No.50, No.49, No.48, No.47, No.46, No.45, No.44[7件]
旧我路映劇 映写室跡
旧我路映劇 映写室跡
美唄市に我路という地区があり、ここも炭鉱街だった。全盛期には所狭しと炭住や商店、娯楽施設等が立ち並び、大変賑やかな街並みが形成されていた。炭鉱も閉山し鉄道も廃線となり、今や多くの建物は消え廃屋も目立ち、住まわれている家屋も点在する程度になっている。
かつての駅前周辺には映画館や料亭、また近年まで営業していた焼き鳥屋や郵便局もあった。それらも閉業し、更に寂寥感が増してしまった。
この駅前通りに、上のような廃址が存在している。家屋でもなく、工場のような大掛かりな施設でもない。
ここにはかつて「我路映劇」という映画館があり、その映写室だと言われる。館自体(客席など)は木造建築だったようだが、そちらは撤去か倒壊かで消失している。何故映写室のみ残っているのかというと、フィルムは可燃性で当時の映写機だと火事になることが多かったため、映写室だけは耐火性のあるコンクリート製になっていたからだそうだ。
我路地区には、3軒程の映画館があったらしく、その内の1軒がこの我路映劇であった。
消えた映画館の記憶 美唄市の項 によると、
テアトル我路劇場/我路映劇/我路映画劇場 と館名の変遷があり
開館は1957年(昭和32)、300名程を収容できる映画館だったようだ。
映画館は炭鉱街では代表的な娯楽施設だったのである。
ツタが見事なまでに覆っている。下部はピンク色で特徴的な廃址だ。
漫画『宇宙家族カールビンソン』にも登場している我路映劇。作者のあさりよしとお氏がここ我路の出身である(生まれは上砂川町)。
多分冬場の方が形を捉えやすいだろう。これらは2009年の撮影である。隣にあった家屋は(映画館とは無関係)、今ではかなり倒壊してしまったようだ
昭和34年の我路の市街図。下が北側。我路映劇(赤)、我路駅と我路郵便局(ピンク)が見える。今の状況を見ると、これだけの店舗や家屋が並んでいたとは驚きだ。
地図上ではこの頃から我路映劇と呼ばれていたようだ。
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#廃 #炭鉱 #文化施設
東美唄の橋
東美唄の橋
炭鉱メモリアル公園>>46へ向かう道すがら、左手にぽつぽつと現れる橋が気になったので、その先を探索してみたくなった。
本線から分かれる脇道や林道が気になってしまう性のため、こちらも例外なく興味が湧く。
美唄川を渡ったその先にも炭住区があったということで、痕跡探しである。
▼2009年6月
公園駐車場入口近くの橋。下部をトラス補強してあるが、片方の欄干は落ちてしまっている。
この状態なので、さすがに進むのは躊躇する。
初夏の穏やかな川の景色。
しばらく下った場所にも橋がある。欄干がコンクリート製で味わいのある形だが、手前は崩壊しかけている。
▼2009年11月
秋になれば状況も変わるだろうと再訪したところ、こちらの橋の先が行けそうだったため、進んでみることにした。当然クルマが通れる状態ではないので、徒歩で探索。
苔が絨毯になっている。この時期の苔も美しい。
橋の先の藪をしばらく進むと、堰堤に。
放水が小川を作って流れていく。
この辺りは清水台という地区だったようだ。
この岩は自然物なのか人工物なのか。
おそらく道だったものが岩壁(擁壁)に沿って続いているように見える。
少々高所に上ってきているみたいだ。メモリアル公園の遺構が見渡せる。櫓とポケットの位置関係がわかるが炭鉱跡だということもわかりやすい。
自然の造形美。

住居跡ではないだろうが、ブロック的な物の破片やパイプのような残骸が残されていた。
苔むしている様子は相当の年月の経過を思わせる。炭住はまだ奥の方にあったようだが、閉山時に既に撤去されていたことは分かっていたため、ここまでにした。
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#廃 #炭鉱 #河川 #橋梁
常盤台の林道
常盤台の林道
炭鉱メモリアル森林公園>>46の裏手に伸びる林道が気になり、辿ってみたというだけの記事である。
2009年のものだが、現在もさほど変わりない景色だろうと思う。
三菱美唄炭鉱のあった常盤台地区を含む東美唄には、かつて最盛期には3万人が暮らしていたという。裏手の道沿いにも、常盤台小学校や常盤台中学校があり、炭住などが密集していた。昭和30年代の空中写真でも確認できる。
その痕跡をもとめて道を辿ってみたが、結論としては草木が生い茂っていたこともあってか、全くと言っていいほど何も見つけられなかった。
もっと深入りすれば何かしら見つかるのかも知れないが、ドライブがメインでカジュアルに見て歩く程度の意識だったため、探索スキルはまだまだ未熟だった。
それでも当時は楽しくて、跡地を辿れただけでもそれなりに満足していたものだった。
原炭ポケットの辺りから伸びる道を進み、車止めのゲートをくぐって振り返ったところ。
クルマでも通れそうなダートをとりあえず歩いてみた。晴れていて日差しが強く、早速体力を消耗する。
当時は気づかなかったが、マップを見るとこの橋の左手側の下に、何か遺構のようなものがあるように見えるのだが…堰堤だろうか。
右手側にあった堰堤。今となっては珍しくもない砂防ダムなど、こんなものを発見しては興奮していた自分が可愛い。
水が流れるのを見て、しばし涼んだり。
昭和45年に作られた堰堤。炭鉱の閉山より2年ほど前のものだと思えば、これも歴史的建造物に感じる。道は延々と続きそうなので、一旦引き返し、駐車場の手前からクルマで入っていけそうなので辿り直すことにした。
先程の橋を越えて、走り続ける。遺構などの建物の痕跡はまったく見当たらず、森が続くだけである。
しばらく走ると、開けた場所に出て、ルピナスの群生が姿を現した。この周辺が、炭住区だったのかもしれない。
ルピナスは、ノボリフジとも呼ばれる園芸種で、炭鉱街の花とも言われる。炭住に住む人々は、よく庭に綺麗な花を植えていたという。一説に、炭鉱夫は地底の光のない場所で働いているため、生活の場所ではせめてと色とりどりの花を植えたという。ルピナスもその一つだった。繁殖力が強く、人がいなくなった場所にも殖え続け、炭鉱跡地の象徴的な花となった。
元々輸入種のため外来種になるのだろうが、そんなエピソードを聞くと、これも立派な遺産になるのかもしれない。
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#花 #廃 #炭鉱 #林道
炭鉱メモリアル森林公園(旧三菱美唄炭鉱跡)
炭鉱メモリアル森林公園(旧三菱美唄炭鉱跡)
炭鉱遺産に興味を持ち、初めて訪れた場所がこちらの炭鉱メモリアル森林公園である。
元々は三菱美唄炭鉱の跡地で、1対2基の立坑櫓と、それらを操作する開閉所、原炭ポケット、そして封鎖された通洞坑が残されている。これらは炭鉱閉山後に美唄市へ譲渡され、遺産として公園整備されて残っている。施設群は外観のみだが自由に訪れ見学することが出来る。
あくまで森林公園なので、季節によって見やすさは変わる。今まで春、夏、秋と探訪したが、原炭ポケットや坑口などは夏は草木に埋もれて全景を見れないこともある。そんな状態でも自然に還る廃墟美的な魅力があるが、遺産として見物するならやはり春か秋だろう。
▼2009年6月
初探訪。市街地からはかなり離れた山間部の森林地帯になる。空知地方の炭山は内陸部のため、閉山し街も消えれば元の深山に戻る。奥に見えるのは原炭ポケット。三井美唄二坑>>45のものに比べて形も異なれば規模も大きい。
横に目をやれば2つの赤い櫓が見える。芝刈りの跡が見られるので、最低限公園としての整備はされている。
当時は公園の案内図があった。こちらは現存しない看板だ。
ビルのような大きさの原炭ポケット。北海道に現存するものでは最大級のものだそうだ。この規模の建造物が草木に埋もれているのもまた圧巻ではある。


立坑櫓の横にある開閉所の建物。電気系統を制御、操作する場所だったが、設備は撤去され内部は空の状態である。普段は立ち入ることは出来ない。
すぐ横に設置してある看板。
炭鉱現役時の写真が掲載されている。原炭ポケット、三菱のスリーダイヤの建物、当時の炭鉱駅だった常盤台駅など。右写真にはかろうじて立坑櫓らしき姿も見える。張り巡らされたベルトコンベアの建物など、この山間部がこんなに開けていたのかと只々驚く。
立坑櫓から道なりに奥へ進むと、コンクリ製の物体が木々の間から覗く。
2連の坑口「通洞坑」である。左側には三菱のスリーダイヤが掲げられている。▼2011年6月
何故かまた6月に来ていたらしい。
立坑はそれぞれ上風坑、下風坑と呼ばれていた。人員の出入りと排気は上風坑から行われていたらしい。入気は下風坑からか。櫓は操業当時は緑色だったようだが、新築当時は赤色だったため元の色に戻し塗り替えたらしい。森の中では不自然なほどだが、それくらいの色でなければこの場所の存在をアピール出来ないかもしれない。


原炭ポケットは、以前よりも更に緑に埋もれているように感じた。▼2019年5月
春に来たのは初めてだ。晴れていたこともあって青い空に櫓の朱が映える。見通しも良い。
市で建てられた新しい看板。実は2011年時点で既に掲げられていた。写真も交えてわかりやすくなっている。
原炭ポケットの足元が見えている。石垣のようなものもあったとは知らなかった。
公園内には桜の木もあったのだ。咲いているのを見て初めて知った。
写真下に上部分しか写っていないが、立坑櫓のふもとには安田侃作品の黒い『妙夢』(札幌駅にある白い彫刻と同型)が設置されており、より公園らしくなっていた。

春の日差しを浴びて気高く立ち続ける。滑車(ヘッドシーブ)部分もよく見える。
こぶしの花も咲いていた。意外と花の名所なのかも知れない。
通洞坑も全体がはっきりと見えた。三菱マークも健在だ。畳む
#公園 #花 #廃 #古建築 #炭鉱
旧三井美唄炭鉱 第二坑選炭場跡
旧三井美唄炭鉱 第二坑選炭場跡
アルテピアッツァ美唄>>43から東へ進むと、盤の沢という地区があり、その道沿いに漏斗型の塔が姿を見せる。2009年に美唄方面に来たのは、炭鉱関係の遺構が目的だったため、これも炭鉱時代のものだということは把握していた。
三井美唄炭鉱第二坑の選炭場跡である。選炭とは、掘り出してきた石炭をクズ石(これをズリという・九州地方ではボタ)と選り分け、そこから更に塊炭や粉炭に分けられ、出荷出来る品質までふるい分ける行程のことである。この漏斗型は原炭ポケットとされ、掘り出した石炭を貯めておく施設で、原炭はそこから付属の選炭機にかけられ選炭された。
三井美唄炭鉱は南美唄に拠点があったが、二坑の経歴については下の通り。
ここ盤の沢の炭鉱は、徳田与三郎が1913年(大正2)に開鉱した徳田炭鉱が始まりである。その後、新美唄炭鉱と改称、1941年(昭和16)に三井が買収、南美唄に事業を展開していた三井美唄炭鉱と合併し、南美唄の炭鉱は「一坑」、盤の沢の炭鉱は「二坑」と称された(注:「1坑」「2坑」とアラビア数字表記の資料もある)。出炭量は増加したが、全国的な熱エネルギーの拡張などで重油の輸入が増加、石炭需要が落ち込んだため三井が企業合理化案を打ち立て、第二坑を個人に租鉱稼働させたものの、1967年(昭和42)に租鉱権期間の満了によりそのまま閉山となった。
※拙著『北の炭山の骸』 「三井美唄炭鉱 第二坑」より抜粋。
▼2009年6月
上の写真とともに、この時初めて見た二坑の原炭ポケット。この形は三井炭鉱のものによく見られ、芦別でも同型のものが見られる。
▼2009年11月
秋に訪れてみると、周りの草木が枯れて足元と隣接する選炭機の姿まで捉えることが出来た。漏斗の吐出口の辺りまで確認出来る。これは気になる。が、その後も通りがかる度に遠くから眺めるだけになっていた。
▼2019年5月
同好の士との探索ツアーでこちらを案内していただき、実に10年越しで拝見することが出来た。
あなたの知らない美唄ツアー2019(『北の細道』 様)
北海道ではようやく春、若葉がぽつぽつと顔を出し始めた頃なのでまだ見通しがいい。このアングルまで近づけただけで胸が躍る。

この様になっていたのかと、納得した。
閉山してから50年超、積雪や融雪を繰り返した影響か、鉄筋が剥き出しになってしまっているが、歴史を感じる。
緑の装身具を纏っているように見えて、美麗だ。
奥にある遺構。選炭機を配していたものだろうか。


選炭施設の、工場の中になるのだろうか。人が通るには狭いコンクリートジャングルを進む。
大きく開いた窓(廃業後に人為的に開けられたものかも知れない)から、道路沿いから見えた施設がこちらだろうか。選炭施設の中にも漏斗(ホッパー)がある。選炭方法には幾つかの方法があり、時代によってその方法は遷移していったらしい。
選別の方法には、石炭とそれ以外の石のそれぞれの比重を利用して液体中での浮沈により選別する「重液選別」、石炭の微粒子を気泡に付着させ水面に浮かせ、不要物を沈殿させる「浮遊選別」等があり、この施設でも利用されていたようだ。
※拙著『北の炭山の骸』「三井美唄炭鉱 第二坑」より抜粋。
炭鉱の技術的なことに関しては多々ご教授いただいたり、資料を参考にさせていただいた。稚拙な部分についてはご容赦いただきたい。
吐出口には色々種類がある。技術に詳しくなくとも、こういった違いが見られたりするのは興味深い。
元々廃墟美を追い求めるつもりで炭鉱跡に注目していたのだが、炭鉱がどういう歴史を持ちどういうシステムで稼働していたのか、という点も意識すると次第に視界は開けていく。
前ブログでは炭鉱遺産を巡っていた中途の2015年で更新を停止していたが、ここではそれ以降に巡ったものについても徐々に更新していきたいと思う。
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#廃 #炭鉱
旧美唄市立栄小学校(アルテピアッツァ美唄)
旧美唄市立栄小学校(アルテピアッツァ美唄)
アルテピアッツァ美唄は先に述べた通り>>43、廃校となった旧栄小学校校舎と体育館を再利用の形で開設された美術館である。
当記事では屋内のギャラリーやアートスペースと共に、旧校舎の建物としての視点でも見ていくが、2009年時点の撮影のため、建物や展示作品に変化があるかもしれないことをお断りしておく。
大まかに栄小学校の来歴を記す。
旧栄小学校の創立は1946年(昭和21)、盤の沢国民学校の開校に端を発し、翌々年には中学校を併置しのちに分離、別に小学校を設けて児童を分けたが、その後も人口増加に伴い児童数は増え続け、1959年(昭和34)には1,250名を数えた。主に三菱炭鉱従業員の子弟が多く通学していた。しかし程なく三菱の人員削減により児童数は激減し、炭鉱の閉山を経て1981年(昭和56)に閉校となった。
※拙著『北の炭山の骸』 「旧栄小学校」より抜粋。
おなじみの彫刻作品と、校舎遠景。
旧体育館棟。
体育館棟アートスペース入口前の作品。
体育館の窓から望む水の広場と木造校舎。
設置してあるストーブと、展示作品。静謐な空間が広がる。
大理石のユニークな作品群。創造も想像も無限大だ。
改築や増築した部分もあるかと思われるが、元々の造形を最大限に活用している。螺旋階段を上がった先は、安田侃作品の展示風景写真のギャラリーや書籍、DVDが視聴できるスペースとなっている。
注目は、この天井だろう。円形を連ねたトラスと言って良いのか、とても特徴的な造りが目を引く。炭鉱町の学校は、景気の良かった時代に建てられたというのもあり中々に洒落ていたり先進的・個性的な造りが多い。
格天井のようだ。
螺旋階段上から。こうして見てみるとさほど広くはなさそうだが、作品と対峙すると広い空間に取り残されているように感じる不思議。
旧校舎棟のギャラリーへ。入口は外の螺旋階段を上った2階になる。
梁が剥き出しになった木造の空間に、絶妙なバランスで配置された彫刻が調和する。
窓から覗く水の広場。前記事では夏だったが、この時は秋に再訪している。
廊下にも展示されている作品。かつての校舎の雰囲気も保ちつつの配置がとても好感が持てる。このパックンフラワーのような、植物の芽生えのような作品が妙に好きだ。秘めた生命力を感じる。
真っ直ぐに伸びる廊下はノスタルジー。薄れつつも残るセンターラインは学校だったことを物語る。
窓際にひっそりと佇むイトトンボ。冬の訪れから身を潜めているのだろうか。筆者の学校時代は近隣には既に木造校舎は見られなかったため、レトロ感もあるが逆に新鮮でもあった。ここに数多くの児童が居たのだと思えば相当に賑やかだったのだろう。
そんな歴史を持ちながらも忘れ去られようとしていた場所が今や人々の憩いの場として再生の道を歩むのはとても理想的な形だと思う。
歴史的遺産として見学するのも面白いかもしれない。
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#古建築 #文化施設 #炭鉱
旧沼東小学校跡
旧沼東小学校跡円形校舎は、昭和30年代に全国的に流行し、狭い土地に多くの生徒児童を収容出来るという、省スペース化が見込める様式として取り入れられた。
当時斬新なデザインの上、建築コストを抑えることも出来たと言われるが、教室は概ね切り分けたバウムクーヘンのような形となり、机の配置が難しく、また方角によっては採光しづらいという問題もあったという。これらのような現実的な欠点もあってかその後は廃れ、スタンダードな方形校舎が多くを占めるようになった。
美唄市立沼東小学校は、開校は明治期だが、1959年(昭和34)に現在の場所にめがね校舎として新築された。この時点で1,570名の児童数を抱えるマンモス校であった。1965年(昭和40)に三菱美唄炭鉱が分社化し、1972年(昭和47)に閉山。翌年にも租鉱炭鉱が閉山し、人口の流出が相次ぎ1974年(昭和49)に閉校となった。
炭鉱町としての美唄を知ったきっかけが、この小学校跡だった。
この小学校跡に関しては、あまり褒められたことではないのだが、かなり以前に心霊スポットとして知った。しかし、円形の校舎というのがあまりに珍しく感じられ、むしろ興味は建物そのものに向いた。かつての炭鉱町の小学校ということで、場所も自力で大体の位置を探し当て、いつかはと機会を伺った。2009年前後に炭鉱跡に興味が湧き、始めに足を運んだのが美唄だったためこの際是非にと立ち寄った。
しかしその時は夏場で、藪の中をクルマで進み、川の対岸、木々の間にうっすら見える校舎を視界に捉えただけで撤退した。探索初心者ゆえ、徒歩という概念が抜け落ちており、随分無茶をしたものだ。現在はクルマでは入ることは出来ず、また公にも立入禁止となっている(そもそも立入を認める廃墟が存在するのだろうか)。
夏以外の季節であればと、その年の秋に再訪した。それから、冬、春と訪れるごとに、違う顔を見せてくれた。
▼2009年11月
こちらは以前に、不審火で焼けたと言われており、鉄筋のトラスや剥がれかけのトタンに焼けた跡が見受けられる。
上空からはメガネのように見えたため、「めがね校舎」と呼ばれていたという。
閉校後に1棟が取り壊され、もう1棟のみが残された。
理由は不明である。校舎の1棟を青少年自然の家に転用する計画が上がり、残る1棟は解体されたとのこと。※2025.6.19追記
基礎の地盤が沈んでいるのだろうか。閉校後、敷地が近隣炭鉱のズリ捨て場となり地面が上がったため、校舎周りに水が溜まるようになったそうだ。※2025.6.19追記
外部の陽光を取り込んだ天井のトップライト。
▼2013年〜2017年冬
右側に見えるのは手洗い場だったようだが、タバコの燃えがらが積み上がっているのは、心霊界隈で線香代わりに供えるそうだが。火事の元になりかねないので、控えて欲しいのだが…
浸水していた1階部分はスケートリンクのように結氷していた。
薄氷が迫り出してクレープ状になっている。
心霊現象とは、恐怖感が妄想を膨らませ、そして幻覚を引き起こすのかも知れない(霊感無し人間の戯言である)。
雪深い地域だが、こんな中でも元気に登校していたのだろう。
▼2019年5月
この間、市やボランティアで校舎内の落書きを消す活動が行われていたらしく、だいぶ綺麗になったと感じる。
なんだか只乗りさせてもらっているようで、申し訳なく思う(そもそも立ち入るべきではないのだが)。
春の訪問は初めてだ。陽気が心地よい。
円形の建物なら、魚眼レンズを使用すると面白いのではと思った。
黒板が、窓際と廊下側の2面に設置されている。明るく見やすい方を選び机を配置したのだろう。
特に関係者でもないのだが、改めて、ここへの思い入れが深いことに気づいた。
今後は滅多に行くことはないと思うが…
階段に虹彩が落ちていた。
再利用などがなされなかったのは立地的な問題もあるのだろうが、廃校遺産としてこのままでも末永く残ることを願う。
※記事公開後に判明した箇所がいくつかありましたので、追加訂正しました。
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#廃 #古建築 #炭鉱