ただそれなりに傷みはあったようで、このあとクラファンが行われている。
機関車の仕様など、詳しい人には興味深いだろうと思う。
三菱鉱業美唄鉄道は、元々は石狩石炭株式会社が敷設した軽便鉄道が始まりであった。
三菱美唄炭鉱の始まりは、鉱区の所有者黒柳氏と、同地に進出した石狩石炭の間に係争が起こったことに遡る。黒柳側が勝訴したものの、弁護士飯田氏への報酬支払が滞ったため、鉱区の所有は飯田に移り、飯田美唄炭鉱として1913年(大正2)に操業を始めた。敗訴側の石狩石炭は鉄道を敷設し、飯田に譲渡したことで炭鉱経営が進んだが、資金調達のため販売権を委ねていた三菱に買収され、1915年(大正4)に三菱美唄炭鉱、及び三菱美唄鉄道となった。前年に第一次世界大戦が開戦したこともあり、その三菱が景気需要に乗る思惑もあったとされる。
サイクリングロードは、我路キャンプ場の方まで伸びているようだが、途中道が荒れ通行止めになっているため通行する人はほぼ居ないと思われる。
鉄道の路線跡は、サイクリングロード跡にもなりつつある。
現在、駅舎は炭鉄港の催しの一環で定期的に内部公開が行われているらしい。
東明駅舎一般公開・2号機関車の見学サポート(美唄市)
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#炭鉱 #鉄道 #古建築