上芦別さんぽ 三菱芦別の痕跡を追う 上芦別さんぽ 三菱芦別の痕跡を追う 2009年に芦別に来たのには、もう一つ目的があった。 筆者の父と祖母が炭鉱時代の上芦別に住んでいたため、予てからどのような場所か気になっていたからである。 それは昭和20年代後半から30年代半ばのことで、祖母の再婚相手が三菱芦別炭鉱の従業員だったためだ。その人は電話交換士を務めており、坑内員ではなかったようだ。 時折母を介して語られる父と祖母の芦別での暮らしを聞き、炭鉱に興味を持ったタイミングで芦別方面に行った際には上芦別へも行ってみようと思っていた。 続きを読む炭鉱員だった祖母の再婚相手は筆者から見れば義理の祖父、父から見れば継父(義父)になるため、血縁は無い。互いに子連れ再婚だったこともあり、嫁側の実子であった父にとっては肩身の狭い家庭生活だったようだ。 昔は、結婚するなら炭鉱の人と云われており(坑内・坑外員の別有りかは不明だが)、祖母の場合も再婚の相手探しに周りが色々世話を焼いたのではないかと思われる。現在の恋愛結婚とは事情が異なる婚姻だったのだろう。 そう云われるくらいには炭鉱もまだ戦後復興の時期で比較的景気が良かった時代のことであった。 上芦別の北側の啓南公園内に、三菱系炭鉱の記念碑がある。重厚で立派な碑だ。 かつての三菱芦別鉱業所のあった場所である。 三菱鉱業芦別炭砿 北菱産業芦別炭砿 記念碑 かつてこの地には、三菱芦別炭砿(昭和23年開坑ー同39年閉山)、北菱芦別炭砿(昭和27年開坑ー同45年閉山)の二つのヤマがあった。 戦後のわが国経済復興の原動力として、石炭産業はエネルギー資源の供給という国家的使命を果たし、両砿もその一翼を担って、最盛時には年産31万トンの出炭を達成、敢然その使命を遂行した。しかしながら、昭和30年代後半からエネルギー革命によって石炭は撤退を余儀なくされ、ついに両砿とも閉山の已むなきに至り、ヤマの男たちも相次いでこの地を去って行った。 この碑は、かつてこの地に於いて石炭産業に従事した者たちの足跡をささやかながら、後世に遺そうとするものである。 昭和55年10月11日 三菱 北菱 芦別炭砿を偲ぶ会 題字 坂元忠雄 書 碑文 髙橋 信 書 隣には、上芦別出身の俳人鷹島牧二(1932〜)の句碑が立っている。三菱芦別鉱業所に勤務する傍ら句作を行った。 「北国人 言葉少なに 冬に入る」 碑の句は18歳の時の作。炭鉱の斜陽化により当地を離れ、東京経済大学に学んだ。 三菱芦別炭鉱は1933年(昭和8)に樺太の炭鉱開発に注力するため、一旦芦別を閉山している。樺太の三菱塔路炭鉱がそれである。 取り寄せた除籍によると、件の義祖父の連れ子(実子)の出生地が樺太の塔路となっており、そこで働いていた時に子供が生まれたということが読み取れる。 戦前の樺太で生まれ育ったという年配の人は親類以外で度々見かけたが、これを知って俄然樺太という地が身近に感じられるようになった。 終戦後三菱は樺太から引き揚げ、1947年(昭和22)に芦別炭砿を再開、1964年(昭和39)の閉山まで操業した。 北海道内の主要炭鉱の中では比較的早い時期の閉山だったためか、炭鉱施設の痕跡は少なめである。 旧三菱芦別炭鉱あかしや倶楽部の建物。鉱員専用の娯楽施設で、結婚式場としても利用された。 炭鉱の工場施設は既に取り壊されて残っていなかったものの、この周辺には三菱関係の炭住や厚生施設等が他に転用されつつ残っているらしい。 探訪当時は情報も少なく、それらを見つけることが出来なかった。 父と祖母が住んでいた場所は、500番地台と聞いていたのだが、そうなると上芦別駅周辺区域となり、どちらかというと三菱よりは明治炭鉱のエリアになるような感じがする。近年除籍謄本を取り寄せてみたところ、件の義祖父の本籍が富岡(上芦別)100番台となっており、それだと上記の啓南公園の近辺になる。 もっとも、実際に住んでいた場所は500番台だったのかもしれないことを踏まえて、そちらの方を街撮りよろしく回ってみた。 消防署。 「文屋」の文字が見えるが文具店ではないと思う。現在は左隣の家屋と合わせて現存せず、更地となっている。 この板張りの建物が文具屋だったらしいが、こちらも既に現存していない。 古い建物と新しい(リフォームか)家が混在する。 古い商店の倉庫。 立派な寺院。 公園なのか、跡地なのか。 現在はこの遊具のようなものは撤去されたのか見当たらない。 上芦別のメインストリート。今でも大きく変わった感じはしない。手前の畳屋は今も営業している。 JR上芦別駅。 駅前の商店街。この当時から様子はあまり変わっていない。 駅前バス停横の電話ボックスが可愛いかったのだが、現在この木のオブジェは取り外され普通の電話ボックスになっている。 シラカバ風の電灯柱は今もある模様。 当時のこれらの写真と今のGoogleマップなどで見比べると、やはりところどころ空き家や老朽していた建物は取り壊されているようだ。 父も2009年以前にこの辺りを訪れたことがあったらしいのだが、昔のものは何も無かったと言っていたためそれほど期待もしていなかった。 それでもこのような場所だったと知れただけでもまあ良かったと思う。帰宅してから気付いたが、父が通っていたと思われる旧上芦別小学校の跡地を見逃してしまったのは残念だ。 再訪は未だ出来ていないので、これもまた課題とする。 畳む #炭鉱 #碑 いいね ありがとうございます! 2025.8.31(Sun) 06:31:43 道央,芦別
上芦別さんぽ 三菱芦別の痕跡を追う
上芦別さんぽ 三菱芦別の痕跡を追う2009年に芦別に来たのには、もう一つ目的があった。
筆者の父と祖母が炭鉱時代の上芦別に住んでいたため、予てからどのような場所か気になっていたからである。
それは昭和20年代後半から30年代半ばのことで、祖母の再婚相手が三菱芦別炭鉱の従業員だったためだ。その人は電話交換士を務めており、坑内員ではなかったようだ。
時折母を介して語られる父と祖母の芦別での暮らしを聞き、炭鉱に興味を持ったタイミングで芦別方面に行った際には上芦別へも行ってみようと思っていた。
炭鉱員だった祖母の再婚相手は筆者から見れば義理の祖父、父から見れば継父(義父)になるため、血縁は無い。互いに子連れ再婚だったこともあり、嫁側の実子であった父にとっては肩身の狭い家庭生活だったようだ。
昔は、結婚するなら炭鉱の人と云われており(坑内・坑外員の別有りかは不明だが)、祖母の場合も再婚の相手探しに周りが色々世話を焼いたのではないかと思われる。現在の恋愛結婚とは事情が異なる婚姻だったのだろう。
そう云われるくらいには炭鉱もまだ戦後復興の時期で比較的景気が良かった時代のことであった。
かつての三菱芦別鉱業所のあった場所である。
「北国人 言葉少なに 冬に入る」
碑の句は18歳の時の作。炭鉱の斜陽化により当地を離れ、東京経済大学に学んだ。
三菱芦別炭鉱は1933年(昭和8)に樺太の炭鉱開発に注力するため、一旦芦別を閉山している。樺太の三菱塔路炭鉱がそれである。
取り寄せた除籍によると、件の義祖父の連れ子(実子)の出生地が樺太の塔路となっており、そこで働いていた時に子供が生まれたということが読み取れる。
戦前の樺太で生まれ育ったという年配の人は親類以外で度々見かけたが、これを知って俄然樺太という地が身近に感じられるようになった。
終戦後三菱は樺太から引き揚げ、1947年(昭和22)に芦別炭砿を再開、1964年(昭和39)の閉山まで操業した。
北海道内の主要炭鉱の中では比較的早い時期の閉山だったためか、炭鉱施設の痕跡は少なめである。
炭鉱の工場施設は既に取り壊されて残っていなかったものの、この周辺には三菱関係の炭住や厚生施設等が他に転用されつつ残っているらしい。
探訪当時は情報も少なく、それらを見つけることが出来なかった。
父と祖母が住んでいた場所は、500番地台と聞いていたのだが、そうなると上芦別駅周辺区域となり、どちらかというと三菱よりは明治炭鉱のエリアになるような感じがする。近年除籍謄本を取り寄せてみたところ、件の義祖父の本籍が富岡(上芦別)100番台となっており、それだと上記の啓南公園の近辺になる。
もっとも、実際に住んでいた場所は500番台だったのかもしれないことを踏まえて、そちらの方を街撮りよろしく回ってみた。
現在はこの遊具のようなものは撤去されたのか見当たらない。
当時のこれらの写真と今のGoogleマップなどで見比べると、やはりところどころ空き家や老朽していた建物は取り壊されているようだ。
父も2009年以前にこの辺りを訪れたことがあったらしいのだが、昔のものは何も無かったと言っていたためそれほど期待もしていなかった。
それでもこのような場所だったと知れただけでもまあ良かったと思う。帰宅してから気付いたが、父が通っていたと思われる旧上芦別小学校の跡地を見逃してしまったのは残念だ。
再訪は未だ出来ていないので、これもまた課題とする。
畳む
#炭鉱 #碑