No.48, No.47, No.46, No.45, No.44, No.43, No.42[7件]
常盤台の林道
常盤台の林道
炭鉱メモリアル森林公園>>46の裏手に伸びる林道が気になり、辿ってみたというだけの記事である。
2009年のものだが、現在もさほど変わりない景色だろうと思う。
三菱美唄炭鉱のあった常盤台地区を含む東美唄には、かつて最盛期には3万人が暮らしていたという。裏手の道沿いにも、常盤台小学校や常盤台中学校があり、炭住などが密集していた。昭和30年代の空中写真でも確認できる。
その痕跡をもとめて道を辿ってみたが、結論としては草木が生い茂っていたこともあってか、全くと言っていいほど何も見つけられなかった。
もっと深入りすれば何かしら見つかるのかも知れないが、ドライブがメインでカジュアルに見て歩く程度の意識だったため、探索スキルはまだまだ未熟だった。
それでも当時は楽しくて、跡地を辿れただけでもそれなりに満足していたものだった。
原炭ポケットの辺りから伸びる道を進み、車止めのゲートをくぐって振り返ったところ。
クルマでも通れそうなダートをとりあえず歩いてみた。晴れていて日差しが強く、早速体力を消耗する。
当時は気づかなかったが、マップを見るとこの橋の左手側の下に、何か遺構のようなものがあるように見えるのだが…堰堤だろうか。
右手側にあった堰堤。今となっては珍しくもない砂防ダムなど、こんなものを発見しては興奮していた自分が可愛い。
水が流れるのを見て、しばし涼んだり。
昭和45年に作られた堰堤。炭鉱の閉山より2年ほど前のものだと思えば、これも歴史的建造物に感じる。道は延々と続きそうなので、一旦引き返し、駐車場の手前からクルマで入っていけそうなので辿り直すことにした。
先程の橋を越えて、走り続ける。遺構などの建物の痕跡はまったく見当たらず、森が続くだけである。
しばらく走ると、開けた場所に出て、ルピナスの群生が姿を現した。この周辺が、炭住区だったのかもしれない。
ルピナスは、ノボリフジとも呼ばれる園芸種で、炭鉱街の花とも言われる。炭住に住む人々は、よく庭に綺麗な花を植えていたという。一説に、炭鉱夫は地底の光のない場所で働いているため、生活の場所ではせめてと色とりどりの花を植えたという。ルピナスもその一つだった。繁殖力が強く、人がいなくなった場所にも殖え続け、炭鉱跡地の象徴的な花となった。
元々輸入種のため外来種になるのだろうが、そんなエピソードを聞くと、これも立派な遺産になるのかもしれない。
畳む
#花 #廃 #炭鉱 #林道
炭鉱メモリアル森林公園(旧三菱美唄炭鉱跡)
炭鉱メモリアル森林公園(旧三菱美唄炭鉱跡)
炭鉱遺産に興味を持ち、初めて訪れた場所がこちらの炭鉱メモリアル森林公園である。
元々は三菱美唄炭鉱の跡地で、1対2基の立坑櫓と、それらを操作する開閉所、原炭ポケット、そして封鎖された通洞坑が残されている。これらは炭鉱閉山後に美唄市へ譲渡され、遺産として公園整備されて残っている。施設群は外観のみだが自由に訪れ見学することが出来る。
あくまで森林公園なので、季節によって見やすさは変わる。今まで春、夏、秋と探訪したが、原炭ポケットや坑口などは夏は草木に埋もれて全景を見れないこともある。そんな状態でも自然に還る廃墟美的な魅力があるが、遺産として見物するならやはり春か秋だろう。
▼2009年6月
初探訪。市街地からはかなり離れた山間部の森林地帯になる。空知地方の炭山は内陸部のため、閉山し街も消えれば元の深山に戻る。奥に見えるのは原炭ポケット。三井美唄二坑>>45のものに比べて形も異なれば規模も大きい。
横に目をやれば2つの赤い櫓が見える。芝刈りの跡が見られるので、最低限公園としての整備はされている。
当時は公園の案内図があった。こちらは現存しない看板だ。
ビルのような大きさの原炭ポケット。北海道に現存するものでは最大級のものだそうだ。この規模の建造物が草木に埋もれているのもまた圧巻ではある。


立坑櫓の横にある開閉所の建物。電気系統を制御、操作する場所だったが、設備は撤去され内部は空の状態である。普段は立ち入ることは出来ない。
すぐ横に設置してある看板。
炭鉱現役時の写真が掲載されている。原炭ポケット、三菱のスリーダイヤの建物、当時の炭鉱駅だった常盤台駅など。右写真にはかろうじて立坑櫓らしき姿も見える。張り巡らされたベルトコンベアの建物など、この山間部がこんなに開けていたのかと只々驚く。
立坑櫓から道なりに奥へ進むと、コンクリ製の物体が木々の間から覗く。
2連の坑口「通洞坑」である。左側には三菱のスリーダイヤが掲げられている。▼2011年6月
何故かまた6月に来ていたらしい。
立坑はそれぞれ上風坑、下風坑と呼ばれていた。人員の出入りと排気は上風坑から行われていたらしい。入気は下風坑からか。櫓は操業当時は緑色だったようだが、新築当時は赤色だったため元の色に戻し塗り替えたらしい。森の中では不自然なほどだが、それくらいの色でなければこの場所の存在をアピール出来ないかもしれない。


原炭ポケットは、以前よりも更に緑に埋もれているように感じた。▼2019年5月
春に来たのは初めてだ。晴れていたこともあって青い空に櫓の朱が映える。見通しも良い。
市で建てられた新しい看板。実は2011年時点で既に掲げられていた。写真も交えてわかりやすくなっている。
原炭ポケットの足元が見えている。石垣のようなものもあったとは知らなかった。
公園内には桜の木もあったのだ。咲いているのを見て初めて知った。
写真下に上部分しか写っていないが、立坑櫓のふもとには安田侃作品の黒い『妙夢』(札幌駅にある白い彫刻と同型)が設置されており、より公園らしくなっていた。

春の日差しを浴びて気高く立ち続ける。滑車(ヘッドシーブ)部分もよく見える。
こぶしの花も咲いていた。意外と花の名所なのかも知れない。
通洞坑も全体がはっきりと見えた。三菱マークも健在だ。畳む
#公園 #花 #廃 #古建築 #炭鉱
旧三井美唄炭鉱 第二坑選炭場跡
旧三井美唄炭鉱 第二坑選炭場跡
アルテピアッツァ美唄>>43から東へ進むと、盤の沢という地区があり、その道沿いに漏斗型の塔が姿を見せる。2009年に美唄方面に来たのは、炭鉱関係の遺構が目的だったため、これも炭鉱時代のものだということは把握していた。
三井美唄炭鉱第二坑の選炭場跡である。選炭とは、掘り出してきた石炭をクズ石(これをズリという・九州地方ではボタ)と選り分け、そこから更に塊炭や粉炭に分けられ、出荷出来る品質までふるい分ける行程のことである。この漏斗型は原炭ポケットとされ、掘り出した石炭を貯めておく施設で、原炭はそこから付属の選炭機にかけられ選炭された。
三井美唄炭鉱は南美唄に拠点があったが、二坑の経歴については下の通り。
ここ盤の沢の炭鉱は、徳田与三郎が1913年(大正2)に開鉱した徳田炭鉱が始まりである。その後、新美唄炭鉱と改称、1941年(昭和16)に三井が買収、南美唄に事業を展開していた三井美唄炭鉱と合併し、南美唄の炭鉱は「一坑」、盤の沢の炭鉱は「二坑」と称された(注:「1坑」「2坑」とアラビア数字表記の資料もある)。出炭量は増加したが、全国的な熱エネルギーの拡張などで重油の輸入が増加、石炭需要が落ち込んだため三井が企業合理化案を打ち立て、第二坑を個人に租鉱稼働させたものの、1967年(昭和42)に租鉱権期間の満了によりそのまま閉山となった。
※拙著『北の炭山の骸』 「三井美唄炭鉱 第二坑」より抜粋。
▼2009年6月
上の写真とともに、この時初めて見た二坑の原炭ポケット。この形は三井炭鉱のものによく見られ、芦別でも同型のものが見られる。
▼2009年11月
秋に訪れてみると、周りの草木が枯れて足元と隣接する選炭機の姿まで捉えることが出来た。漏斗の吐出口の辺りまで確認出来る。これは気になる。が、その後も通りがかる度に遠くから眺めるだけになっていた。
▼2019年5月
同好の士との探索ツアーでこちらを案内していただき、実に10年越しで拝見することが出来た。
あなたの知らない美唄ツアー2019(『北の細道』 様)
北海道ではようやく春、若葉がぽつぽつと顔を出し始めた頃なのでまだ見通しがいい。このアングルまで近づけただけで胸が躍る。

この様になっていたのかと、納得した。
閉山してから50年超、積雪や融雪を繰り返した影響か、鉄筋が剥き出しになってしまっているが、歴史を感じる。
緑の装身具を纏っているように見えて、美麗だ。
奥にある遺構。選炭機を配していたものだろうか。


選炭施設の、工場の中になるのだろうか。人が通るには狭いコンクリートジャングルを進む。
大きく開いた窓(廃業後に人為的に開けられたものかも知れない)から、道路沿いから見えた施設がこちらだろうか。選炭施設の中にも漏斗(ホッパー)がある。選炭方法には幾つかの方法があり、時代によってその方法は遷移していったらしい。
選別の方法には、石炭とそれ以外の石のそれぞれの比重を利用して液体中での浮沈により選別する「重液選別」、石炭の微粒子を気泡に付着させ水面に浮かせ、不要物を沈殿させる「浮遊選別」等があり、この施設でも利用されていたようだ。
※拙著『北の炭山の骸』「三井美唄炭鉱 第二坑」より抜粋。
炭鉱の技術的なことに関しては多々ご教授いただいたり、資料を参考にさせていただいた。稚拙な部分についてはご容赦いただきたい。
吐出口には色々種類がある。技術に詳しくなくとも、こういった違いが見られたりするのは興味深い。
元々廃墟美を追い求めるつもりで炭鉱跡に注目していたのだが、炭鉱がどういう歴史を持ちどういうシステムで稼働していたのか、という点も意識すると次第に視界は開けていく。
前ブログでは炭鉱遺産を巡っていた中途の2015年で更新を停止していたが、ここではそれ以降に巡ったものについても徐々に更新していきたいと思う。
畳む
#廃 #炭鉱
旧美唄市立栄小学校(アルテピアッツァ美唄)
旧美唄市立栄小学校(アルテピアッツァ美唄)
アルテピアッツァ美唄は先に述べた通り>>43、廃校となった旧栄小学校校舎と体育館を再利用の形で開設された美術館である。
当記事では屋内のギャラリーやアートスペースと共に、旧校舎の建物としての視点でも見ていくが、2009年時点の撮影のため、建物や展示作品に変化があるかもしれないことをお断りしておく。
大まかに栄小学校の来歴を記す。
旧栄小学校の創立は1946年(昭和21)、盤の沢国民学校の開校に端を発し、翌々年には中学校を併置しのちに分離、別に小学校を設けて児童を分けたが、その後も人口増加に伴い児童数は増え続け、1959年(昭和34)には1,250名を数えた。主に三菱炭鉱従業員の子弟が多く通学していた。しかし程なく三菱の人員削減により児童数は激減し、炭鉱の閉山を経て1981年(昭和56)に閉校となった。
※拙著『北の炭山の骸』 「旧栄小学校」より抜粋。
おなじみの彫刻作品と、校舎遠景。
旧体育館棟。
体育館棟アートスペース入口前の作品。
体育館の窓から望む水の広場と木造校舎。
設置してあるストーブと、展示作品。静謐な空間が広がる。
大理石のユニークな作品群。創造も想像も無限大だ。
改築や増築した部分もあるかと思われるが、元々の造形を最大限に活用している。螺旋階段を上がった先は、安田侃作品の展示風景写真のギャラリーや書籍、DVDが視聴できるスペースとなっている。
注目は、この天井だろう。円形を連ねたトラスと言って良いのか、とても特徴的な造りが目を引く。炭鉱町の学校は、景気の良かった時代に建てられたというのもあり中々に洒落ていたり先進的・個性的な造りが多い。
格天井のようだ。
螺旋階段上から。こうして見てみるとさほど広くはなさそうだが、作品と対峙すると広い空間に取り残されているように感じる不思議。
旧校舎棟のギャラリーへ。入口は外の螺旋階段を上った2階になる。
梁が剥き出しになった木造の空間に、絶妙なバランスで配置された彫刻が調和する。
窓から覗く水の広場。前記事では夏だったが、この時は秋に再訪している。
廊下にも展示されている作品。かつての校舎の雰囲気も保ちつつの配置がとても好感が持てる。このパックンフラワーのような、植物の芽生えのような作品が妙に好きだ。秘めた生命力を感じる。
真っ直ぐに伸びる廊下はノスタルジー。薄れつつも残るセンターラインは学校だったことを物語る。
窓際にひっそりと佇むイトトンボ。冬の訪れから身を潜めているのだろうか。筆者の学校時代は近隣には既に木造校舎は見られなかったため、レトロ感もあるが逆に新鮮でもあった。ここに数多くの児童が居たのだと思えば相当に賑やかだったのだろう。
そんな歴史を持ちながらも忘れ去られようとしていた場所が今や人々の憩いの場として再生の道を歩むのはとても理想的な形だと思う。
歴史的遺産として見学するのも面白いかもしれない。
畳む
#古建築 #文化施設 #炭鉱
アルテピアッツァ美唄
アルテピアッツァ美唄
アルテピアッツァ美唄は、美唄市と同市出身の国際的彫刻家である安田侃氏が創立した彫刻美術館である。廃校となった美唄市立栄小学校の体育館と校舎をアートスペースとして再生し、野外にも彫刻を展示している芸術公園となっている。
1991年から体育館の改修を始め、翌1992年にはアルテピアッツァ美唄としてオープン、のちに校舎の改修やギャラリーとしての整備等を経て、カフェスペースやワークスペースも設け、休日には多くの人が訪れる評価の高いスポットとなっている。2016年には正式名を「安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄」として登録博物館(美術館)となった。
かつては炭鉱街の小学校だった、味わいのある木造校舎と体育館、広々とした芝生広場に調和の取れた彫刻、子供も楽しめる水場や森林の散策コース等、美しい景色の中思い思いに楽しめるこの施設は、駐車料金も入場料も無料であるため、気軽に立ち寄ることが出来るが、施設維持のための寄附を募っている。グッズの購入もしくはカフェ利用もおすすめだ。
「カフェアルテ」ではドリンクと軽食を提供しており、窓から眺める景色も品良く素敵だ。そんな景色を前に静かにゆったり出来るコーヒータイムは格別だろう。
安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄
▼2009年6月

芝生広場に佇む木造校舎。最盛期では1,000人以上の児童が在籍していた。
端の一角は幼稚園として使われていた。小学校と併設されていた幼稚園は、小学校閉校後もそのまま運営されていたようだが、2020年に閉園している。
離れにある体育館棟。手前の彫刻と同型のものはJR札幌駅にも設置されている。
とてもシンプルな造形なのだが、見慣れると他の場所で出会っても不思議と氏の作品だとわかる。
丘の上の『天翔』という作品。
巣箱のような時計。
大理石の白が眩しい水の広場。
森の中を散策出来る小道もある。
ルート上に作品が点在しているので、探しながら歩くのも楽しい。
自然観察をしながら森林浴も。
このような枕木の階段がところどころに。ちょっとした探索気分も味わえる。
自然も豊かな素敵な美術館だ。▼2013年2月
冬季のアルテピアッツァ。雪原にぽつんと佇む木造校舎も独特の味わいがある。
冬も訪れる人がそれなりにあるようで、彫刻へのアプローチも出来上がっている。
体育館と、彫刻が点在しているのが見渡せる。
校舎や体育館のギャラリーは冬季でも見学出来る。



冬空の下、夕日を浴びる彫刻が何かを語りかけてくれそうな感じがする。
どの季節に訪れても、素敵な景色を見せてくれるのだろう。畳む
体育館棟、校舎棟内部へ
#公園 #古建築 #文化施設 #花
御前水の湧水
御前水の湧水
鹿肉缶詰製造所跡>>41から更に東へ50m程行くと、明治天皇行幸の際に供したと言われる湧水がある。
こちらも2009年に訪れたものである。
明治天皇行幸記念碑(御前水)の由緒
所在地 苫小牧市字美沢
所有者 苫小牧市
この史跡は明治14年9月3日 明治天皇行幸の際、御小休された箇所で往時、千歳、勇払の境をなす丘陵の道路に沿し湧水あり、良水なるをもって御膳に供され、尓後”御前水”と呼称されている。御巡幸当時は附近住民も開拓入地日浅く土着の基礎も不安定のため移転、離村する者後を絶たず聖跡も荒廃の一途を辿っていたが昭和4年6月、町費をもって記念碑を建て史跡として永遠に保護することとなった。碑文は北海道帝国大学総長男爵佐藤昌介博士の筆になる。
昭和47年8月1日
苫小牧市教育委員会
こちらの看板もリニューアルされ、現存しない。
新しい看板の方には、明治天皇行幸の行程が記されており興味深い。
開拓使10ヵ年計画が明治15年に終了するに伴い、ときの開拓使長官黒田清隆が明治天皇に視察を陳情し、北海道への行幸が行われた。
明治14年8月30日に小樽へ上陸、幌内鉄道で札幌へ向かい、開拓使庁(現・道庁)や農学校(現・北海道大学)を視察し、9月2日に千歳で一泊のち美々の缶詰製造所で休止、その際にここの井戸水が御膳に供されたとのこと。
その後はウトナイ、一本松、矢代町(旧樽前山神社があった)、宮前町で休止されたのち夕方には白老に発たれている。
これらは苫小牧市のホームページにも記載されている。
明治天皇行幸跡
昭和に入ってから建てられた碑。行幸から日が経って明治17年に缶詰工場が廃止されてからは人の流出も激しかっただろうと思われ、顧みられることもなかったのかもしれない。
もっとも、建立当時は皇民化教育が活発だった時代ということもあり、皇室顕彰の一環として縁のあった地を保存する向きになったのだろうと思う。
元々は井戸だったという。地面から滲み出すように水が湛えられている。
水草も繁茂している。透明度のある綺麗な水だが、現在は飲料水としては適さない水質らしく、飲用禁止の注意書きがある。
道路脇にぽつんと水場がある様は少し不思議な感じがするが、ここに人の営みがあった証でもある。畳む
#碑 #湧水
東美唄の橋
東美唄の橋炭鉱メモリアル公園>>46へ向かう道すがら、左手にぽつぽつと現れる橋が気になったので、その先を探索してみたくなった。
本線から分かれる脇道や林道が気になってしまう性のため、こちらも例外なく興味が湧く。
美唄川を渡ったその先にも炭住区があったということで、痕跡探しである。
▼2009年6月
欄干がコンクリート製で味わいのある形だが、手前は崩壊しかけている。
▼2009年11月
当然クルマが通れる状態ではないので、徒歩で探索。
メモリアル公園の遺構が見渡せる。櫓とポケットの位置関係がわかるが炭鉱跡だということもわかりやすい。
炭住はまだ奥の方にあったようだが、閉山時に既に撤去されていたことは分かっていたため、ここまでにした。
畳む
#廃 #炭鉱 #河川 #橋梁