トップ画像
TOP > Photo

スイーツから廃墟まで。北の国からお送りする日常ゆるゆる探検。2009年から始めた前ブログの記事を再編、移植しています


No.41

開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡

開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡

202410220106166-admin.jpg
2009年に訪れたものである。
当時同行していた友人の情報で、昔苫小牧に鹿肉の缶詰工場があったというのを聞き、その跡地を見に行こうと探訪した。千歳市との境界すれすれの、国道沿いガソリンスタンドから東方向へ入ってすぐの場所にある。クルマで通ると見落としそうである。

缶詰工場については小学生の頃の郷土史の教科書『のびゆく苫小牧』にも記載されていたという話なのだが、はてさてそうだったか、いまいち記憶にない(現在も使われているのだろうか、のびゆく苫小牧)。北方警備の八王子千人隊のことなら勇払に碑があり、その当時見学に行ったこともあるためよく覚えているのだが。

以降開拓の歴史を齧るようになってからは、缶詰工場があったことくらいはそれほど不思議な話でもないと感じるが、友人の話を聞いた当初は、明治の時代に鹿肉の缶詰というのが妙に現代的に感じて繋がりづらく、そのような昔に工場というのもイメージしづらかったため、意外な話と驚いたものだ。

逆に無知だからこそ、興味深く探索出来るのかも知れない。
思えばこの頃から身近な史跡に興味を持ち出したような気がする。

202410220106165-admin.jpg
史跡 開拓使美々鹿肉罐詰所の跡

 明治初期頃までのこの地方は鹿の棲息数も多くことに積雪が少ないため石狩、札幌方面の鹿も食を求めて大挙群衆していた。
 明治七年開拓使は、美々鹿肉燻製所を設置し、同十一年十月には、鹿肉罐詰所および脂肪製造所が同所に設けられた。更に翌十二年三月鹿の臓腑、血液などをもって人造硝石床製造所も併設され、建物や設備の増築充実もたびたび行われ、当時の産業の先駆的事業として大きな役割を果している。
 また、これらの製造技術を修得させるための生徒養成所および寄宿舎なども附設され、軍艦「比叡」「筑波」の海外渡航に際しては、この罐詰の製品試験も実施して好成績を収め輸出化を図る時、時の開拓使がこの事業発展のため少なからぬ努力を払っていた。
 当時の記録によると工場の規模は敷地二〇〇〇坪(六六一一平方米)建物総坪数二六〇坪(六五九平方米)製造所、搾粕所器械室、脂肪室、倉庫の外駐人舎、生徒舎を有し夫々各一棟となっている。
 以上のように当時は、産業開発の重要部門として盛業をきわめていたが、鹿の乱獲と大雪による食料難からの飢死、鉄道の開道による開拓などで次第に鹿の激減をきたし禁猟区域を設定して保護対策に当ったが絶滅寸前に等しい状態となり、遂に製造を中止し明治十七年六月十二日をもって廃止されるに至った。
 なお、明治十四年九月三日、明治天皇の御巡幸に際しては、生徒舎を御休所に当てられており、現在の記念碑と御前水の中間の地点にあった。
また、この生徒舎は黒田開拓長官のロシア視察の結果、寒地建築として本道に移したため、「校倉造」といわれている。

 昭和四十三年十月二十七日
 開道百年開基九十五年記念建立
        苫小牧市教育委員会

この看板も今ではリニューアルされており、現存しないと見える。

開拓使が道内の産業振興のため、官営事業として様々な事業を行った内の一つが鹿肉の缶詰だった。
この辺りは元々鹿が多く、そのため予てより鹿肉の燻製所があったところに缶詰所や脂肪の製造所、そして鹿の内臓や血液から火薬の原料である硝石を製造する施設も設けられたが、乱獲やまれにみる大雪と寒気に見舞われ、頭数が激減して立ち行かなくなったということらしい。缶詰製造はわずか6年程度の操業だった。

環境保全や自然保護の概念がまだ希薄だった時代のことだが、このようなことは現代において教訓となっているのだろうか。


工場の詳細は苫小牧のホームページにある。
鹿肉缶詰のレプリカは、美術博物館にも展示されている。
開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡

202410220106168-admin.jpg「御駐蹕(ちゅうひつ)之碑」
明治天皇がこの地に巡幸された際、缶詰工場の生徒舎を休息所に充てたとのこと。
この時に、ここの井戸水が御膳に供されたという。御前水については次項にて>>42

202410220106167-admin.jpg横に立つ大木は、天皇の行幸や工場の行末を見ていたのだろうか。
畳む


#碑

道央,苫小牧