2024年10月の投稿[21件]
2024年10月30日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
東美唄の橋
東美唄の橋
炭鉱メモリアル公園>>46へ向かう道すがら、左手にぽつぽつと現れる橋が気になったので、その先を探索してみたくなった。
本線から分かれる脇道や林道が気になってしまう性のため、こちらも例外なく興味が湧く。
美唄川を渡ったその先にも炭住区があったということで、痕跡探しである。
▼2009年6月




欄干がコンクリート製で味わいのある形だが、手前は崩壊しかけている。
▼2009年11月

当然クルマが通れる状態ではないので、徒歩で探索。







メモリアル公園の遺構が見渡せる。櫓とポケットの位置関係がわかるが炭鉱跡だということもわかりやすい。





炭住はまだ奥の方にあったようだが、閉山時に既に撤去されていたことは分かっていたため、ここまでにした。
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#廃 #炭鉱 #河川 #橋梁
2024年10月29日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
常盤台の林道
常盤台の林道
炭鉱メモリアル森林公園>>46の裏手に伸びる林道が気になり、辿ってみたというだけの記事である。
2009年のものだが、現在もさほど変わりない景色だろうと思う。
三菱美唄炭鉱のあった常盤台地区を含む東美唄には、かつて最盛期には3万人が暮らしていたという。裏手の道沿いにも、常盤台小学校や常盤台中学校があり、炭住などが密集していた。昭和30年代の空中写真でも確認できる。
その痕跡をもとめて道を辿ってみたが、結論としては草木が生い茂っていたこともあってか、全くと言っていいほど何も見つけられなかった。
もっと深入りすれば何かしら見つかるのかも知れないが、ドライブがメインでカジュアルに見て歩く程度の意識だったため、探索スキルはまだまだ未熟だった。
それでも当時は楽しくて、跡地を辿れただけでもそれなりに満足していたものだった。






道は延々と続きそうなので、一旦引き返し、駐車場の手前からクルマで入っていけそうなので辿り直すことにした。

遺構などの建物の痕跡はまったく見当たらず、森が続くだけである。

この周辺が、炭住区だったのかもしれない。
ルピナスは、ノボリフジとも呼ばれる園芸種で、炭鉱街の花とも言われる。炭住に住む人々は、よく庭に綺麗な花を植えていたという。一説に、炭鉱夫は地底の光のない場所で働いているため、生活の場所ではせめてと色とりどりの花を植えたという。ルピナスもその一つだった。繁殖力が強く、人がいなくなった場所にも殖え続け、炭鉱跡地の象徴的な花となった。
元々輸入種のため外来種になるのだろうが、そんなエピソードを聞くと、これも立派な遺産になるのかもしれない。
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#花 #廃 #炭鉱
2024年10月28日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
炭鉱メモリアル森林公園(旧三菱美唄炭鉱跡)
炭鉱メモリアル森林公園(旧三菱美唄炭鉱跡)
炭鉱遺産に興味を持ち、初めて訪れた場所がこちらの炭鉱メモリアル森林公園である。
元々は三菱美唄炭鉱の跡地で、1対2基の立坑櫓と、それらを操作する開閉所、原炭ポケット、そして封鎖された通洞坑が残されている。これらは炭鉱閉山後に美唄市へ譲渡され、遺産として公園整備されて残っている。施設群は外観のみだが自由に訪れ見学することが出来る。
あくまで森林公園なので、季節によって見やすさは変わる。今まで春、夏、秋と探訪したが、原炭ポケットや坑口などは夏は草木に埋もれて全景を見れないこともある。そんな状態でも自然に還る廃墟美的な魅力があるが、遺産として見物するならやはり春か秋だろう。
▼2009年6月

奥に見えるのは原炭ポケット。三井美唄二坑>>45のものに比べて形も異なれば規模も大きい。

芝刈りの跡が見られるので、最低限公園としての整備はされている。



この規模の建造物が草木に埋もれているのもまた圧巻ではある。





原炭ポケット、三菱のスリーダイヤの建物、当時の炭鉱駅だった常盤台駅など。右写真にはかろうじて立坑櫓らしき姿も見える。張り巡らされたベルトコンベアの建物など、この山間部がこんなに開けていたのかと只々驚く。



▼2011年6月


櫓は操業当時は緑色だったようだが、新築当時は赤色だったため元の色に戻し塗り替えたらしい。森の中では不自然なほどだが、それくらいの色でなければこの場所の存在をアピール出来ないかもしれない。



▼2019年5月












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#公園 #花 #廃 #古建築 #炭鉱
2024年10月27日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
旧三井美唄炭鉱 第二坑選炭場跡
旧三井美唄炭鉱 第二坑選炭場跡
アルテピアッツァ美唄>>43から東へ進むと、盤の沢という地区があり、その道沿いに漏斗型の塔が姿を見せる。2009年に美唄方面に来たのは、炭鉱関係の遺構が目的だったため、これも炭鉱時代のものだということは把握していた。
三井美唄炭鉱第二坑の選炭場跡である。選炭とは、掘り出してきた石炭をクズ石(これをズリという・九州地方ではボタ)と選り分け、そこから更に塊炭や粉炭に分けられ、出荷出来る品質までふるい分ける行程のことである。この漏斗型は原炭ポケットとされ、掘り出した石炭を貯めておく施設で、原炭はそこから付属の選炭機にかけられ選炭された。
三井美唄炭鉱は南美唄に拠点があったが、二坑の経歴については下の通り。
ここ盤の沢の炭鉱は、徳田与三郎が1913年(大正2)に開鉱した徳田炭鉱が始まりである。その後、新美唄炭鉱と改称、1941年(昭和16)に三井が買収、南美唄に事業を展開していた三井美唄炭鉱と合併し、南美唄の炭鉱は「一坑」、盤の沢の炭鉱は「二坑」と称された(注:「1坑」「2坑」とアラビア数字表記の資料もある)。出炭量は増加したが、全国的な熱エネルギーの拡張などで重油の輸入が増加、石炭需要が落ち込んだため三井が企業合理化案を打ち立て、第二坑を個人に租鉱稼働させたものの、1967年(昭和42)に租鉱権期間の満了によりそのまま閉山となった。
※拙著『北の炭山の骸』 「三井美唄炭鉱 第二坑」より抜粋。
▼2009年6月

この形は三井炭鉱のものによく見られ、芦別でも同型のものが見られる。
▼2009年11月

これは気になる。が、その後も通りがかる度に遠くから眺めるだけになっていた。
▼2019年5月
同好の士との探索ツアーでこちらを案内していただき、実に10年越しで拝見することが出来た。
あなたの知らない美唄ツアー2019(『北の細道』 様)

このアングルまで近づけただけで胸が躍る。











選炭施設の中にも漏斗(ホッパー)がある。選炭方法には幾つかの方法があり、時代によってその方法は遷移していったらしい。
選別の方法には、石炭とそれ以外の石のそれぞれの比重を利用して液体中での浮沈により選別する「重液選別」、石炭の微粒子を気泡に付着させ水面に浮かせ、不要物を沈殿させる「浮遊選別」等があり、この施設でも利用されていたようだ。
※拙著『北の炭山の骸』「三井美唄炭鉱 第二坑」より抜粋。
炭鉱の技術的なことに関しては多々ご教授いただいたり、資料を参考にさせていただいた。稚拙な部分についてはご容赦いただきたい。

技術に詳しくなくとも、こういった違いが見られたりするのは興味深い。
元々廃墟美を追い求めるつもりで炭鉱跡に注目していたのだが、炭鉱がどういう歴史を持ちどういうシステムで稼働していたのか、という点も意識すると次第に視界は開けていく。
前ブログでは炭鉱遺産を巡っていた中途の2015年で更新を停止していたが、ここではそれ以降に巡ったものについても徐々に更新していきたいと思う。
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#廃 #炭鉱
旧我路映劇 映写室跡
旧我路映劇 映写室跡美唄市に我路という地区があり、ここも炭鉱街だった。全盛期には所狭しと炭住や商店、娯楽施設等が立ち並び、大変賑やかな街並みが形成されていた。炭鉱も閉山し鉄道も廃線となり、今や多くの建物は消え廃屋も目立ち、住まわれている家屋も点在する程度になっている。
かつての駅前周辺には映画館や料亭、また近年まで営業していた焼き鳥屋や郵便局もあった。それらも閉業し、更に寂寥感が増してしまった。
この駅前通りに、上のような廃址が存在している。家屋でもなく、工場のような大掛かりな施設でもない。
ここにはかつて「我路映劇」という映画館があり、その映写室だと言われる。館自体(客席など)は木造建築だったようだが、そちらは撤去か倒壊かで消失している。何故映写室のみ残っているのかというと、フィルムは可燃性で当時の映写機だと火事になることが多かったため、映写室だけは耐火性のあるコンクリート製になっていたからだそうだ。
我路地区には、3軒程の映画館があったらしく、その内の1軒がこの我路映劇であった。
消えた映画館の記憶 美唄市の項 によると、
テアトル我路劇場/我路映劇/我路映画劇場 と館名の変遷があり
開館は1957年(昭和32)、300名程を収容できる映画館だったようだ。
映画館は炭鉱街では代表的な娯楽施設だったのである。
作者のあさりよしとお氏がここ我路の出身である(生まれは上砂川町)。
隣にあった家屋は(映画館とは無関係)、今ではかなり倒壊してしまったようだ
我路映劇(赤)、我路駅と我路郵便局(ピンク)が見える。今の状況を見ると、これだけの店舗や家屋が並んでいたとは驚きだ。
地図上ではこの頃から我路映劇と呼ばれていたようだ。
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#廃 #炭鉱 #文化施設