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開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡
開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡2009年に訪れたものである。
当時同行していた友人の情報で、昔苫小牧に鹿肉の缶詰工場があったというのを聞き、その跡地を見に行こうと探訪した。千歳市との境界すれすれの、国道沿いガソリンスタンドから東方向へ入ってすぐの場所にある。クルマで通ると見落としそうである。
缶詰工場については小学生の頃の郷土史の教科書『のびゆく苫小牧』にも記載されていたという話なのだが、はてさてそうだったか、いまいち記憶にない(現在も使われているのだろうか、のびゆく苫小牧)。北方警備の八王子千人隊のことなら勇払に碑があり、その当時見学に行ったこともあるためよく覚えているのだが。
以降開拓の歴史を齧るようになってからは、缶詰工場があったことくらいはそれほど不思議な話でもないと感じるが、友人の話を聞いた当初は、明治の時代に鹿肉の缶詰というのが妙に現代的に感じて繋がりづらく、そのような昔に工場というのもイメージしづらかったため、意外な話と驚いたものだ。
逆に無知だからこそ、興味深く探索出来るのかも知れない。
思えばこの頃から身近な史跡に興味を持ち出したような気がする。
史跡 開拓使美々鹿肉罐詰所の跡
明治初期頃までのこの地方は鹿の棲息数も多くことに積雪が少ないため石狩、札幌方面の鹿も食を求めて大挙群衆していた。
明治七年開拓使は、美々鹿肉燻製所を設置し、同十一年十月には、鹿肉罐詰所および脂肪製造所が同所に設けられた。更に翌十二年三月鹿の臓腑、血液などをもって人造硝石床製造所も併設され、建物や設備の増築充実もたびたび行われ、当時の産業の先駆的事業として大きな役割を果している。
また、これらの製造技術を修得させるための生徒養成所および寄宿舎なども附設され、軍艦「比叡」「筑波」の海外渡航に際しては、この罐詰の製品試験も実施して好成績を収め輸出化を図る時、時の開拓使がこの事業発展のため少なからぬ努力を払っていた。
当時の記録によると工場の規模は敷地二〇〇〇坪(六六一一平方米)建物総坪数二六〇坪(六五九平方米)製造所、搾粕所器械室、脂肪室、倉庫の外駐人舎、生徒舎を有し夫々各一棟となっている。
以上のように当時は、産業開発の重要部門として盛業をきわめていたが、鹿の乱獲と大雪による食料難からの飢死、鉄道の開道による開拓などで次第に鹿の激減をきたし禁猟区域を設定して保護対策に当ったが絶滅寸前に等しい状態となり、遂に製造を中止し明治十七年六月十二日をもって廃止されるに至った。
なお、明治十四年九月三日、明治天皇の御巡幸に際しては、生徒舎を御休所に当てられており、現在の記念碑と御前水の中間の地点にあった。
また、この生徒舎は黒田開拓長官のロシア視察の結果、寒地建築として本道に移したため、「校倉造」といわれている。
昭和四十三年十月二十七日
開道百年開基九十五年記念建立
苫小牧市教育委員会
この看板も今ではリニューアルされており、現存しないと見える。
開拓使が道内の産業振興のため、官営事業として様々な事業を行った内の一つが鹿肉の缶詰だった。
この辺りは元々鹿が多く、そのため予てより鹿肉の燻製所があったところに缶詰所や脂肪の製造所、そして鹿の内臓や血液から火薬の原料である硝石を製造する施設も設けられたが、乱獲やまれにみる大雪と寒気に見舞われ、頭数が激減して立ち行かなくなったということらしい。缶詰製造はわずか6年程度の操業だった。
環境保全や自然保護の概念がまだ希薄だった時代のことだが、このようなことは現代において教訓となっているのだろうか。
工場の詳細は苫小牧のホームページにある。
鹿肉缶詰のレプリカは、美術博物館にも展示されている。
開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡
「御駐蹕(ちゅうひつ)之碑」
明治天皇がこの地に巡幸された際、缶詰工場の生徒舎を休息所に充てたとのこと。
この時に、ここの井戸水が御膳に供されたという。御前水については次項にて>>42。
横に立つ大木は、天皇の行幸や工場の行末を見ていたのだろうか。
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#碑
元町トーチカ
元町トーチカトーチカとは、軍事施設の一つで、小型の要塞、掩体壕であり、語源はロシア語(точка)である。多くは、銃口を外に向けるために開けられた銃眼以外は壁に囲われ、兵士が内部に隠れ防御出来るコンクリート製の建造物となっている。
北海道では太平洋岸に点在し、現在も勇払や十勝、釧路、根室に残っているが、所有者が明確でなく事実上放置されたままにある。
太平洋戦争の末期、米軍は戦争の早期終結を目指すため、北海道を占領後に本州侵攻の拠点とする計画を立てていたが、気象条件によりこれらは実行されなかった。一方旧日本軍は、十勝や道東方面の防御を強化し、その沿岸にトーチカを多数配備した。
苫小牧にも勇払方面にかけて多数のトーチカが配備されたが、現在残っているのは3基程であり、緑ヶ丘公園、植苗、元町にそれぞれ現存する。しかし緑ヶ丘公園のものはほぼ埋没しており、かろうじてコンクリ製の遺構の一部が確認出来る程度である。
ここでは元町の浜近くに現存するものを取り上げる。この元町トーチカも以前のブログにコメントで情報を頂き、初めて戦跡の存在を知って2009年に訪れたものである。
住宅地から海へ向かう小道沿いに、カマボコ型の建造物が見える。
かなり古びたコンクリート製で、上部は風雨による侵食か削られている。
側面に出入り口と思われる板張りがあり、開閉は出来ず内部も確認は出来ない。
銃眼は海に向けて開けられているはずだが、その知識に乏しかったため撮り損ねてしまった。
すぐ隣には携帯電話の中継局がある。
遠く彼方には船影が見える。これがもし軍艦だったらと思うと、緊張が走る。
当時の兵士の姿に想いを馳せる。
直ぐ側の海沿いの遊歩道。ここで気軽に散歩が出来るということは幸せなことだと思う。
時の流れにより戦争を語り継ぐ人々は年々減る一方だが、せめて戦跡という形でも記憶を留めつつ、平和を祈りたい。
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#廃 #海 #遊歩道 #戦跡
有珠の沢の湧水
有珠の沢の湧水苫小牧の有珠川上流奥地にある湧水で、以前から有名な場所らしい。
初探訪は2009年、ちょうどここの元ブログを始めた年に、コメントを頂いていた方から教えていただき、訪れてみた。
住宅地から林道を約2km程進んだ先の個人の私有地にあるが、ご厚意で自由に水を汲めるように整備されている。初訪時は先客がおり、4lペットボトル数本に汲み入れているところだった。それなりに知られているようだ。筆者は汲みに来たというよりも、どのような場所かを知りたかっただけだったため、軽く手で掬って飲むに止めたが、ひんやりと冷たく、染み渡るような美味しさだった。
飲用出来るくらいなので水質はお墨付きらしいが、飲水や持ち帰った後の処置については自己責任である。
2012年に再訪した時は、500mlのペットボトルを用意して汲み、その足で樽前山へ登山に行き、乾いた喉をこの水で潤した。湧き水の地産地消である。
普通北海道ではエキノコックスの問題もあるため、このような贅沢は中々出来ない。
ここに上げる写真はその2012年時のものである。
現地までの道端に、小さな鳥居が点在していた。何かが祀られているのだろうか。あるいは不法投棄避けだろうか。
少し開けた場所に駐車スペースが数台分あり、汲み場へ降りる階段が設置されている。
汲み口は3ヶ所ある。
湧き水は有珠川へ流れていく。川霧が立ち込める幽玄な雰囲気だ。
水の流れる景色はずっと見ていられる。夏場だと恰好の涼み処である。
「不法投棄は犯罪です!!」
この辺りは比較的目立つゴミもなく、綺麗な方だった。
整列する植林の様子。
帰り道すがら、少し下流側にほとりに出られる場所がある。
奥に見えるのは高速道路の高架。
思えば、2009年に来た時も同じくここに立ち寄った。静かで水が綺麗で、ずっと居たい場所だった。
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#河川 #湧水
十割そば 幸舟(休業)
十割そば 幸舟(休業)2006年に訪問したお店である。あまりに以前なのだが、個人的に美味しかったので記事として残しておく。
ちなみに現在は休業のようだが、代替わりしつつも2023年頃までは営業していたらしい。
苫小牧西部の外れ、国道沿いの赤い洋風の建物に、大きく看板が掲げられて営業していた。
かつてこの建物は「レストハウスみよし」という白壁に赤屋根のドライブイン的なお店で、主に洋食を提供しており、長年続いていたお店だった。
三角屋根が2つ連なった2階建ての大きな建物は、郊外の長く続く国道のランドマークでもあったと思う。
閉店後しばらくして、建物はそのままに壁を全面赤く塗り替え、十割そばの看板を掲げて営業を始めたのは2004〜2005年頃だろうか。
そば屋といえば和風建築のイメージだが、洋食系レストランのままの形で、しかも色が真っ赤(臙脂っぽい和系の赤色だが)だったため、果たしてこの店は美味しいのか?と疑問を持ちつつも「十割」の文言に惹かれ、通勤でこの前を通るたびに気になっていた場所だった。
2006年になってたまたまこちら方面への用事があり、お店も客の入りが多いと聞いていたため、では期待出来るかと利用してみることにした。
写真は天ざるそばの、田舎そば(更科と選べた)。お蕎麦はボソボソ感が無く、コシがありつつもつるつると食べられ、天ぷらや別添のお塩、またおにぎりも美味しかった。そして食後に韃靼そば茶のサービスがとても嬉しかった。建物のインパクトに負けない、良いお店だった。ちなみにこの時は提供まで待たされたという記憶がない。
またここの蕎麦を食べたいと思ったことは幾度かあったが、なにせ郊外に位置するため、また自身の仕事も変わって滅多にそちら方面を通らなくなったのもあり、いつしか記憶の片隅に追いやられてしまった。
この記事を書くに当たって、今も営業しているかと調べると、どうやら休業中らしい。理由は不明だがストリートビューを見るとおそらく閉業寄りの休業ではないだろうか。
あれから20年近く経ち、またコロナ禍があったことを思えば不思議ではないのだが、もうあのお蕎麦が食べられないと思うと残念だ。
残っていた写真が比較的綺麗に美味しそうに撮れていたので、ここに記録しておくことにする。
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#飲食
御前水の湧水
御前水の湧水鹿肉缶詰製造所跡>>41から更に東へ50m程行くと、明治天皇行幸の際に供したと言われる湧水がある。
こちらも2009年に訪れたものである。
こちらの看板もリニューアルされ、現存しない。
新しい看板の方には、明治天皇行幸の行程が記されており興味深い。
開拓使10ヵ年計画が明治15年に終了するに伴い、ときの開拓使長官黒田清隆が明治天皇に視察を陳情し、北海道への行幸が行われた。
明治14年8月30日に小樽へ上陸、幌内鉄道で札幌へ向かい、開拓使庁(現・道庁)や農学校(現・北海道大学)を視察し、9月2日に千歳で一泊のち美々の缶詰製造所で休止、その際にここの井戸水が御膳に供されたとのこと。
その後はウトナイ、一本松、矢代町(旧樽前山神社があった)、宮前町で休止されたのち夕方には白老に発たれている。
これらは苫小牧市のホームページにも記載されている。
明治天皇行幸跡
昭和に入ってから建てられた碑。
行幸から日が経って明治17年に缶詰工場が廃止されてからは人の流出も激しかっただろうと思われ、顧みられることもなかったのかもしれない。
もっとも、建立当時は皇民化教育が活発だった時代ということもあり、皇室顕彰の一環として縁のあった地を保存する向きになったのだろうと思う。
元々は井戸だったという。地面から滲み出すように水が湛えられている。
水草も繁茂している。
透明度のある綺麗な水だが、現在は飲料水としては適さない水質らしく、飲用禁止の注意書きがある。
道路脇にぽつんと水場がある様は少し不思議な感じがするが、ここに人の営みがあった証でもある。
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#碑 #湧水