No.85, No.84, No.83, No.82, No.81, No.80, No.79[7件]
オタモイ遊園地跡と唐門
オタモイ遊園地跡と唐門
2008年の訪問記である。
訪問したこと自体はよく覚えてはいるのだが、何がきっかけで知ったのかはもう覚えていない。ジブリ映画『千と千尋の神隠し』の舞台のモデルでは?ということで話題に上がっていたからだろうか。
当時の小樽の「かま栄」のサイトに、オタモイの往年の写真や来歴が紹介されていて、俄然行ってみたくなったことは覚えている。
※現在はサイトリニューアルなどで既にその記事は無くなっている。
その昔、とある料亭の店主が、「何も無い」といわれた小樽に客を呼び寄せたいと、オタモイ海岸の風光明媚であることを知り、出資の助けも得て一心発起で海岸の断崖上に豪華な宴会場や食堂などの御殿を建設し、一躍観光の目玉となり栄えた場所の跡地である。小樽の街外れ、国定公園に指定されているオタモイ園地に位置する。
ここから海岸近くへ下りていく。
現在地からは幅員の狭い強烈なヘアピンカーブを下っていく。おそらくこの看板は現存しないと思われるが、崖上の唐門の遊歩道も描かれており、遊園地が廃業後もオタモイ地蔵尊への参道として使われていたのだろう。
カーブ部分が赤く塗られているのは、一時通行止めだったこともあるのだろうか。
このカーブが、車両も通行は出来るのだがとにかく狭く、対向車とギリギリ離合出来るかという幅だった。
訪問当時は友人が同行していたのだが、「こんなところでパトカーに出くわしたら怖いねー」などと冗談交じりに話していたら、そのパトカーが前方に現れて凍りついた記憶がある。
特に止められたりすることもなくそのまま徐行で行き違い過ぎ去ったが、常に巡回していたのだろうか。
この頃から立入禁止となってはいたが、そんなこともあり、突破して遊歩道を進む気分にはなれず、無難に遠くから眺めるに留めてしまった。
多分この当時でも参道として使われてはいたと思うが、今思うと勿体ないことをした。
カーブを下りきったところは開けており、何台か休憩中のクルマが駐車していた。そこから眺めた海。曇り空だったのが残念だ。
この看板は今はリニューアルされ現存しない。[当代一を誇った夢の里、
オタモイ遊園地跡]
〈オタモイ〉
地名は、アイヌ語のオタモイ(砂の入り江の意)に由来する。
現在、小樽唯一のカタカナ表示の町名。
オタモイ海岸は、市の北部にあり、高島岬から塩谷湾までの約10kmに及ぶ海岸の一部で、付近には赤岩山(371m)など標高200m前後の急峻な崖と奇岩が連なっている。一帯は昭和38年ニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定され、祝津・赤岩海岸とともに雄大な景観を誇り、訪れる人々を魅了している。
かつて、この景勝地に大リゾート基地が存在した。昭和初期、隆盛を誇った割烹「蛇の目」(花園1)の店主加藤秋太郎は小樽には見所がないという知人の言葉に奮起し、名所探勝の日々にあけくれる。そして、ついに、古来白蛇の谷と呼ばれたこの地を探し当て、昭和11年「夢の里オタモイ遊園地」を完成させた。
その規模は当代一を誇り、ブランコ、すべり台、相撲場等の遊園施設のほか、龍宮閣や辨天食堂といった宴会場や食堂を設けた。特に京都の清水寺を凌ぐといわれた龍宮閣は、切り立った岩と紺碧の海に囲まれ、まるで龍宮城のお伽の世界のようだったという。
最盛期には一日数千人の人々で賑わったこの施設も戦争が始まると贅沢とみなされ客足が遠のき、戦後、これからという昭和27年5月営業再開を目前に控えながら焼失した。
現在、遊園地の跡を偲ばせるものは断崖の上に残った龍宮閣の礎石と遊歩道トンネルの部分だけである。
また、オタモイには神威岬(積丹半島)が女人禁制の頃の悲恋にまつわる子授け地蔵尊の伝説があり、今でも多くの人々に信仰されている。
看板によると、現在地のこの駐車スペースに辨天食堂があったらしい。
リニューアルされた看板では説明文は少々簡略化され、地蔵尊については触れられていない。
この道を辿れば、あの唐門のトンネルへ繋がる。
唐門の奥にうっすら見える赤い柵、あれが龍宮閣のあった断崖になる。入り江に張り出すような崖の上に造られたそうだ。その更に先に、オタモイ地蔵尊の社があるが、守り人の方が近年亡くなられたことで堂の存続、また移設かの間で揺れているらしい。そのような中、昨年は例大祭も行われたという情報もある。
歴史的には遊園地よりも古い由来を持つ場所になるようだ。
道は整備されておらず、普通の遊歩道を想定して行くと進むのが躊躇われるような道だ。
道の脇に中華風の階段と欄干が残されている。階段は藪に埋もれてかろうじてわかる程度だが、これを発見しただけでも心が躍った。最近某有名企業がここオタモイを観光地として再開発する計画が浮上したが、やはりなと思っていた通り、資金面で開発中止となった。
現代の安全基準では、崩落が続く海岸の開発と維持には膨大な費用がかかるだろうと思われる。それだけの費用対効果が見込めなければ早々に放棄することになる。テーマパークも余程世界観がしっかり作り込まれていなければ、客の入りは一見で終わってしまう。
とはいえ、本当に現役当時のオタモイの賑わいとあの遊歩道が再現されたなら、ぜひ足を運んでみたかったとは思う。
いや、それとも昔の賑わいは昔のものとして、幻としておく方が良いのかもしれないが。
開業時から降雪や地滑りの事故はあったようだが、衰退の一因に戦争があるのが、なんとも言えない虚しさを覚える(直接の原因は失火)。
駐車スペースの片隅に湧き水があった。
クルマでヘアピンを戻り、道の脇に階段が延びていたので辿ってみる。
赤岩山を経由して、水族館方面へ抜ける遊歩道が延びる。興味はあるが、長距離を歩く準備はしていなかったのでパスした。
目的はこちらなので、上っていく。
街を見下ろせる高台に、あの唐門が設置されていた。
元々海岸の入口に建立されていたもので、こちらに移設されたものらしい。
ここから見えたのは海か崖か、はたまたお伽の世界だったのか。
色剥げがあるが、概ねまだ綺麗な方だと思う。移設時に修復されたのかもしれない。
街を望む。何事もなく現実の世界に戻れそうだ。畳む
#廃 #古建築 #海 #遊歩道 #湧水
旧落合会館(栄町映画劇場)
旧落合会館(栄町映画劇場)
旧東明駅舎>>82やアルテピアッツァ美唄>>43>>44からほど遠くない場所に、若干派手目な色合いの建物がある。
こちらも、炭鉱時代の映画館だった場所である。
通称「落合会館」といい、落合町にあるためそう呼ばれていたようだ。
このアングルしか撮っていないため分かりづらいが、奥行きがそこそこあり、定員800人を収容できたといわれている(※後述参照)。
2009年に撮影したが、この当時から民間企業の所有となっており、現在も敷地内は立入禁止となっている。
外観のみ拝見させてもらった。
外壁の配色もなかなかのものだが、この前衛アート的なデザインにも注目だ。外壁も色褪せているため全体像がどうだったのか、いつ頃描かれたものかは不明だが、昭和の景気の良かった時代なら割と自由度も高く、飛び抜けたものも多かったのかもしれない。
この旧落合会館は、消えた映画館の記憶 美唄市の項 によると、栄町映画劇場/栄町会館 とあるのがそれと思われる。
開館が1960年頃で、1961年の名簿では三菱鉱業の経営だったらしく、定員は500とある。上で800人と書いたが、これも筆者が探訪当時に伝え聞いていた情報で、今となっては出所が何処だったかはわからない。当時参考にさせてもらったサイトの多くは閉鎖となり、確認のしようがない。口伝からだとしたなら尾鰭もつきそうなのでまあ、あるある案件だろう。
閉館は1965年頃とあり、この頃にはあの我路映劇>>49に経営が移っている。この年(昭和40)は三菱美唄炭鉱が三菱鉱業から分社して美唄炭礦株式会社の経営に変わった年である。炭鉱の衰退と共に閉館となり、4〜5年程度の営業だったようだ。
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#炭鉱 #廃 #古建築 #文化施設
旧東明駅舎と4110形機関車
旧東明駅舎と4110形機関車
美唄市街地からアルテピアッツァ>>43>>44へ向かう途中に、旧三菱鉱業美唄鉄道の「東明駅」の駅舎が残されている。
そしてこの駅舎と一緒に、炭鉱時代に活躍した「4110形式十輪連結タンク機関車2号」が保存されている。
機関車は美唄市の指定文化財となっており、近年では駅舎と共に「炭鉄港」の構成文化財に指定されている。
ここに挙げた写真は2009年と2019年のものである。
その後、これらの保全のためのクラウドファンディングも行われ、更に見学しやすく綺麗に整備されたようだ(筆者も寄附しているのだが、その後訪れる機会がなく成果を確認出来ずに年月を経てしまっている)。
▼2009年7月
この年の前月にアルテピアッツァや炭鉱メモリアル森林公園>>46等に向かう時に通った道だったのだが、その時は気づかず通り過ぎていた。後で知って>>80の帰り道に寄ってみた。まったく古びていない、この時から綺麗に保たれていた駅舎。当時は個人的に廃墟趣味の方が強くあったため、本音を言えば綺麗すぎて物足りない感があった。
それからかなり年月が経ち、炭鉱遺産の機運が盛り上がって今も変わらず残されているのを見ると、これは素晴らしいことだったのだと考え直さざるを得ない。
裏手のホーム側。駅だった面影がはっきりとある。駅舎の内部には入れなかったが、見た限りは劣化もなく塗装も定期的にされていたのか、汚れも見当たらなかった。花壇もあり、ちょうど花も咲いていたのが人の手が入っている証拠だ。
傍らには蒸気機関車が展示されている。こちらも見る限り綺麗だ。
説明板はかなり年季が入っていた。美唄鉄道の勾配路線と、大量の石炭の運搬に耐えるための力強い十輪「E型」機関車で、当時は多く作られたが現在はここでしか見られないものだそうだ。
三菱造船がドイツの4100形を基に製造、閉山までの50年超を走り続けた機関車である。
かつての路線は、サイクリングロードとなり、傍らにはプラットホームの跡も残っている。▼2019年5月
その間も駅舎前の道はしばしば通っており、駅舎の姿は目にしていたのだが、10年経って再訪。間近で見ても変わらず綺麗だ。この時も駅舎内の入口は固く閉ざされた状態だったが。
窓も目隠しされているので、内部を窺うことは出来ない。
機関車も変わらず綺麗。2号車の「2」が眩しい。ただそれなりに傷みはあったようで、このあとクラファンが行われている。
あの説明板はさすがに新調されていた。横書きで見やすくなった。機関車の仕様など、詳しい人には興味深いだろうと思う。
三菱鉱業美唄鉄道は、元々は石狩石炭株式会社が敷設した軽便鉄道が始まりであった。
三菱美唄炭鉱の始まりは、鉱区の所有者黒柳氏と、同地に進出した石狩石炭の間に係争が起こったことに遡る。黒柳側が勝訴したものの、弁護士飯田氏への報酬支払が滞ったため、鉱区の所有は飯田に移り、飯田美唄炭鉱として1913年(大正2)に操業を始めた。敗訴側の石狩石炭は鉄道を敷設し、飯田に譲渡したことで炭鉱経営が進んだが、資金調達のため販売権を委ねていた三菱に買収され、1915年(大正4)に三菱美唄炭鉱、及び三菱美唄鉄道となった。前年に第一次世界大戦が開戦したこともあり、その三菱が景気需要に乗る思惑もあったとされる。
こちらの注意看板は錆びついたまま放置されている。サイクリングロードは、我路キャンプ場の方まで伸びているようだが、途中道が荒れ通行止めになっているため通行する人はほぼ居ないと思われる。
荒れた道とプラットホーム跡、自転車専用道路の標識が物悲しさを誘う。鉄道の路線跡は、サイクリングロード跡にもなりつつある。
現在、駅舎は炭鉄港の催しの一環で定期的に内部公開が行われているらしい。
東明駅舎一般公開・2号機関車の見学サポート(美唄市)
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#炭鉱 #鉄道 #古建築
新宝来軒 ガタタンラーメン
新宝来軒 ガタタンラーメン
>>80で上芦別のことに触れ、文末に「再訪していない」と書いたが、2017年に食事だけのために上芦別町に来ていたことを思い出したのでこの際記事にする。
この頃は同じく炭鉱関係探索の同士と行動することが多かったため、近郊まで足を運んだ際に新宝来軒に立ち寄った。
一人行動だと食事は無頓着になりがちのため食事処を開拓しづらいのだが、詳しい人と一緒に行動すると名店を知ることが出来るのはメリットだと思う。
芦別といえばガタタン。とろみのある中華系スープをチャーハンやラーメンなどに和えた、炭鉱町の郷土料理である。漢字では「含多湯」と書き、旧満州から芦別に引き揚げた村井豊後之亮氏が余った食材で作った中華料理店のまかない料理が評判を呼び、提供したのが始まりだそうだ。
こちら新宝来軒では、ガタタンメニューだとスープ、ラーメン、チャーハン、焼きそばを提供している。
上の写真の手前は筆者が注文したガタタンラーメン。奥は同行者が注文した炭鉱メニュー、ブラックダイヤモンドだ。そちらもガタタンラーメンなのだが、醤油ベースに背脂、ニンニクなどが入ったスタミナ系メニュー。名の通り、石炭をイメージした黒い白玉団子も入っている。
2017年当時は器が普通のラーメンどんぶりだったが、今は木の器になっているようだ。
ガタタンラーメンがこの店の看板メニューになる。ガタタンの名はよく聞いていたが食べるのはこれが初めてだった。塩味ベースであっさりめ、エビやイカなどの海鮮と豚肉、野菜と、こちらにも白玉が入る、この店のオリジナルメニューだそうだ。餡がスープの役割も果たしており、最後まですべて食べられる。玉子縮れ麺に安心感を覚えるのは好みといえばそうなのだろうけど、北海道民には多いのではないだろうか。
この時は1月だったため、冷えた体にちょうどいいメニューだった。個人的には好みの味だ。
他のスタンダードなラーメンに比べやはり値段はお高めだが、満足感は得られる。
土日と平日で注文できるメニューが異なるそうなので、目当てのものがある場合は訪れる際要チェック。
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#飲食 #炭鉱
上芦別さんぽ 三菱芦別の痕跡を追う
上芦別さんぽ 三菱芦別の痕跡を追う
2009年に芦別に来たのには、もう一つ目的があった。
筆者の父と祖母が炭鉱時代の上芦別に住んでいたため、予てからどのような場所か気になっていたからである。
それは昭和20年代後半から30年代半ばのことで、祖母の再婚相手が三菱芦別炭鉱の従業員だったためだ。その人は電話交換士を務めており、坑内員ではなかったようだ。
時折母を介して語られる父と祖母の芦別での暮らしを聞き、炭鉱に興味を持ったタイミングで芦別方面に行った際には上芦別へも行ってみようと思っていた。
炭鉱員だった祖母の再婚相手は筆者から見れば義理の祖父、父から見れば継父(義父)になるため、血縁は無い。互いに子連れ再婚だったこともあり、嫁側の実子であった父にとっては肩身の狭い家庭生活だったようだ。
昔は、結婚するなら炭鉱の人と云われており(坑内・坑外員の別有りかは不明だが)、祖母の場合も再婚の相手探しに周りが色々世話を焼いたのではないかと思われる。現在の恋愛結婚とは事情が異なる婚姻だったのだろう。
そう云われるくらいには炭鉱もまだ戦後復興の時期で比較的景気が良かった時代のことであった。
上芦別の北側の啓南公園内に、三菱系炭鉱の記念碑がある。重厚で立派な碑だ。かつての三菱芦別鉱業所のあった場所である。

三菱鉱業芦別炭砿
北菱産業芦別炭砿 記念碑
かつてこの地には、三菱芦別炭砿(昭和23年開坑ー同39年閉山)、北菱芦別炭砿(昭和27年開坑ー同45年閉山)の二つのヤマがあった。
戦後のわが国経済復興の原動力として、石炭産業はエネルギー資源の供給という国家的使命を果たし、両砿もその一翼を担って、最盛時には年産31万トンの出炭を達成、敢然その使命を遂行した。しかしながら、昭和30年代後半からエネルギー革命によって石炭は撤退を余儀なくされ、ついに両砿とも閉山の已むなきに至り、ヤマの男たちも相次いでこの地を去って行った。
この碑は、かつてこの地に於いて石炭産業に従事した者たちの足跡をささやかながら、後世に遺そうとするものである。
昭和55年10月11日
三菱
北菱 芦別炭砿を偲ぶ会
題字 坂元忠雄 書
碑文 髙橋 信 書
隣には、上芦別出身の俳人鷹島牧二(1932〜)の句碑が立っている。三菱芦別鉱業所に勤務する傍ら句作を行った。「北国人 言葉少なに 冬に入る」
碑の句は18歳の時の作。炭鉱の斜陽化により当地を離れ、東京経済大学に学んだ。
三菱芦別炭鉱は1933年(昭和8)に樺太の炭鉱開発に注力するため、一旦芦別を閉山している。樺太の三菱塔路炭鉱がそれである。
取り寄せた除籍によると、件の義祖父の連れ子(実子)の出生地が樺太の塔路となっており、そこで働いていた時に子供が生まれたということが読み取れる。
戦前の樺太で生まれ育ったという年配の人は親類以外で度々見かけたが、これを知って俄然樺太という地が身近に感じられるようになった。
終戦後三菱は樺太から引き揚げ、1947年(昭和22)に芦別炭砿を再開、1964年(昭和39)の閉山まで操業した。
北海道内の主要炭鉱の中では比較的早い時期の閉山だったためか、炭鉱施設の痕跡は少なめである。
旧三菱芦別炭鉱あかしや倶楽部の建物。鉱員専用の娯楽施設で、結婚式場としても利用された。炭鉱の工場施設は既に取り壊されて残っていなかったものの、この周辺には三菱関係の炭住や厚生施設等が他に転用されつつ残っているらしい。
探訪当時は情報も少なく、それらを見つけることが出来なかった。
父と祖母が住んでいた場所は、500番地台と聞いていたのだが、そうなると上芦別駅周辺区域となり、どちらかというと三菱よりは明治炭鉱のエリアになるような感じがする。近年除籍謄本を取り寄せてみたところ、件の義祖父の本籍が富岡(上芦別)100番台となっており、それだと上記の啓南公園の近辺になる。
もっとも、実際に住んでいた場所は500番台だったのかもしれないことを踏まえて、そちらの方を街撮りよろしく回ってみた。

消防署。
「文屋」の文字が見えるが文具店ではないと思う。現在は左隣の家屋と合わせて現存せず、更地となっている。
この板張りの建物が文具屋だったらしいが、こちらも既に現存していない。
古い建物と新しい(リフォームか)家が混在する。
古い商店の倉庫。
立派な寺院。
公園なのか、跡地なのか。現在はこの遊具のようなものは撤去されたのか見当たらない。
上芦別のメインストリート。今でも大きく変わった感じはしない。手前の畳屋は今も営業している。
JR上芦別駅。
駅前の商店街。この当時から様子はあまり変わっていない。
駅前バス停横の電話ボックスが可愛いかったのだが、現在この木のオブジェは取り外され普通の電話ボックスになっている。
シラカバ風の電灯柱は今もある模様。当時のこれらの写真と今のGoogleマップなどで見比べると、やはりところどころ空き家や老朽していた建物は取り壊されているようだ。
父も2009年以前にこの辺りを訪れたことがあったらしいのだが、昔のものは何も無かったと言っていたためそれほど期待もしていなかった。
それでもこのような場所だったと知れただけでもまあ良かったと思う。帰宅してから気付いたが、父が通っていたと思われる旧上芦別小学校の跡地を見逃してしまったのは残念だ。
再訪は未だ出来ていないので、これもまた課題とする。
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#炭鉱 #碑
西芦別〜頼城 旧駅舎と旧校舎、坑夫像
西芦別〜頼城 旧駅舎と旧校舎、坑夫像
炭鉱の痕跡を探す旅、当時頼りにしていた空知の炭鉱遺産マップをチェックしつつ回ってみたが、2009年当時で既に主だった炭鉱関係施設は解体撤去されていた。残っていても他の用途に転用されているものが多かった。
藪の中や奥地へ分け入ればまだ残っているものも多そうだが(現在、芦別市では「芦別炭鉱遺産マップ 」も公開されており、情報も詳しく記載されている)、現在は自身の探索意欲が落ち着き、再度の挑戦は全くの未定となってしまった。
2009年の初訪当時は先述のマップに載っていた、とあるアーチ形の橋台(具体的な名称は失念した)を目当てに探したものの見つけられず断念したため、町中を適当に回ってみたものである。当記事の写真はほぼ2009年、旧頼城小学校(星槎大学)のみ2016年のものである。
西芦別の郵便局から町中に入ると、突き当りに民間企業の倉庫がある。旧三井芦別鉄道「三井芦別駅」の駅舎だった建物である。こちらはホーム側と思われるが、庇の形状など若干の名残があるように見える。

反対側に回ってみると、駅舎らしい雰囲気が残っている。
奥の青い屋根は郵便局だが現在は建て替えられている。理容院の両脇の建物は現存していない。しばらく進むと西芦別の炭住エリアが見え、そちらからは頼城橋>>77へ繋がる。
国道を更に南下すると炭山川橋から旧炭山川橋梁>>78が見える。
緑泉方面へ進むと、道沿いにポツリと佇む木造の建物。こちらも旧三井芦別鉄道「緑泉駅」の駅舎だった。腰折れ屋根(ギャンブレル)と板張りの壁が味わい深い。
廃止後は個人住宅として使われていたようだが、2019年に解体撤去されている。
更に進むと今は通信制の星槎大学キャンパスとなっている、「旧頼城小学校」の校舎がある。炭鉱時代当時のマンモス校らしく、裏手にはレンガ造りの長大な廊下の校舎が連なる。過去には幾度か内部公開も行われていたが、現在こちらも「炭鉄港」の構成文化財に指定されており、炭鉄港のポータルサイト上で校舎内を内観 出来るようになっている。
頼城の市街地へ入ると、道沿いの小さな広場の隅に立てられている新しい「坑夫の像」。元々は西芦別の三井鉱業所労務課外勤前庭に設置されていた「坑夫の像」が老朽化したため、こちらは1997年(平成9)に新たに作られたレプリカ像になる。原像は1944年(昭和19)に軍需省が派遣した軍需生産美術推進隊彫刻班の古賀忠雄(のちに日本彫刻家協会理事長)らによって制作されたもので、実在の坑夫がモデルになっており、原像の方が幾分スマートな作りだった。
このような坑夫像は北海道では北炭夕張や上砂川にもあり、戦時の増産体制の中、生産士気を高揚させるために全国的に制作され立てられたものである。
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#炭鉱 #古建築 #鉄道
山荘前の廃リフト
山荘前の廃リフト積丹半島の婦美という地区に、「山荘前」というバス停があり、そのすぐ傍に謎のケーブルリフトがある。
周囲は草木に覆われて錆つき、一目で今は使用されていない廃リフトだと判るが、バス停からは奥に延びる廃道然とした道があり、おそらくこの奥が例の山荘へと続くのだろうなと思った。
のちに調べてみると、以前「チニカ山荘」と呼ばれた宿泊施設があり、2004年の台風で休業後そのまま廃墟化しているということだった。
山荘へはバス停からの山道を大回りで1.5km程進まなければならず、リフトはその山荘へのショートカットとして使われていた、と思われたが、調べてみるとどうも更に以前のスキー場のものという話もあり、昔の空中写真も見てみると他にアプローチできる道もあったようで、山荘用に使われていたものでもないような感じもしているが真相は如何に。
▼2008年4月
ロープウェー?ケーブルカー?この箱が動くのではなく、機械室か制御室的なものだろうか。「日本ケーブル株式会社」の銘板が見える。
クルマから降りて撮影していたら、天気雨が降ってきた。
▼2014年8月
前回の初訪のあとに調べて山荘の存在を知り、いつか廃山荘にもリベンジしてみたいとは思っていたが、この頃になると廃墟に対する情熱は薄れ、さほど興味は惹かれなくなった。既に探索している先達もおられ、少し検索すればすぐにどんな状況かがわかったため、リスクを冒してまでもという気持ちになっていた。山荘の利用者だったという方もちらほら見受けられ、人によっては思い出の場所でもあったのだ。
この日は夏の晴天で、雲ひとつない青空に錆色のリフトが映えていた。
このリフトがどのような使われ方をされていたのかが気になり、色々調べ直したが、当時の写真は見つからなかった。
代わりに、1968年に発行された雑誌の対談記事に、山荘の開業がこの年の昭和43年(1968)、道開発センターという会社が建設し、当時の積丹の観光目玉として期待された施設だったという記述を見つけた。そして、積丹岳にスキー場を作れば山荘により利用客の便も良くなるだろう、また、ロープウェー(おそらくスキーリフト用)も誘致したいなどの当時の社長の意気込みも語られており、もしかしたらこのリフトはその構想の先鞭だったのかもしれない。先に記した古いスキー場については触れられておらず、存在したかはわからない。
謎だったものが解明したと思われたが、また謎に戻ってしまったような感じがする。
参考:国立国会図書館デジタルコレクションより『北海評論』23(7)
その後積丹岳にスキー場が出来たという情報はなく、理想通りの開発は出来なかったと思われる。
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#廃