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旧赤間炭鉱 選炭工場跡
旧赤間炭鉱 選炭工場跡
赤間炭鉱は、明治〜大正期に稼働していた中小炭山を北炭が買収して開鉱した炭鉱になる。住友赤平炭鉱と同年の1938年(昭和13)に開鉱し、鉱区的にも隣り合う形で操業した。その後歌志内の空知炭鉱へ集約され、赤間は北炭から分社化していたためここでは単に赤間炭鉱とする。
住友赤平の立坑施設からJR赤平駅方面へ進むと、ちょうど駅の裏手に当たる位置に「日本一のズリ山階段」の看板を掲げた駐車場があり、左手に見えるコンクリート製の建造物がこの赤間炭鉱選炭工場の一部施設である。炭鉱施設は閉山後市の所有となり、ほとんどは解体撤去されたが、産業遺産としての価値が見直されるに当たって、今は炭鉱遺産として整備されているズリ山と共に残されている。
初訪は2009年、上の写真が当時のものである。
2012年にはズリ山を登るために再訪した。以下はその時のものである。

⑯赤間鉱の選炭工場跡
「選炭工場」では、採掘現場から産出された石炭に混じる不純物を取り除き、品質別に選別する作業を行います。
赤間の選炭工場は、1941(昭和16)年に空知川にかかる赤間橋(現存していません。)とあわせて建設されました。この工場は、選炭工場と貨車への積込施設が別々に配置され、その間をベルトコンベアーで結合していたのが特色でした。
北炭赤間炭鉱が、1973(昭和48)年に閉山(全坑員を空知炭鉱(歌志内市)に集中化)となったため、選炭工場はその役目を終えました。
その後、1999(平成11)年に解体され、現在は原炭ポケット(掘り出した石炭を一時保管するための施設)の一部を残すのみとなりました。

ほぼ中央が赤間炭鉱の施設、すぐ上に赤平駅、左下がズリ山になるが、大変興味深い。
選炭工場はこのベルトコンベアー2基の施設で、現在残っている原炭ポケットの一部はトロッコ線を挟んだすぐ下の小さい施設だろうか。この施設にも小さいコンベアーのようなものが見える。


昔の写真と照らし合わせると、なんとなくどう使用されていたかが(正確に判明せずとも)わかるような感じで面白い。
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#廃 #炭鉱
旧住友赤平炭鉱 立坑櫓
旧住友赤平炭鉱 立坑櫓
住友赤平炭鉱は1938年(昭和13)に開鉱、閉山は1994年(平成6)と、比較的近年まで稼働していた新しい炭鉱の部類である。
そのためか、炭鉱を象徴する立坑櫓の建物がほぼ操業当時の状態で残り、現在ではガイダンス施設も新設され、立坑ヤード内も施設の開館日は見学可能となっている。
日本遺産「炭鉄港 」の構成文化財として登録もされており、北海道産業遺産群の中でも有名なスポットだ。
筆者の初見は2009年で、その時既に立坑櫓の存在を知った上で訪れたが、外観だけでも実物を間近に見るとその大きさに圧倒された。操業時には「住友赤平立坑」のネオン文字が掲げられていたようだが、この時点では既に取り外されていた。
時間的に夕刻を過ぎていたため、まともに撮影出来ずにその場を後にしたが、有志が開催している「赤平TANtanまつり」で炭鉱関連の施設内見学が出来るということで、翌々年の2011年に再訪し、これまた内部の圧倒的な空間と操業当時の様子に思いを馳せつつ堪能させてもらった。
▼2011年10月


こちらは道路に面した一角で、見学参加者の集合場所だった。右側建物奥のシャッターから出入りした。




見学時間に集合場所へ向かうと、家族連れなども含めかなりの人が集まっていた。
当時から関心の高さが窺われた。
シャッターが開けられ、内部に入ると従業員の繰込所と思われる一室になり、そこでヘルメットを着用しガイドの説明を聞いた上で立坑ヤード内へ。
ガイドはこちらで働いていた元炭鉱マンの三上氏である。今日に至るまでガイドを務められている。立坑の仕組みやエピソードなど、軽妙かつ分かりやすく興味深い話を色々聞かせていただいた。

櫓の上部に滑車(ヘッドシープ)があり、巻き上げ機でワイヤーケーブルを制御し昇降させる。



そういえばこちらの原炭置き場や選炭場も近くにあったと思うのだがどの辺りだったのだろう。名残でもあるのだろうか。




一つの箱に6人×3列で定員18人で載っていたらしく、これも実際に見学者18人ずつ乗り込んで再現。
なかなかの詰め込み状態で、毎秒約6m、最高深度約600mまで昇降していたという。
これが4段構造になっているため、最大定員72名まで一度に運べるものだった。

元々坑内にあるべきものだが、こちらに移して展示されている。体の大きな人だと膝が前方の仕切りにつっかえそうだ。

(正面の映り込みは筆者)

玖保キリコのキャラクター懐かしすぎる…


さすがに大きい。







立坑の建設は1963年(昭和38)、それからこの時点で50年近く経過しているが、かなり堅牢に作られているのか目立った傷みもなく、今日まで残るものになっているのもまた凄いと思う。
▼2012年10月
翌2012年は、赤間炭鉱のズリ山に登った後にTANtanまつりに滑り込み、立坑櫓のライトアップ待ちで撮影したものである。
2011年時にもライトアップは見ているのだが、肝心のそちらの写真は写りが稚拙だったため、残っていない。




このあとにライトアップ点灯、昨年に続き赤平名物のがんがん鍋(豚汁ベースのモツ鍋)をいただいた。
▼2013年10月
更に翌年も、まつりに合わせて訪れた。3年連続で同じ場所に行くというのは個人的には珍しいことだと思う。
この間にカメラも一眼に新調したこともあり、新たに撮影に行きたい思いもあった。
とはいえ拙いものではあるが、画像のみ淡々と上げていくことにする。



数百メートルの地下では太陽光がそもそも届かないので、ライトなしで目が慣れるということは決してない、というお話を改めて聞いて過酷な環境だったということを再確認。
でも、ネズミはちょろちょろと動き回っていたというのも聞き、ヒトと動物の能力の違いにも驚く。餌の調達は可能だったのだろうか。
















この夜は立坑の壁面を利用して、プロジェクターで炭鉱の歴史の映像を流しており、思わず見入ってしまった。

▼2018年11月
しばらくご無沙汰だったが、2016年に立坑や関連施設が住石マテリアルズから赤平市に譲渡されたのを機に周辺整備が進み、2018年には炭鉱ガイダンス施設が新設されていた。
この年のTANtanまつりでは施設駐車場がイベント会場となり、屋台の出店や著名人ゲストが呼ばれて大変な賑わいだった。
筆者自身はこの年に入院・手術を経験したため、リハビリと称して久々に遠出をして来たのがこちらだった。そのため立坑見学は遠慮してガイダンス施設の見学と、軽く立坑の撮影だけに止めた。
人が多かったため、写真は厳選した。



遺産保存への道筋を(初訪以前から動きはあったため途中からだが)辿っているようで、余所者の一見学者に過ぎないがとても感慨深くもある。
現在ではガイダンス施設の開館日に有料で立坑内部のガイド付き見学が可能になっている。とはいえガイド料も非常にお値打ち設定だと思うので、利用して損はないはずだ。
炭鉱や産業遺産に関心のある方にはぜひおすすめしたい。
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#炭鉱 #廃 #古建築 #碑 #イベント #文化施設
上歌地区史跡広場
上歌地区史跡広場
上歌地区史跡広場と呼ばれ、ここ上歌地区にまつわる碑を一箇所に集約した場所だが、上歌志内炭砿の東斜坑の閉塞坑口も同じ場所に残っている。
2009年に探訪したものなので、現在は多少変わっているものがあるかもしれない。Googleマップで確認すると、坑口付近の藪具合が気になるが。



上歌志内地区における開鉱は、明治二十八(一八九五)年である。以来昭和二十八(一九五三)年の住友赤平炭鉱との合併まで掘り続けられた。この間石狩石炭、坂炭鉱、住友坂炭砿、住友鉱業歌志内砿業所上歌志内砿などと名称をかえている。二度の災害(大正末期・昭和初期、ともに七十数名殉職)をはじめ様々なできごとがあり、石碑が建立された。山神社周辺に散在していた石碑は、それらのできごとを物語っているのである。この度、住友赤平炭鉱がこの地区からの撤退を決め、土地を北海道に返却することになった。地元の町内会有志と歴史資料収集保存会は石碑の散逸を惜しみ、一ヶ所に集めて保存し後世に伝えることにした。本日その完成式典を挙行したのである。なお、そのための諸経費は住友赤平炭鉱を初めとする市内の有志と、地元の町内会有志などから醵出された。
昭和六十二(一九八七)年十月十日 歌志内歴史資料収集保存会 巌堂謹書
炭山や鉱山では大山祇神を祀っていることが多いが、人知を超える危険も伴う坑内労働では必然的に信仰の対象になった。
この地区の炭鉱関係者にとっては、弔いと祈りの場所でもあるのかもしれない。


昭和三十年代住友赤平・上歌砿と合併に依り、通勤・通院・買物に約四百段の階段を裸電球の光だけで降りて坑内電車で赤平鉱まで通う帰りも又大変な背の重荷を感じて黙々と歩いた仲間達で旧住友社員上歌現住者にて設立記念とする。
上歌在住協賛者氏名(以下略)
立活皆真ナリ
平成二十年八月十一日 建立
上歌砿関係者は、赤平鉱に合併後は赤平まで通勤や用足しに赴いていたようで、この元斜坑の坑内電車を利用して移動していたらしい。地下まで昇降するのは大変だっただろうし、そんな身の上を分かち合う仲間内の結束も強いものだったのだろう。
このような碑をよく読んでみると、その土地の来歴や人々の生活がわかることも多く、大変興味深い。
あと、ここでは碑文の「砿」「鉱」の字がきちんと分けられていて(社名などの正式名称に則っている)、すごくきちんと作られていると思う。
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#廃 #炭鉱 #碑
旧住友赤平炭鉱排気立て坑櫓(解体済)
旧住友赤平炭鉱排気立て坑櫓(解体済)
炭鉱には坑内の空気を循環させるため、外からの新鮮な空気を入れる入気と、内部のガス混じりの空気を排出する排気の坑口があった。こちらは排気坑のものだが、元々は同じ住友の上歌志内炭砿の第一立坑で、昭和初期の住友坂(ばん)炭砿時代に建てられた第一立坑が始まりのようだ。
上歌志内炭砿は1895年(明治28)に開鉱し、石狩石炭株式会社が経営したが1917年(大正6)に坂市太郎の坂炭砿株式会社に経営が移り、のち住友との共同経営となり、近隣の歌志内炭鉱と新歌志内炭鉱も住友が買収することになる。
1953年(昭和28)に住友上歌志内炭砿は合理化のため、隣町鉱区の住友赤平炭鉱に吸収統合された。ちなみにこの年は、奇しくも先の上歌会館(後の悲別ロマン座)が開館した年でもあるが、会館の管理は住友歌志内炭鉱が引き継ぎ、1971年(昭和41)の閉山まで使用された。
第一立坑時代は石炭や人員を運ぶ用途として使われたが、1987年(昭和62)には赤平の排気立坑として転換されることとなった。筒状で覆われているのは排気効率を上げるためであり、転換後のものである。1994年(平成6)の住友赤平炭鉱閉山まで使用された。

ロマン座にはその後も幾度か訪れていた上、立坑周辺は立ち入り制限も特に設けられていなかったはずなので、勿体ないことをしたと思っている。
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#廃 #炭鉱
旧赤間炭鉱ズリ山階段
旧赤間炭鉱ズリ山階段「ズリ山」とは、掘り出した石炭を選別するときに出た屑石を堆積した山のことである。炭鉱施設や遺構近くに円錐状のこんもりとした山があれば、それはズリ山だった可能性が高い。ちなみに、九州地方の炭鉱では「ボタ山」と呼ばれている。
赤平の旧赤間炭鉱のズリ山は炭鉱遺産として保全されており、「日本一のズリ山階段」として777段の段数を誇る。階段は上りやすく整備され、頂上までほぼ一直線のルートだが、実際上ってみると中々きつい。筆者の場合は上りは休憩を入れて約30分ほどだったが、下りは下りでとにかく膝に来るので、時間に余裕を持って挑むのが良いだろう。
季節によって眺めは変わると思うが、苦労しただけの達成感はあるかと思う。
近年はヒグマの目撃情報のため立ち入り制限の時期もあったようだ。念の為クマ避け鈴等対策もした方が良いかもしれない。
バックに見えるのが赤間の選炭工場跡。昼を越して夕方近かったためか逆光になってしまった。
段毎の柱には、全国から公募したプレートの名付け親の名前が記されている。
秋口だったがまだ緑が茂って暖かかった。暑くも寒くもなく丁度良い時季だったかもしれない。
ベンチがあるのは有り難い。
屑石の人工山でも、年月が経つと自然の山に変わっていくようだ。
横に見えるパイプのようなものは、「あかびら火まつり」で灯される火文字である。炭鉱斜陽期に街の灯を消すまいと、京都の大文字焼きにヒントを得たものだそうだ。
公園らしい広場になっている。ここからパノラマビューを堪能する。
右側奥、彼方に見える白い線状のものは芦別大観音。
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#炭鉱 #公園 #山