No.57, No.56, No.55, No.54, No.53, No.52, No.51[7件]
旧赤間炭鉱 選炭工場跡
旧赤間炭鉱 選炭工場跡
赤間炭鉱は、明治〜大正期に稼働していた中小炭山を北炭が買収して開鉱した炭鉱になる。住友赤平炭鉱>>55と同年の1938年(昭和13)に開鉱し、鉱区的にも隣り合う形で操業した。その後歌志内の空知炭鉱へ集約され、赤間は北炭から分社化していたためここでは単に赤間炭鉱とする。
住友赤平の立坑施設からJR赤平駅方面へ進むと、ちょうど駅の裏手に当たる位置に「日本一のズリ山階段>>57」の看板を掲げた駐車場があり、左手に見えるコンクリート製の建造物がこの赤間炭鉱選炭工場の一部施設である。炭鉱施設は閉山後市の所有となり、ほとんどは解体撤去されたが、産業遺産としての価値が見直されるに当たって、今は炭鉱遺産として整備されているズリ山と共に残されている。
初訪は2009年、上の写真が当時のものである。
2012年にはズリ山を登るために再訪した。以下はその時のものである。
2009年には無かった(と記憶している)、フットパスコースの看板が新設されていた。現在もあるかは不明。⑯赤間鉱の選炭工場跡
「選炭工場」では、採掘現場から産出された石炭に混じる不純物を取り除き、品質別に選別する作業を行います。
赤間の選炭工場は、1941(昭和16)年に空知川にかかる赤間橋(現存していません。)とあわせて建設されました。この工場は、選炭工場と貨車への積込施設が別々に配置され、その間をベルトコンベアーで結合していたのが特色でした。
北炭赤間炭鉱が、1973(昭和48)年に閉山(全坑員を空知炭鉱(歌志内市)に集中化)となったため、選炭工場はその役目を終えました。
その後、1999(平成11)年に解体され、現在は原炭ポケット(掘り出した石炭を一時保管するための施設)の一部を残すのみとなりました。
地図・空中写真閲覧サービス 1968/05/08(昭43)・赤平よりほぼ中央が赤間炭鉱の施設、すぐ上に赤平駅、左下がズリ山になるが、大変興味深い。
選炭工場はこのベルトコンベアー2基の施設で、現在残っている原炭ポケットの一部はトロッコ線を挟んだすぐ下の小さい施設だろうか。この施設にも小さいコンベアーのようなものが見える。
下部は漏斗型になっていたようだ。
原炭をコンベアーで揚げ入れて貯炭し、漏斗から積んで選炭過程へという流れだろうか。昔の写真と照らし合わせると、なんとなくどう使用されていたかが(正確に判明せずとも)わかるような感じで面白い。
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#廃 #炭鉱
旧住友赤平炭鉱 立坑櫓
旧住友赤平炭鉱 立坑櫓
住友赤平炭鉱は1938年(昭和13)に開鉱、閉山は1994年(平成6)と、比較的近年まで稼働していた新しい炭鉱の部類である。
そのためか、炭鉱を象徴する立坑櫓の建物がほぼ操業当時の状態で残り、現在ではガイダンス施設も新設され、立坑ヤード内も施設の開館日は見学可能となっている。
日本遺産「炭鉄港 」の構成文化財として登録もされており、北海道産業遺産群の中でも有名なスポットだ。
筆者の初見は2009年で、その時既に立坑櫓の存在を知った上で訪れたが、外観だけでも実物を間近に見るとその大きさに圧倒された。操業時には「住友赤平立坑」のネオン文字が掲げられていたようだが、この時点では既に取り外されていた。
時間的に夕刻を過ぎていたため、まともに撮影出来ずにその場を後にしたが、有志が開催している「赤平TANtanまつり」で炭鉱関連の施設内見学が出来るということで、翌々年の2011年に再訪し、これまた内部の圧倒的な空間と操業当時の様子に思いを馳せつつ堪能させてもらった。
▼2011年10月
看板の背景写真に、掲げられていたネオン文字が確認できる。
見学時間まで余裕があったので、建物の周りを見てみる。こちらは道路に面した一角で、見学参加者の集合場所だった。右側建物奥のシャッターから出入りした。

脇の門からお邪魔して、櫓を正面から。左側は事務所棟。
ぐるっと裏の方に回ってみる。
傍には殉職者の慰霊碑があった。見学時間に集合場所へ向かうと、家族連れなども含めかなりの人が集まっていた。
当時から関心の高さが窺われた。
シャッターが開けられ、内部に入ると従業員の繰込所と思われる一室になり、そこでヘルメットを着用しガイドの説明を聞いた上で立坑ヤード内へ。
ガイドはこちらで働いていた元炭鉱マンの三上氏である。今日に至るまでガイドを務められている。立坑の仕組みやエピソードなど、軽妙かつ分かりやすく興味深い話を色々聞かせていただいた。
櫓の真下、立坑坑口へ下ろすゴンドラの柱部分。櫓の上部に滑車(ヘッドシープ)があり、巻き上げ機でワイヤーケーブルを制御し昇降させる。
柵の奥に昇降口があり、石炭を積んだ炭車を上げ下ろししていた。
炭車。黄色い方はバケットが傾き石炭の積み替えが容易になった新型のもの。
石炭を運び出す炭車のレール。そういえばこちらの原炭置き場や選炭場も近くにあったと思うのだがどの辺りだったのだろう。名残でもあるのだろうか。
一対の信号室の片方。
天井が高く、壮大な空間となっている。
人員を運ぶ立坑エレベーター、こちらは順番に箱に載せてもらい鉱員の気分を体感。一つの箱に6人×3列で定員18人で載っていたらしく、これも実際に見学者18人ずつ乗り込んで再現。
なかなかの詰め込み状態で、毎秒約6m、最高深度約600mまで昇降していたという。
これが4段構造になっているため、最大定員72名まで一度に運べるものだった。
斜坑で使われていた坑内人車の内部。鉱員の移動に使用されていた。元々坑内にあるべきものだが、こちらに移して展示されている。体の大きな人だと膝が前方の仕切りにつっかえそうだ。
信号室の内部。近代の炭鉱労働は機械技術的側面も強いことを教えてくれる。(正面の映り込みは筆者)
椅子の座布団に働く人の血の通った部分が垣間見える。玖保キリコのキャラクター懐かしすぎる…
閉山当時のカレンダーが掛かったまま。時の経過を感じる。
作業階段を上階へ。ケーブルを巻き取る動力滑車(ケーペプーリ)。さすがに大きい。

巻上機。施工に携わった安川電機の銘がある。
施設の傷みが少ないため、通電すれば今でも動かせるとのこと。
消火設備の記録板。こちらも閉山時まで記録され続けたもの。
住友赤平は、大きな事故が少なく優秀な炭鉱だったといわれている。
立坑の建設は1963年(昭和38)、それからこの時点で50年近く経過しているが、かなり堅牢に作られているのか目立った傷みもなく、今日まで残るものになっているのもまた凄いと思う。
▼2012年10月
翌2012年は、赤間炭鉱のズリ山に登った後にTANtanまつりに滑り込み、立坑櫓のライトアップ待ちで撮影したものである。
2011年時にもライトアップは見ているのだが、肝心のそちらの写真は写りが稚拙だったため、残っていない。
曇り気味だったが、日暮れの空の色が何とも言えない渋い色合いで良かった。
櫓部分のアップ。シルエットになるとクールで格好いい。
逆側から。ここの立坑施設はアングルが限られるため、地味に撮影が難しいかもしれない。
立坑前の事務所と道路。このあとにライトアップ点灯、昨年に続き赤平名物のがんがん鍋(豚汁ベースのモツ鍋)をいただいた。
▼2013年10月
更に翌年も、まつりに合わせて訪れた。3年連続で同じ場所に行くというのは個人的には珍しいことだと思う。
この間にカメラも一眼に新調したこともあり、新たに撮影に行きたい思いもあった。
とはいえ拙いものではあるが、画像のみ淡々と上げていくことにする。


この時も、内部見学に参加し、再びケージ18人乗り体験をさせてもらった。数百メートルの地下では太陽光がそもそも届かないので、ライトなしで目が慣れるということは決してない、というお話を改めて聞いて過酷な環境だったということを再確認。
でも、ネズミはちょろちょろと動き回っていたというのも聞き、ヒトと動物の能力の違いにも驚く。餌の調達は可能だったのだろうか。






バケットが片方に傾斜し、石炭を移し替える様子の写真が展示されている。



立坑の設計図。仕組みが簡易的にわかるようになっている。
ケーブルを通した天井の穴。
この年もライトアップがあり、やっと撮れた一枚。この夜は立坑の壁面を利用して、プロジェクターで炭鉱の歴史の映像を流しており、思わず見入ってしまった。
おまけに。この年は会場にもキャンドルが灯され、幻想的な雰囲気を醸し出していた。▼2018年11月
しばらくご無沙汰だったが、2016年に立坑や関連施設が住石マテリアルズから赤平市に譲渡されたのを機に周辺整備が進み、2018年には炭鉱ガイダンス施設が新設されていた。
この年のTANtanまつりでは施設駐車場がイベント会場となり、屋台の出店や著名人ゲストが呼ばれて大変な賑わいだった。
筆者自身はこの年に入院・手術を経験したため、リハビリと称して久々に遠出をして来たのがこちらだった。そのため立坑見学は遠慮してガイダンス施設の見学と、軽く立坑の撮影だけに止めた。
人が多かったため、写真は厳選した。



遺産保存への道筋を(初訪以前から動きはあったため途中からだが)辿っているようで、余所者の一見学者に過ぎないがとても感慨深くもある。
現在ではガイダンス施設の開館日に有料で立坑内部のガイド付き見学が可能になっている。とはいえガイド料も非常にお値打ち設定だと思うので、利用して損はないはずだ。
炭鉱や産業遺産に関心のある方にはぜひおすすめしたい。
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#炭鉱 #古建築 #碑 #イベント #文化施設
上歌地区史跡広場
上歌地区史跡広場
上歌地区は新歌志内トンネルの上部に位置するが、空き家の目立つ炭住区の外れに、いくつかの碑が集まっている場所がある。上歌地区史跡広場と呼ばれ、ここ上歌地区にまつわる碑を一箇所に集約した場所だが、上歌志内炭砿の東斜坑の閉塞坑口も同じ場所に残っている。
2009年に探訪したものなので、現在は多少変わっているものがあるかもしれない。Googleマップで確認すると、坑口付近の藪具合が気になるが。
地主神の碑、大山祇神社の碑(「昭和13年5月、上歌志内礦救護隊員一同」とある)、馬頭観世音、狛犬各一対、灯籠一対。
「住友石炭上歌志内砿東斜坑口跡」看板と坑口の碑。坑口は碑のすぐ隣にある。
「移設までの経過」碑上歌志内地区における開鉱は、明治二十八(一八九五)年である。以来昭和二十八(一九五三)年の住友赤平炭鉱との合併まで掘り続けられた。この間石狩石炭、坂炭鉱、住友坂炭砿、住友鉱業歌志内砿業所上歌志内砿などと名称をかえている。二度の災害(大正末期・昭和初期、ともに七十数名殉職)をはじめ様々なできごとがあり、石碑が建立された。山神社周辺に散在していた石碑は、それらのできごとを物語っているのである。この度、住友赤平炭鉱がこの地区からの撤退を決め、土地を北海道に返却することになった。地元の町内会有志と歴史資料収集保存会は石碑の散逸を惜しみ、一ヶ所に集めて保存し後世に伝えることにした。本日その完成式典を挙行したのである。なお、そのための諸経費は住友赤平炭鉱を初めとする市内の有志と、地元の町内会有志などから醵出された。
昭和六十二(一九八七)年十月十日 歌志内歴史資料収集保存会 巌堂謹書
炭山や鉱山では大山祇神を祀っていることが多いが、人知を超える危険も伴う坑内労働では必然的に信仰の対象になった。
この地区の炭鉱関係者にとっては、弔いと祈りの場所でもあるのかもしれない。
坑口はガス抜きの管を通して封鎖されている。炭鉱の場合、閉山の際は坑口をすべて密閉しなければ閉山とみなされず、閉山交付金支払いの対象とならなかったため、炭鉱跡では開いたままの坑口を見かけることは稀である。
「旧住友石炭上歌・赤平通洞坑入口」碑昭和三十年代住友赤平・上歌砿と合併に依り、通勤・通院・買物に約四百段の階段を裸電球の光だけで降りて坑内電車で赤平鉱まで通う帰りも又大変な背の重荷を感じて黙々と歩いた仲間達で旧住友社員上歌現住者にて設立記念とする。
上歌在住協賛者氏名(以下略)
立活皆真ナリ
平成二十年八月十一日 建立
上歌砿関係者は、赤平鉱に合併後は赤平まで通勤や用足しに赴いていたようで、この元斜坑の坑内電車を利用して移動していたらしい。地下まで昇降するのは大変だっただろうし、そんな身の上を分かち合う仲間内の結束も強いものだったのだろう。
このような碑をよく読んでみると、その土地の来歴や人々の生活がわかることも多く、大変興味深い。
あと、ここでは碑文の「砿」「鉱」の字がきちんと分けられていて(社名などの正式名称に則っている)、すごくきちんと作られていると思う。
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#廃 #炭鉱 #碑
旧住友赤平炭鉱排気立て坑櫓(解体済)
旧住友赤平炭鉱排気立て坑櫓(解体済)
悲別ロマン座>>52前庭から道路の向こうに見える筒型の建造物。炭鉱関連のもので、旧住友赤平炭鉱の排気立坑の櫓である。炭鉱には坑内の空気を循環させるため、外からの新鮮な空気を入れる入気と、内部のガス混じりの空気を排出する排気の坑口があった。こちらは排気坑のものだが、元々は同じ住友の上歌志内炭砿の第一立坑で、昭和初期の住友坂(ばん)炭砿時代に建てられた第一立坑が始まりのようだ。
上歌志内炭砿は1895年(明治28)に開鉱し、石狩石炭株式会社が経営したが1917年(大正6)に坂市太郎の坂炭砿株式会社に経営が移り、のち住友との共同経営となり、近隣の歌志内炭鉱と新歌志内炭鉱も住友が買収することになる。
1953年(昭和28)に住友上歌志内炭砿は合理化のため、隣町鉱区の住友赤平炭鉱に吸収統合された。ちなみにこの年は、奇しくも先の上歌会館(後の悲別ロマン座)が開館した年でもあるが、会館の管理は住友歌志内炭鉱が引き継ぎ、1971年(昭和41)の閉山まで使用された。
第一立坑時代は石炭や人員を運ぶ用途として使われたが、1987年(昭和62)には赤平の排気立坑として転換されることとなった。筒状で覆われているのは排気効率を上げるためであり、転換後のものである。1994年(平成6)の住友赤平炭鉱閉山まで使用された。
2009年、ロマン座を訪れた時に撮影。当時は様々な場所を巡っていたので時間の都合でここからの撮影だけに留め、また今度また今度と思っているうちに2016年、惜しくも解体されてしまった。近くまで分け入って見学しなかったことが悔やまれる。ロマン座にはその後も幾度か訪れていた上、立坑周辺は立ち入り制限も特に設けられていなかったはずなので、勿体ないことをしたと思っている。
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#廃 #炭鉱
旧上歌会館(悲別ロマン座)
旧上歌会館(悲別ロマン座)
「日本一人口の少ない市」といわれる歌志内市も、かつては炭鉱の町だった。
国道12号線から東側、赤平市へ抜ける途中の山間に点在する街並みがそれである。
国道を通るだけだとその市の存在に気づかず、通り過ぎてしまう位置関係だが、炭鉱跡に興味を持つと俄然、自分の中で存在感を放つ場所となった。
炭住の名残の住宅群と、チロル地方の建物を模した温泉施設と道の駅が代表的なランドマークとなるだろうか。それらを眺めつつ車を走らせると、赤平へ向かうトンネル手前の街の端に、特徴的な大きな切妻屋根の建物が姿を見せる。
「悲別ロマン座」の看板と、文字を掲げたその建物は、かつて「上歌会館」と呼ばれ、旧住友上歌志内砿の職員厚生施設であり劇場や映画館として使用された。1971年(昭和46)の炭鉱閉山後は放棄され、廃墟化していたが、1984年(昭和59)に放映されたTVドラマ『昨日、悲別で』の舞台として使用され、脚光を浴びた。それを機に有志が修復、保存活動を開始し、その後カフェやイベント会場として活用、近年では文化庁認定の日本遺産「炭鉄港」の構成文化財への追加を目指している(参考:時事ドットコム )とのこと。
※追記2025.8.4:「日本遺産「炭鉄港」の認定継続 文化庁 歌志内「悲別ロマン座」を追加(北海道新聞 2025.7.31) 」
初探訪は2009年、2013年までの間に数回訪れた。
当時はカフェとして営業されており、お願いすれば奥の映写室の映写機を見せてもらうことも出来た。
▼2009年6月
道路脇の看板。当時の道路地図にもこの名で記載されており、いつか立ち寄ってみたいと思っていた。このようなレトロ感漂う看板を目にするだけでも気分は盛り上がった。
ルピナスの群生が炭鉱町であったことを物語るかのようだ。
大胆にせり出した屋根。造形が見事だ。堂々たるスケール感がある。
『昨日、悲別で』作者倉本聰の手による看板。「悲別(かなしべつ)」はドラマ中の架空の地名。北海道内の舞台は近辺の上砂川から歌志内、また旧空知炭砿などの協力を得て制作された。
筆者は当時まだ子供だったため、リアルタイムでは視聴していないが、最近になってとある縁で全話視聴することが出来た。
佳作なので多くの方に観てもらいたいのだが、稀にドラマチャンネルあたりで配信されることがある程度で、DVD化などはされていないのが残念だ。シナリオ本が古本として市場に出ていることはある。こちらは個人的に入手済み。
劇中でこの建物は「悲別ロマン座」と呼ばれ、里帰りした主人公が廃墟化した劇場を利用してタップダンスを披露したり、また映画館として使われた最後のパートはとても悲しく印象に残っている。
初探訪は惜しくも休業日だったらしく、外観だけ見させてもらうに留まった。この「やってない」看板のなんと味わい深いことよ!
窓際の可愛らしい手作りマスコット。
建物裏に回ると、他にもステージ状の建物が。元々表側の建物と屋根続きに一つの建物だったが、廃墟化した際に客席部分が崩落して取り除いたということらしい。
今は野外ステージとして機能しているようだ。
ペンケウタシナイ川に掛かる橋。この先は「ニングルの森」という散策路になるようで気になるのだが、夏場はちょっと行く気になれない…
前庭には、炭鉱で使われていたであろうトロッコが展示されていた。▼2012年10月


3年経ってのリベンジ。どの角度から見ても、美しい形だ。
「やってる」!やっと、お邪魔が出来る。「やってない」の裏側が「やってる」になっているようだ。
勇気を出して扉を開けると、館長さんが気さくに挨拶して招き入れてくれた。ドラマの写真パネルが掲示されている。この時はなんとなく目をやったが、ドラマを観た今だととても貴重に思う。

ここを訪れた人々の感想が絵馬のようにびっしりと貼られている。自分も書かせてもらったので、ちゃっかり紛れている、はず。
訪れた理由など色々お話したら、奥の映写室を案内してくれて、当時の映写機を見せてくださった。昭和20年代から使われていたアークライト式で、とても貴重なものだろう。



ここに石炭を入れて、熱して動かしていたらしい。今でも動かそうと思えば動くらしいが、引火しやすいため今ではなかなかフィルムを貸し出してもらえないとのこと。
この時は、館内で写真展が開催されていて、よく見ると当時の知り合いの方で世間は狭いと驚きつつ拝見した記憶。当然ながら、オーダーをさせていただいた。今見てもリーズナブルな価格だった。
カフェラテを注文したら、なんとデザートまで付いてきた。メニューをよく見ると、「お菓子付き!」とある。
スポンジケーキに、アイスのデザート。ドリンクとこれで340円は破格である。お味も美味しかった。感動してしまった。
近所の方も食事に訪れていて、賑やかだった。この辺では食事処が少ないため、いつも来ているという方も。他所から来た人間が珍しかったのか、話しかけられてそこから会話が弾むなど楽しい時を過ごさせていただいた。
ずっと歌志内住みの方が、炭鉱時代のこと、特にここに加藤登紀子がコンサートに来てくれたという話を活き活きと語ってくださったことは印象に残っている。当時の活気はこのような感じだったのかなと、タイムスリップしたような感覚を味わった。
しばらく談笑してから辞した。外に出て、また建物の周りを観察させてもらった。こちらは主屋側の裏。映画館の頃の客席出入り口に当たると思われる。
上歌会館から悲別ロマン座になるまでの軌跡。
椅子とテーブルが配置されていた。前後でイベントがあったのだろうか。▼2013年10月
この時は隣町の「赤平TANtanまつり」に訪れた際、途中で食事をしたく寄らせてもらった。
変わらす館長さんはお元気だった。
ロマンザのオムカレーをいただいた。もしかしたら特別メニューだったのかも。食事の方も美味しくいただいた。生クリームで描かれたロマン座、遊び心がにくい(笑)
コーヒーは、ヘーゼルナッツフレーバーをチョイスしたように記憶している。
この時は、元々ここにあったピアノの試し演奏などが行われていたようだ。年代物なので調律が難しいなどと会話が聞こえていた。これ以降はなかなか足を運べず、また悲しいことに放火(小火)や落書き等の被害もあり、コロナ禍を経てカフェも休業状態となってしまった。
館長さんからその後、赤平の駅前で食堂を営業しているとの知らせが入り、機会を見て訪れたいと考えてはいるが、現状の営業状況はわからない。
昨年、市や有志がロマン座の日本遺産登録を目指しているとのニュースを目にした。保存の意欲があるということに少し嬉しくなった。
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#炭鉱 #文化施設 #飲食 #古建築
更新一時休止のお知らせ
更新一時休止のお知らせ
前ブログ『ゆるたん。』の記事を最古からさかのぼって(整理で消した記事もあるため厳密ではない)再編して更新しておりますが、ちょうどキリの良いところで50本の記事をアップしたので、ここで一旦お休みしようと思います。
当然ネタはまだまだあるのですが、大量の写真の選別や調べ直しも意外に手間がかかり、また本業も繁忙期に入り、次の同人活動などやりたいことも他にあるため、さすがにマルチタスクは出来ないと悟りました(苦笑)。
休止は今年いっぱいを目処に、年明けの状況を見て調整しつつ、再開したいと思います。
いいねボタンやWavebox もございますので、気が向きましたらリアクションいただけますと有り難いです。絵文字ボタン押してもらえるだけでもやる気が出たり面白がりますのでお気軽にどうぞ。
今後、歴史創作 の方も更新していきますので、ご興味ありましたらお付き合いの程よろしくお願いいたします。
旧赤間炭鉱ズリ山階段
旧赤間炭鉱ズリ山階段「ズリ山」とは、掘り出した石炭を選別するときに出た屑石を堆積した山のことである。炭鉱施設や遺構近くに円錐状のこんもりとした山があれば、それはズリ山だった可能性が高い。ちなみに、九州地方の炭鉱では「ボタ山」と呼ばれている。
赤平の旧赤間炭鉱のズリ山は炭鉱遺産として保全されており、「日本一のズリ山階段」として777段の段数を誇る。階段は上りやすく整備され、頂上までほぼ一直線のルートだが、実際上ってみると中々きつい。筆者の場合は上りは休憩を入れて約30分ほどだったが、下りは下りでとにかく膝に来るので、時間に余裕を持って挑むのが良いだろう。
季節によって眺めは変わると思うが、苦労しただけの達成感はあるかと思う。
近年はヒグマの目撃情報のため立ち入り制限の時期もあったようだ。念の為クマ避け鈴等対策もした方が良いかもしれない。
バックに見えるのが赤間の選炭工場跡。昼を越して夕方近かったためか逆光になってしまった。
段毎の柱には、全国から公募したプレートの名付け親の名前が記されている。
秋口だったがまだ緑が茂って暖かかった。暑くも寒くもなく丁度良い時季だったかもしれない。
ベンチがあるのは有り難い。
屑石の人工山でも、年月が経つと自然の山に変わっていくようだ。
横に見えるパイプのようなものは、「あかびら火まつり」で灯される火文字である。炭鉱斜陽期に街の灯を消すまいと、京都の大文字焼きにヒントを得たものだそうだ。
公園らしい広場になっている。ここからパノラマビューを堪能する。
右側奥、彼方に見える白い線状のものは芦別大観音。
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#炭鉱 #公園 #山