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元町トーチカ
元町トーチカ
トーチカとは、軍事施設の一つで、小型の要塞、掩体壕であり、語源はロシア語(точка)である。多くは、銃口を外に向けるために開けられた銃眼以外は壁に囲われ、兵士が内部に隠れ防御出来るコンクリート製の建造物となっている。
北海道では太平洋岸に点在し、現在も勇払や十勝、釧路、根室に残っているが、所有者が明確でなく事実上放置されたままにある。
太平洋戦争の末期、米軍は戦争の早期終結を目指すため、北海道を占領後に本州侵攻の拠点とする計画を立てていたが、気象条件によりこれらは実行されなかった。一方旧日本軍は、十勝や道東方面の防御を強化し、その沿岸にトーチカを多数配備した。
苫小牧にも勇払方面にかけて多数のトーチカが配備されたが、現在残っているのは3基程であり、緑ヶ丘公園、植苗、元町にそれぞれ現存する。しかし緑ヶ丘公園のものはほぼ埋没しており、かろうじてコンクリ製の遺構の一部が確認出来る程度である。
ここでは元町の浜近くに現存するものを取り上げる。この元町トーチカも以前のブログにコメントで情報を頂き、初めて戦跡の存在を知って2009年に訪れたものである。
住宅地から海へ向かう小道沿いに、カマボコ型の建造物が見える。
かなり古びたコンクリート製で、上部は風雨による侵食か削られている。
側面に出入り口と思われる板張りがあり、開閉は出来ず内部も確認は出来ない。
銃眼は海に向けて開けられているはずだが、その知識に乏しかったため撮り損ねてしまった。
すぐ隣には携帯電話の中継局がある。
遠く彼方には船影が見える。これがもし軍艦だったらと思うと、緊張が走る。当時の兵士の姿に想いを馳せる。
直ぐ側の海沿いの遊歩道。ここで気軽に散歩が出来るということは幸せなことだと思う。時の流れにより戦争を語り継ぐ人々は年々減る一方だが、せめて戦跡という形でも記憶を留めつつ、平和を祈りたい。
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#廃 #海 #遊歩道 #戦跡
有珠の沢の湧水
有珠の沢の湧水
苫小牧の有珠川上流奥地にある湧水で、以前から有名な場所らしい。
初探訪は2009年、ちょうどここの元ブログを始めた年に、コメントを頂いていた方から教えていただき、訪れてみた。
住宅地から林道を約2km程進んだ先の個人の私有地にあるが、ご厚意で自由に水を汲めるように整備されている。初訪時は先客がおり、4lペットボトル数本に汲み入れているところだった。それなりに知られているようだ。筆者は汲みに来たというよりも、どのような場所かを知りたかっただけだったため、軽く手で掬って飲むに止めたが、ひんやりと冷たく、染み渡るような美味しさだった。
飲用出来るくらいなので水質はお墨付きらしいが、飲水や持ち帰った後の処置については自己責任である。
2012年に再訪した時は、500mlのペットボトルを用意して汲み、その足で樽前山へ登山に行き、乾いた喉をこの水で潤した。湧き水の地産地消である。
普通北海道ではエキノコックスの問題もあるため、このような贅沢は中々出来ない。
ここに上げる写真はその2012年時のものである。
現地までの道端に、小さな鳥居が点在していた。何かが祀られているのだろうか。あるいは不法投棄避けだろうか。
少し開けた場所に駐車スペースが数台分あり、汲み場へ降りる階段が設置されている。
汲み口は3ヶ所ある。
湧き水は有珠川へ流れていく。川霧が立ち込める幽玄な雰囲気だ。
水の流れる景色はずっと見ていられる。夏場だと恰好の涼み処である。
「不法投棄は犯罪です!!」この辺りは比較的目立つゴミもなく、綺麗な方だった。
整列する植林の様子。
帰り道すがら、少し下流側にほとりに出られる場所がある。奥に見えるのは高速道路の高架。
思えば、2009年に来た時も同じくここに立ち寄った。静かで水が綺麗で、ずっと居たい場所だった。畳む
#河川 #湧水
道の駅 サンフラワー北竜
道の駅 サンフラワー北竜
初めて立ち寄った時のインパクトが強烈だった。
ひまわりの町の道の駅なので、そのようなお花畑的(揶揄ではない)な雰囲気を想像していたら、入口の門にまず圧倒される。
突如そびえ立つ中華テイストの双竜の門。なんのテーマパークかと訝りつつ門をくぐると、広い駐車場にオランダ風の大きな建物が現れる。ヒマワリ要素は道端に立つ外灯のオブジェと、建物の塔のマークにほんのりあるくらいである。いや、オランダといえば風車とひまわり畑、またゴッホのひまわりの絵が連想されるのでその世界観を表しているのか、と最近になって気づいた(多分)。
拙著同人誌の道の駅本 には、そこに気づかずにヒマワリ要素は無いと書いてしまった。認識不足だった。許されたし。
これが例の門「北竜門」である。双頭の竜(東洋の竜だと思うので、龍の字が相応しいかも知れない)が向かい合う門はヒマワリのイメージにミスマッチにも思えるが、北「竜」町なのでまあそうなるだろうか。ただこの振り切ったインパクトのお陰で個性的な道の駅として忘れられない存在感がある。
2017年に道の駅スタンプラリーで訪れた時は、改修工事で施設が休業中だった。冒頭の写真は2012年のもの。
オランダ風の建物には温泉、ホテル、レストランや売店があり、充実した施設である。
この時のスタンプは、ホテル棟の方で押印出来た。
この北竜門、実は上ることが出来る。しかしよく見るとこの門、西洋の城郭にも見える。
上って国道方面を見る。竜の圧が強い。
上って建物方面を望む。改装中の足場が組まれていたので肝心の外観はホテル棟以外は見れなかった。スタンプラリーで短期間で各地を回ると、こんな場面にも出くわすのはあるあるである。
もう一方の顔ドアップ。中々の迫力である。
2019年に立ち寄った時には、カップのひまわりアイスをいただいた。種が入っていて香ばしく美味しかった。売店ではひまわり油などの製品やお米など北竜産の商品、また黒千石大豆なども扱っている。
離れの24時間トイレも綺麗だったので、休憩に利用しやすい道の駅である。
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#飲食 #道の駅
北竜町ひまわりの里
北竜町ひまわりの里
初訪は2006年だが、2013年7月に再訪した時のものを主に上げる。
北竜町ひまわりの里の「ひまわりまつり」は、毎年7月中旬から8月中旬に開催される。見時は8月上旬のようだが、2013年は7月29日に訪れたところ、写真の通りにかなりの満開で見応えがあった。まつり期間は観光センターで食事の提供があったり、ひまわりの里内ではひまわり迷路やアイガモ牧場、ぐるっと巡回するトラクター観覧車など、子供から大人まで楽しめる様々な催しが行われる。
北竜町ひまわりの里は発祥が1979年と、それなりに歴史がある。農協職員が視察先の旧ユーゴスラビアのひまわり畑に触発され、町で栽培を始めたのが始まりで、ひまわりまつりは1987年に初開催された。ひまわり油製造や、ひまわりブランドを冠した減農薬米「ひまわりライス」の生産などを経て、年々作付面積を増やし、現在では約23haに200万本という、日本最大級のひまわり畑となった。また、街の外灯もひまわりモチーフの装飾だったり、施設にひまわりの名が付いていたりと、すっかり町の顔となっている。
一面の花畑は惹かれる風景の一つだが、ヒマワリという花に関しては、素朴だが存在感が大きいだけにピークを過ぎた辺りの外見がとても物悲しく、子供時代の「過ぎゆく夏休み」のような切なさも感じる。そんなヒマワリの海は力強い生命力と壮大な郷愁という相反する要素が同居する風景でもあると思う。毎年見に行きたいような、行きたくないような、複雑な感情が絡み合う。
しかし一旦その中に身を投じれば、只々圧倒されつつ夢中でファインダーを覗くことになるのだが。






2006年に訪れた時にはダチョウ牧場があったが、2013年もあった。
ダチョウもヒマワリを眺めているのだろうか。
二重まぶたのせいか、目が綺麗だと思う。
同じ個体かはわからないが、どことなく2006年に見た時より大人しい。
正面顔は滑稽な感じだが、心を鷲掴みにされそうだ。2006年時のダチョウの写真があったので上げておく。
当時100円で餌やり体験が出来たので、興味があったのでさせてもらった。

オスは体の羽毛が黒く、くちばしが赤い。

こちらはメス。結構ガッツガツいっている。
割と仲が良さそうだった。オス1頭メス2頭くらいで飼育されていた。まつりの期間だけ幌延から移送して飼育展示されていたようで、元々ここで飼われていたわけではなくヒマワリとの関係性も特に無さそうだった。
現在はまつりのマップにもプログラムにもダチョウ牧場の記載はないため(昨年までは2つの迷路の内の1つに「ダチョウ迷路」という名が付いていたが)、ダチョウ牧場は過去の催しとなってしまったようだ。
アイガモ牧場の方は2006年にも見たが、現在も続いている。




しばらく観察していると、大変社会性のある生態のように感じる。愛らしいが妙に生活感がある。
地元の中学生が栽培しているという、世界のひまわりのコーナー。様々な色合いのものがあって興味深いが、真っ赤や黒に近い赤さのものは燃える炎のようで、よりサンフラワーと呼ぶに相応しい。
ヒマワリの蕾はこんな感じ。

なかなか壮観である。
「ひまわり号」を添えておとぎの国のような風景。

整列して栽培されているのがわかる図。

「夏休み」というものに会いたくなったら、また来よう。
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#イベント #公園 #鳥類 #花
雄冬岬・白銀の滝
雄冬岬・白銀の滝
国道開通記念
日本海に迫る断崖絶壁の厳しい自然条件のもと陸の孤島といわれてきたこの地に、北海道開発局が二十余年の歳月をかけて難関に挑みここに開通した
住民百年来の悲願達成の喜びと、明るい未来への希望をこめて、この碑を建立する
昭和56年11月10日
石狩市浜益区雄冬地区は、日本海に面した断崖が迫る地域に位置する。
かつて北側は増毛、南側は浜益まで国道が開通していたが、その間の雄冬の集落へは陸路が閉ざされており、徒歩で山越えをするか、航路を使うしか往来の手段が無かったため「陸の孤島」と呼ばれていた。
国道231号線は北側が1973年(昭和48)に増毛町歩古丹までが、南側が1974年(昭和49)に浜益村千代志別までが開通したが、その間に位置する雄冬までは工事が難航し、1981年(昭和56)にようやく全線開通した。集落間や札幌までの行き来が容易となり、地域住民の長年の悲願が達成された。
しかしその喜びもつかの間、開通後40日目に雄冬岬トンネルで崩落事故が発生し、2年後に復旧したが冬期の通行止めを挟み、その翌春の開通となった。通年開通になるのは1992年(平成4)と、近年まで交通に不便を強いられた地域である。
ちなみに、北海道で最後に電話のダイヤル化が完了した地でもあり、相当の難所の地だったことを物語る。
そのような地に、国道開通記念の上記の碑が建てられている。
国道231号は通称「オロロンライン」とも呼ばれ、日本海を望む海岸線が風光明媚な区間だが、老朽化などで数多いトンネルも付け替えが進み、開通当初浜益村(現在は区)内で14本あったものが現在では6本となっている。雄冬岬の碑近くのトンネルは、2006年の撮影時は雄冬岬トンネルだったが、現在は全長4000m超級の浜益トンネルの北側坑口となっている。トンネルが長くなればなるほど、風景を楽しめる区間が短くなってしまうのが残念だが、こればかりは仕方がない。
岬の碑のすぐ後ろに、立派な滝があり、通行時に目に入ったので立ち寄った。それなりの落差はあり、優美な雰囲気がある。

白銀の滝
この滝は暑寒別、天売焼尻国定公園内の暑寒連邦の山肌を伝い流れるせせらぎが、岬の急斜面に壮大な水しぶきとともに、幾千もの銀の柱となって日本海へと、流れ落ちており、国道開通記念に、白銀の滝と命名した。

遊歩道橋の上から目の前に迫る滝。
流れは白銀橋の下をくぐり、海へと注ぐ。
橋の先の歩道は旧道。断崖のすぐ下に伸びているが、現在はどうなっているか。気になりつつもこの時は深入りしなかったが、この先にはトンネル工事の作業用坑口と、無名滝があるらしい。畳む
#滝 #碑
十割そば 幸舟(休業)
十割そば 幸舟(休業)
2006年に訪問したお店である。あまりに以前なのだが、個人的に美味しかったので記事として残しておく。
ちなみに現在は休業のようだが、代替わりしつつも2023年頃までは営業していたらしい。
苫小牧西部の外れ、国道沿いの赤い洋風の建物に、大きく看板が掲げられて営業していた。
かつてこの建物は「レストハウスみよし」という白壁に赤屋根のドライブイン的なお店で、主に洋食を提供しており、長年続いていたお店だった。
三角屋根が2つ連なった2階建ての大きな建物は、郊外の長く続く国道のランドマークでもあったと思う。
閉店後しばらくして、建物はそのままに壁を全面赤く塗り替え、十割そばの看板を掲げて営業を始めたのは2004〜2005年頃だろうか。
そば屋といえば和風建築のイメージだが、洋食系レストランのままの形で、しかも色が真っ赤(臙脂っぽい和系の赤色だが)だったため、果たしてこの店は美味しいのか?と疑問を持ちつつも「十割」の文言に惹かれ、通勤でこの前を通るたびに気になっていた場所だった。
2006年になってたまたまこちら方面への用事があり、お店も客の入りが多いと聞いていたため、では期待出来るかと利用してみることにした。
写真は天ざるそばの、田舎そば(更科と選べた)。お蕎麦はボソボソ感が無く、コシがありつつもつるつると食べられ、天ぷらや別添のお塩、またおにぎりも美味しかった。そして食後に韃靼そば茶のサービスがとても嬉しかった。建物のインパクトに負けない、良いお店だった。ちなみにこの時は提供まで待たされたという記憶がない。
またここの蕎麦を食べたいと思ったことは幾度かあったが、なにせ郊外に位置するため、また自身の仕事も変わって滅多にそちら方面を通らなくなったのもあり、いつしか記憶の片隅に追いやられてしまった。
この記事を書くに当たって、今も営業しているかと調べると、どうやら休業中らしい。理由は不明だがストリートビューを見るとおそらく閉業寄りの休業ではないだろうか。
あれから20年近く経ち、またコロナ禍があったことを思えば不思議ではないのだが、もうあのお蕎麦が食べられないと思うと残念だ。
残っていた写真が比較的綺麗に美味しそうに撮れていたので、ここに記録しておくことにする。
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#飲食
開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡
開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡2009年に訪れたものである。
当時同行していた友人の情報で、昔苫小牧に鹿肉の缶詰工場があったというのを聞き、その跡地を見に行こうと探訪した。千歳市との境界すれすれの、国道沿いガソリンスタンドから東方向へ入ってすぐの場所にある。クルマで通ると見落としそうである。
缶詰工場については小学生の頃の郷土史の教科書『のびゆく苫小牧』にも記載されていたという話なのだが、はてさてそうだったか、いまいち記憶にない(現在も使われているのだろうか、のびゆく苫小牧)。北方警備の八王子千人隊のことなら勇払に碑があり、その当時見学に行ったこともあるためよく覚えているのだが。
以降開拓の歴史を齧るようになってからは、缶詰工場があったことくらいはそれほど不思議な話でもないと感じるが、友人の話を聞いた当初は、明治の時代に鹿肉の缶詰というのが妙に現代的に感じて繋がりづらく、そのような昔に工場というのもイメージしづらかったため、意外な話と驚いたものだ。
逆に無知だからこそ、興味深く探索出来るのかも知れない。
思えばこの頃から身近な史跡に興味を持ち出したような気がする。
この看板も今ではリニューアルされており、現存しないと見える。
開拓使が道内の産業振興のため、官営事業として様々な事業を行った内の一つが鹿肉の缶詰だった。
この辺りは元々鹿が多く、そのため予てより鹿肉の燻製所があったところに缶詰所や脂肪の製造所、そして鹿の内臓や血液から火薬の原料である硝石を製造する施設も設けられたが、乱獲やまれにみる大雪と寒気に見舞われ、頭数が激減して立ち行かなくなったということらしい。缶詰製造はわずか6年程度の操業だった。
環境保全や自然保護の概念がまだ希薄だった時代のことだが、このようなことは現代において教訓となっているのだろうか。
工場の詳細は苫小牧のホームページにある。
鹿肉缶詰のレプリカは、美術博物館にも展示されている。
開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡
明治天皇がこの地に巡幸された際、缶詰工場の生徒舎を休息所に充てたとのこと。
この時に、ここの井戸水が御膳に供されたという。御前水については次項にて>>42。
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#碑