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根室市指定文化財(史跡)
寛政の蜂起和人殉難墓碑
寛政元(一七八九)年五月、和人のアイヌ民族に対する脅迫や非道行為によって追い詰められた結果、国後島と現在の標津町、羅臼町付近のアイヌ民族が和人七十一人を殺害した。この出来事は、「クナシリ・メナシの戦い」と呼ばれ、最終的にノッカマップ(根室市牧の内)で戦いに関わったアイヌ民族三十七人が和人によって処刑された。
この墓碑は、殺害された和人七十一人の供養のために文化九(一八一二)年に作られたもので、明治四十五年、納沙布岬に近い珸瑤瑁の海中で発見されたという。現地で保存されていたが、昭和四十三年、国後島を臨むこの地に移設された。
○表面
(梵字)横死七十一人之墓
(意味)
不慮の死を遂げた七十一人の墓
○裏面
寛政元年己酉夏五月此地凶悪蝦夷決黨爲賊事起乎不意士庶遇害者總七十一人也姓名記録別在官舎乎茲合葬建石
(意味)
寛政元年五月に、この地方の凶悪なアイヌが集まり、突然反乱を起こした。偶然居合せた侍や漁民合計七十一人が殺された。その姓名の記録は役所にある。ここに合わせて供養しこの碑を建てる。
○側面
文化九年歳在壬申四月建
(意味)
文化九年四月に建てる
墓碑裏面には、和人の視点からアイヌ民族が不意に襲ってきたとあるが、和人が殺害された原因はアイヌ民族への非道行為が原因であり、石碑の内容と史実は異なる。
指定年月日 昭和四十二年七月二十五日
管理者 根室市教育委員会
※訳文(意味)を原文の直下に移動させる編集を行っております。
2016年に根室方面に行った際に立ち寄り撮影しました。
たまたま前年2015年に、北海道博物館で開催された『夷酋列像』展を観覧したため、ここまで来たなら是非見ておこうと足を運んだものです。
納沙布岬周辺の北方領土関連の施設や碑、モニュメントが建つ中にひっそりと存在します。
処刑されたアイヌ側の慰霊碑なのかと思っていたら、この事件で犠牲になった和人の墓碑をここに設置したものとのこと。
毎年9月には、ここより西側のノッカマップで「ノッカマップイチャルパ」というクナシリ・メナシの戦いの犠牲者(和人・アイヌ両者)を弔う慰霊祭が行われています。ノッカマップは、アイヌ側の37人が処刑された場所になります。
1789年クナシリ・メナシの戦い(根室市ホームページ)
墓碑が海中から発見された理由は不明だそうですが、根室市によると、海上輸送の途中で船が難破し、海中に没したままだったのではないかとのこと。
寛政の蜂起和人殉難墓碑(根室市ホームページ)
墓碑が作られたのが蜂起から23年後、それだけ経っても未だに和人側(直接虐待に関わっていない人も多数いるのでしょうが)が一方的な被害者としての認識だったというのと、アイヌ側に対する表現が露悪的なのが当時の和人側の認識だったという証明でもあるようにも感じます。
併設の詳細な説明板がなければ誤解を招きかねないため、ちゃんと設置されているのは良いことだと思います。
#アイヌ
◆『六つの村を越えて髭をなびかせる者』 西條奈加 PHP研究所 2022年
著名な時代作家さんが書かれる最上徳内の小説です。中々取り上げられることのない人物を書いて下さるのはとても嬉しいです。作者の方、北海道出身だったのですね。
この作品では主に、徳内が蝦夷地探索中に同行させたアイヌの少年フリゥーエンやアッケシの長イコトイら、また上司青島俊蔵らとの交流に焦点を当てています。クナシリ・メナシの戦いについても描かれますが、あくまで徳内の足跡と視点に沿っているため、乱の凄惨さ(目の当たりにはしていない)よりも、松前藩の差配の欠陥による飛騨屋商人の横暴と、それによりアイヌたちが置かれた不幸な境遇に心を痛める様子が重点的に書かれています。
かなりの松前憎しで物語は展開していきます(まあそうなるでしょうが)。実際当時の松前の場所請負制等のアイヌ政策には色々思うところはありますが、一応注意したいのは、徳内はあくまでも幕府側の人間であり(後の時代の松浦武四郎などに関してもですが)、幕府側にも良かれ悪しかれ思惑あっての蝦夷地政策ではあったということを念頭に置く必要はあるかと思います。その辺りは当書の最後の方でも、幕府側の自分(徳内)たちが動くことが本当にアイヌのためになるのか、和語を覚えさせ農業を奨励することが、結局は彼ら独自の文化を捨てさせることになり和人寄りの同化政策になってしまうのではないかと思い悩む様も書かれていたりします。これは作者本人の煩悶でもあるのでしょうし、北海道の歴史を齧った者(和人)なら必ず突き当たる悩みなのではないでしょうか。そのようなのっぴきならない想いは、当時懸命に探索に回り当事者に触れた末端の役人にもあったのだろうと思います。
(個人的にも昨今の開き直るような歴史修正(改竄)主義の同化政策正当化や、特にマイノリティ側がマジョリティ側に寄せる発言を聞くやいなやマジョリティ側がそれに甘えて正当化する風潮には疑問を持っています)
特に田沼から松平へ変わる幕府政治に翻弄された結果の青島俊蔵の末路は、何度関連書籍を読んでも辛いものがあります。主要人物との交流と心情をきっちり表現されている中、特に青島と徳内との関係性が、理想的な上司と部下の温かみのあるものに描かれているので、尚更です(『風雲児たち』の仲良しこよし関係を彷彿とさせる)。情のある者が理不尽に追いやられるのは、今の世も変わらないような気がします。
現地に赴くことで血の通った声が聞けるものの、どこまで情をかけるべきなのかという匙加減、またある意味では間者として見られるという意識の狭間でどう動くべきかというスリリングな展開も見られます。
当書に書かれているのは蝦夷地渡海3回目までで、実際はこの先も徳内の北方探索はまだまだ続くのですが、この人物を物語として切り取って編集、構成するには功績が多すぎてやはり難しそうです。エピソードが度々前後したりと進行を把握するのに少々手間取ることがありましたが、それぞれの人物がいい味を出していて良かったです。イタクニップやフルウ、イコトイ、ツキノエ、シラヌカの馬吉さん、上役の山口鉄五郎、音羽塾の鈴木彦助、小人目付の常磐屋笠原などなど、また松前藩の浅利も小憎たらしい悪人として味わい深かった(笑)キャラ立ちしている人物とのやりとりはやはり面白く読み進めることが出来ました。
そして徳内の容貌を「里芋に黒豆を張りつけたような」というのには妙に納得してしまいました。肖像画もそうですがやはり『風雲児たち』が目に浮かぶ…
#最上徳内 #アイヌ
著名な時代作家さんが書かれる最上徳内の小説です。中々取り上げられることのない人物を書いて下さるのはとても嬉しいです。作者の方、北海道出身だったのですね。
この作品では主に、徳内が蝦夷地探索中に同行させたアイヌの少年フリゥーエンやアッケシの長イコトイら、また上司青島俊蔵らとの交流に焦点を当てています。クナシリ・メナシの戦いについても描かれますが、あくまで徳内の足跡と視点に沿っているため、乱の凄惨さ(目の当たりにはしていない)よりも、松前藩の差配の欠陥による飛騨屋商人の横暴と、それによりアイヌたちが置かれた不幸な境遇に心を痛める様子が重点的に書かれています。
かなりの松前憎しで物語は展開していきます(まあそうなるでしょうが)。実際当時の松前の場所請負制等のアイヌ政策には色々思うところはありますが、一応注意したいのは、徳内はあくまでも幕府側の人間であり(後の時代の松浦武四郎などに関してもですが)、幕府側にも良かれ悪しかれ思惑あっての蝦夷地政策ではあったということを念頭に置く必要はあるかと思います。その辺りは当書の最後の方でも、幕府側の自分(徳内)たちが動くことが本当にアイヌのためになるのか、和語を覚えさせ農業を奨励することが、結局は彼ら独自の文化を捨てさせることになり和人寄りの同化政策になってしまうのではないかと思い悩む様も書かれていたりします。これは作者本人の煩悶でもあるのでしょうし、北海道の歴史を齧った者(和人)なら必ず突き当たる悩みなのではないでしょうか。そのようなのっぴきならない想いは、当時懸命に探索に回り当事者に触れた末端の役人にもあったのだろうと思います。
(個人的にも昨今の開き直るような歴史修正(改竄)主義の同化政策正当化や、特にマイノリティ側がマジョリティ側に寄せる発言を聞くやいなやマジョリティ側がそれに甘えて正当化する風潮には疑問を持っています)
特に田沼から松平へ変わる幕府政治に翻弄された結果の青島俊蔵の末路は、何度関連書籍を読んでも辛いものがあります。主要人物との交流と心情をきっちり表現されている中、特に青島と徳内との関係性が、理想的な上司と部下の温かみのあるものに描かれているので、尚更です(『風雲児たち』の仲良しこよし関係を彷彿とさせる)。情のある者が理不尽に追いやられるのは、今の世も変わらないような気がします。
現地に赴くことで血の通った声が聞けるものの、どこまで情をかけるべきなのかという匙加減、またある意味では間者として見られるという意識の狭間でどう動くべきかというスリリングな展開も見られます。
当書に書かれているのは蝦夷地渡海3回目までで、実際はこの先も徳内の北方探索はまだまだ続くのですが、この人物を物語として切り取って編集、構成するには功績が多すぎてやはり難しそうです。エピソードが度々前後したりと進行を把握するのに少々手間取ることがありましたが、それぞれの人物がいい味を出していて良かったです。イタクニップやフルウ、イコトイ、ツキノエ、シラヌカの馬吉さん、上役の山口鉄五郎、音羽塾の鈴木彦助、小人目付の常磐屋笠原などなど、また松前藩の浅利も小憎たらしい悪人として味わい深かった(笑)キャラ立ちしている人物とのやりとりはやはり面白く読み進めることが出来ました。
そして徳内の容貌を「里芋に黒豆を張りつけたような」というのには妙に納得してしまいました。肖像画もそうですがやはり『風雲児たち』が目に浮かぶ…
#最上徳内 #アイヌ
◆『北冥の白虹(オーロラ)』 乾浩 新人物往来社 2003年
最上徳内の全生涯について描かれた小説です。とはいえ、やはり業績が豊富なので、晩年のシーボルトとの交流などは大まかに駆け足になってしまっていますが、9度の蝦夷地渡海をメインに、資料に基づいてみっちり描かれています。蝦夷地探査に関わった人物はこの時代にも沢山いて、まあ山のように役職や人名が出てきます。ある程度、ロシアの南下政策や寛政蝦夷蜂起(クナシリ・メナシの戦い)などの予備知識を入れておかないと、スムーズに読み進めることは難しいかもしれませんが、巻末に参考資料一覧があり、淡々とした史実の記録の中にも冒険譚的に人物を活写しようという意欲が感じられる作品になっています。
とても唸らされたのは、近藤重蔵に対する心情なのですが、役目に燃えるあまり脱落した部下を置いてさっさと先へ進んでしまう近藤はその傲慢さもあって周りからの評判が良くなかったものの、徳内にはそのような悪口を叩く部下たちの意識が低く見え、むしろ自分が近藤を支えなければとの意欲に燃えたというのがかなり印象的でした。松前藩の圧政に虐げられるアイヌたちには情を寄せる徳内でも、武士の身分に甘んじながら、理不尽とはいえ上役に不平不満を垂れる部下たちの姿は見苦しいものだったというのになるほどなと思ったら、その後の探索では自分の上役になる松平忠明とやりあったりと、おやおや?となる場面もあるのですが、一貫しているのは、アイヌに対する上役の対応の良し悪しの部分なのかなと。近藤は「大日本恵登呂府」の標柱に、和人のみならずアイヌ従者の名(和名に改名されてはいたが)も書き入れ、自分に付いてきた者は区別なく証人として取り上げたというのは近藤の業績の中でも有名な話です(もっとも、当初はアイヌ従者の間でも強引な近藤に不満を持っており、そこを徳内が近藤を取りなしつつ隊の調和を図っていたといわれている)。
ちなみに近藤に置いていかれた部下の一人が村上島之允なのですが、徳内の村上に対する同情の念もなるほどな、と思いました。絶対村上は近藤のことが嫌いだろうと思っている自分の次元が低く恥ずかしいです…(苦笑)考え改めるべきか
作者の近藤に対する思い入れが強いのか、好意的に書かれているのが興味深いのですが、同じ作者の小説で近藤を主人公にしたものがあり、以前読んで面白かったのでいずれ再読して紹介しようと思います。
北辺の択捉島やウルップ島の自然の豊かさに一個人として感激しつつも、ロシアや諸外国の手が伸びる前にいち早く開発するべきという役人としての使命感の狭間で懊悩する様子も度々描かれ、そうだよそういうことなんだよなと。資源開発と自然保護は相性がとことん悪い。
国か、人々の生活か、環境か…イジュヨとのエピソードにしろ、世の中の様々な課題が包括されている作品にも感じられました。
#最上徳内 #近藤重蔵
最上徳内の全生涯について描かれた小説です。とはいえ、やはり業績が豊富なので、晩年のシーボルトとの交流などは大まかに駆け足になってしまっていますが、9度の蝦夷地渡海をメインに、資料に基づいてみっちり描かれています。蝦夷地探査に関わった人物はこの時代にも沢山いて、まあ山のように役職や人名が出てきます。ある程度、ロシアの南下政策や寛政蝦夷蜂起(クナシリ・メナシの戦い)などの予備知識を入れておかないと、スムーズに読み進めることは難しいかもしれませんが、巻末に参考資料一覧があり、淡々とした史実の記録の中にも冒険譚的に人物を活写しようという意欲が感じられる作品になっています。
とても唸らされたのは、近藤重蔵に対する心情なのですが、役目に燃えるあまり脱落した部下を置いてさっさと先へ進んでしまう近藤はその傲慢さもあって周りからの評判が良くなかったものの、徳内にはそのような悪口を叩く部下たちの意識が低く見え、むしろ自分が近藤を支えなければとの意欲に燃えたというのがかなり印象的でした。松前藩の圧政に虐げられるアイヌたちには情を寄せる徳内でも、武士の身分に甘んじながら、理不尽とはいえ上役に不平不満を垂れる部下たちの姿は見苦しいものだったというのになるほどなと思ったら、その後の探索では自分の上役になる松平忠明とやりあったりと、おやおや?となる場面もあるのですが、一貫しているのは、アイヌに対する上役の対応の良し悪しの部分なのかなと。近藤は「大日本恵登呂府」の標柱に、和人のみならずアイヌ従者の名(和名に改名されてはいたが)も書き入れ、自分に付いてきた者は区別なく証人として取り上げたというのは近藤の業績の中でも有名な話です(もっとも、当初はアイヌ従者の間でも強引な近藤に不満を持っており、そこを徳内が近藤を取りなしつつ隊の調和を図っていたといわれている)。
ちなみに近藤に置いていかれた部下の一人が村上島之允なのですが、徳内の村上に対する同情の念もなるほどな、と思いました。絶対村上は近藤のことが嫌いだろうと思っている自分の次元が低く恥ずかしいです…(苦笑)考え改めるべきか
作者の近藤に対する思い入れが強いのか、好意的に書かれているのが興味深いのですが、同じ作者の小説で近藤を主人公にしたものがあり、以前読んで面白かったのでいずれ再読して紹介しようと思います。
北辺の択捉島やウルップ島の自然の豊かさに一個人として感激しつつも、ロシアや諸外国の手が伸びる前にいち早く開発するべきという役人としての使命感の狭間で懊悩する様子も度々描かれ、そうだよそういうことなんだよなと。資源開発と自然保護は相性がとことん悪い。
国か、人々の生活か、環境か…イジュヨとのエピソードにしろ、世の中の様々な課題が包括されている作品にも感じられました。
#最上徳内 #近藤重蔵
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伊能忠敬が蝦夷地測量の時、この本輪西川を渡ったことから名付けられたそうです。
室蘭市史に記載されている伝承だそうですが、測量ルートや元々の橋の位置、橋の名称の歴史など近年の研究により、疑わしいとの話も上がっているようで。研究が進んでいることの証なのでしょうね。


訪問は2019年。落書きなのか、色褪せなのか…
Googleマップで確認すると、2023年時点では修復されているようですが。
その昔、伊能忠敬がここを渡ったので命名されたといわれている。
五十歳をすぎてから日本全国を測量して歩いた伊能忠敬は蝦夷地の測量のため簡単な測量機械を持って助手など五人とともに江戸を出発した。
寛政十二年(一八OO)六月、室蘭に到着し、陸地の測量を行いながら東へ向かうこととなり、このとき小学校の沢道を通り、現神社下の道を八丁平へ向うため、本輪西川を渡ったとされている。
室蘭市
余談ですが、「小学校の沢道を通り」とあるのは、本輪西川沿いにあった旧本輪西小学校のことでしょうか。明治の時代の開校ですが2016年に閉校となり、今はソーラーパネルが立ち並ぶ土地となっています。
2014年にドライブで近辺に立ち寄った時には、まだ現役の校舎を確認していたのですが、それから程なくして閉校の話を聞いたので、寂しさと共に時代の流れを感じます。

#伊能忠敬
イジュヨの名はイジュヨゾフといい、遭難してウルップ島に来たものの、彼いわく仲間割れをして他のサスノスコイ、ニケタと3人でエトロフ島へ逃れてきた、ということのようですが、1775年にロシア商事の植民団がウルップ島ワニナウに上陸し居住を始め、1779年に千島地震で大津波が発生、彼らが乗ってきた船ナタリア号が内陸まで押し上げられ、しばらく奥地に廃船として残されていたらしく、イジュヨもこの船に乗ってやってきたようで、植民団の一員だったと思われるため※書きに記しています。この植民団は1782年に撤退し、1784年にはイジュヨはカローミンらと共にウルップ島に再上陸、ここで仲間割れしてイジュヨら3人がエトロフ島へやってきたのが1785年。同じ年にカローミンはワニナウ植民団跡地に碑を建てています。
徳内はのちにその廃船やカローミンの碑、植民団の居住跡も確認しているらしく、このあたりも探検要素の濃いエピソードでワクワクします。
当時においてはそんな能天気な話でもないといわれればまあそうなのですが。
最近やっと『蝦夷草紙』(時事通信社S40年出版)を入手したので、いずれじっくり読んでみたいと思います。
こちらはNDLでも閲覧出来るし、なんなら地元の図書館にも蔵書はあるのですが…やっぱり本の形で手元に置いて好きな時に手に取りたいんですよね。
※2025.4.15 画像差し替えしました(違和感あったためコマ内の人物の肌を塗りました)。
#最上徳内