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江戸期の北方探検家で歴史創作。絵・漫画・設定・調べ物などゆるゆるっとな。


2026年3月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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島之允先生。間宮林蔵の最初の師で、測量や蝦夷地検分を行った幕吏です。健脚で、一日に三〇里(約120km)を歩き何日続けても疲れないというのは有名で、他には考古学の嗜みもあり古物趣味だったなどが代表的なエピソードになりますが、本人に関しては史料が乏しいので、第三者が語った逸話などをかき集めて伝記として組み立てているという印象が強く、完全に信憑性のある評伝が存在しないというのが妙にミステリアスな印象の人物なのです。

当然肖像画も残されておらず、強いて挙げれば『蝦夷島奇観』地図部のヲシヤマンベ地図の挿絵にある、二本差しの和人がその著者(秦檍丸=村上島之允)の姿になるのでしょうが…ちなみにこれはユーラップ酋長からヲシヤマンベ(長万部か)の地名の由来を聞き取っている図だということです。

肖像画が無いなら勝手なイメージで描いてもよいな…? 伊勢の社家の出だと聞いたので神主っぽい服装にしました。神主の階級によって袴の色が変わるらしい。浅葱は一番下の三・四級だとか。社家の次男で跡継ぎではなかったようなのでこんなところで。

月代にするかも迷いましてね…ひとつ逸話に、アイヌに対して月代を強制的に剃らせようとする役人には反発したらしく、「蝦夷地のような(冷涼な)土地ではそんなもん剃ったら寒かろう」的なことを言ったとか。おもしろいな。
穏やかな物腰だったとかそんな評もあるらしく、個人的にはイケメン枠ということで。そういうイメージです。

『蝦夷島奇観(えぞがしまきかん)』とは、蝦夷地の開発と夷人(アイヌ)の和人化により失われていく風俗や文化を惜しみ、記録として残しその姿をまだ知らない人のためにという目的で著されたものですが、著者の秦が社家の出、(おそらく)国学の徒ということもあってかアイヌ文化に日本古来の文化との共通点を見出し、両者は遡れば同胞だったという説を展開しており、現代ではそのまま鵜呑みにするには慎重を要するものではあります。
ただこの時代、一般庶民には異民族の文化が劣ったものと見られる風潮と、その偏見を払拭するために著されたものという見方もあり、いづれにせよ執筆当時の江戸後期のアイヌ文化を知る貴重な史料とされています。

ところがこの蝦夷島奇観、写本が実に多く、おおもとの秦の自筆本が果たして存在するのかが謎らしいのですが…
自筆の可能性が高いと言われているのが東京国立博物館蔵のもの(通称:東博本)で、1982年に雄峰社から出版された翻刻本がNDLのデジタルコレクションで閲覧出来ると知り、ひと通り閲覧・読了しました。
書き文字を見た第一印象は率直に「これ村上貞助の字じゃん」だったのですが、間宮が口述し村上貞助が執筆した『北夷分界余話』『東韃地方紀行』(国立公文書館蔵)の字とかなり似ているので、東博本=秦檍丸自筆説に少々疑いの目を持っています。この辺りはまだまだ研究途中らしく、様々な論考があるようですので、個人的に少し追ってみたいなと思っています(蝦夷島奇観は1800年頃、北夷分界余話等は1810年の成立で、秦は1808年に没している)。

巻末の「秦檍麿略伝」からは、あまり知られていない彼の逸話が多く載っていて、真偽はともかくこれは興味深いです。上で記したとおりに、彼と親交のあった第三者が記した(語った)ものが多いので、多方面から確認出来ればと思います。

東博本に掲載の秦筆とされる蝦夷地図とイヲマンテ(熊送り)、エトピリカ、エゾスカシユリを添えました。
エゾスカシユリに関しては、東博本の写生部に「アムラクル」(一曰くイマキバロ)と題したユリの写生があるのですが、アンラコロはクロユリなのに挿絵のユリは黒くないのと、イマキバルはクロユリではなくエゾスカシユリなので、挿絵はエゾスカシユリのつもりで描かれたのだろうかと。聞き取り間違いはまああることだとして。

どちらを描こうか迷って結局エゾスカシユリにしましたが、配色的にクロユリの方が締まったかな…エトピリカは、めっちゃ泳ぐらしいです。

#村上島之允

イラスト

◆『間宮林蔵・探検家一代』 髙橋大輔 中央公論新社 2008年
◆『国境の人 間宮林蔵』 髙橋大輔 草思社 2024年

これらは同じ著者の書籍ですが、後者の『国境の人〜』は前者の内容を改訂の上、その後2014年にTV番組の企画としてサハリン、間宮海峡への探索行などを追加収載したものになるため、ここでは2冊同時に取り上げることにします。もし間宮林蔵に興味があってこれから手にしたい場合は、後者のみでも十分なのですが、個人的に間宮にハマった決定打が吉村昭の小説>>22読了後に前者の『〜探検家一代』を読んだことだったので、こちらも一緒に紹介しておこうと思います。

前者は、著者が林蔵の樺太〜沿海州の探検の追体験のため、初回はサハリンへ、2度目は研究者などの伝手の協力を仰ぎ小型船でアムール川を下って満州仮府デレンの跡地を探索した記録をメインに、林蔵の故郷に伝わる彼の生い立ちから業績、シーボルト事件の火種となった彼自筆とされる樺太地図が収蔵されているオランダのライデンへも足を運んだりと、主に樺太探検と地図の行方を追跡した内容となっています。

こちらを初読したのは2015年頃と記憶しているので、かれこれ10年経ち後者の『国境の人〜』を読むことで再読の形になっているわけですが、当初読んだ時より著者の探索が本当に大変だったと感じられるのは、自分も年齢を経て生活の経験値がそれなりに上がったからかもしれません。

初回のサハリンでは、ホテルスタッフとの行き違いで鍵を渡されなかったために部屋に入れず、廊下で凍えながら一夜を明かしたりと、この時点で過酷な旅となっており、アムール川では船の燃料調達に難儀し漂流しかけるなど、こちらもハラハラする程の探検行は誰にでも出来ることではなく、またネット情報も今ほど手に入らなかったであろう中での手探り感も相まってとても興味深い紀行なのですが、林蔵の探検から2世紀経った今でも楽に安全に移動できる場所ではないのだということを思い知らされます。

また、ウィルタやニヴフ、ウリチ・ナナイなど各地の人々との交流もされていますが、最終章では林蔵にアイヌの妻子がいたところまで突き止め、その子孫の方々にも取材しています。当時の蝦夷地のアイヌを取り巻く状況を念頭に想像し、綴られた物語に切なくなりました。そのこともあり、林蔵の人間的な部分も知ることが出来たこの本には個人的に思い入れがあったりします。
吉村昭の小説では、アイヌ女性との交際は伝承として把握していたものの執筆当時は信憑性の点で採用しなかったとのことだったので、これが事実と解明されたことに驚きもしました。

後者の『国境の人〜』については、間宮の探検の目的や意義、晩年の海岸や島嶼巡見など隠密的任務のこともあり、また昨今ロシアのウクライナ侵攻などの世界情勢につき、再編にあたって「国境」というワードを抜きにしては語れないため、このようなタイトルとなったのではと思います。実際、前書きには前著には無かった、当時の日本の鎖国の状況と国境の概念が確立されていく過程と歴史が解説されています。そして島根まで赴き、林蔵が関わったとされる浜田藩の「竹島一件」についても調査されています。

前著の探検と調査の再掲に加え、その後2014年にサハリン西海岸を辿った間宮海峡(タタール海峡最狭部)までの探索については、現地で興味深いことを調査されており、最初に海峡を確認したとされる松田伝十郎が樺太西海岸のラッカで確認した「アムール川の河口」は本当にそれだったのか?という疑問を解消しています。
そもそも松田と間宮の探検以前から、現地民への聞き取りにより樺太と大陸との間の海峡の存在は知られていたことなので、巷で海峡の発見者は松田か間宮か論争を繰り広げてもいささかナンセンスなのかなと思います。

前著では未知の世界への探検家として、『国境の人〜』は隠密としての国防任務の要素を加え、同じ探検家の視点で間宮林蔵の全生涯の足跡を追った力作および労作といえるでしょう。著者ならではの動機や視点、また解釈が信頼性のあるものとなっており、紀行や探検モノに興味ある方にもよろしいのではないでしょうか。

ただ正直に言えば、この改訂出版の流れは、間宮の全生涯のように未知への探究心はいづれ最終的にはナワバリを死守することに集約され、個々の情熱は全て一国に尽きると感じてしまい、特に今の世界の情勢がそうさせるものではありますが何とも言えない気分もあります。

#間宮林蔵

関連本

◆『蝦夷草紙』 最上徳内著 吉田常吉編 時事通信社 昭和40年

>>36の後半に記した時事通信社の『蝦夷草紙』を読了しました。出版は1965年なので60年前のものになりますが、おそらくこれが最も原書を解読出来る近道になるのかと思われます。

構成は「蝦夷草紙上巻」「蝦夷草紙下巻」「蝦夷草紙後篇」とそれらの解説、巻末に最上徳内略伝を掲載しています。巻頭によると、底本については、上下巻は東京大学史料編纂所 所蔵の近藤重蔵旧蔵本『正斎遺書』中の最上徳内自筆本、後篇は大友喜作氏校訂の『北門叢書』所収のものとあります。上下巻の徳内自筆本(近藤重蔵関係資料)といわれるものは編纂所のサイトから検索で閲覧可能です。徳内が自筆の本を近藤重蔵に贈ったものといわれており、平成4年度に重要文化財に指定されています。

上巻は松前や蝦夷地の風土や蝦夷(アイヌ)の習慣等について、下巻はエトロフやウルップ、カラフトの風土や各所の現地人や赤人(ロシア人)などから得た情報が記されており、天明5年(1785)から寛政元年(1789)の蝦夷地調査での見聞を記録したものになります。寛政元年にはあの寛政蝦夷蜂起(クナシリ・メナシの戦い)があったため、その発端についても記されています(「嫉妬の深き事」注釈が詳しい)。
翌年、政変により巡見隊の上司青島俊蔵に連座し入牢の身となり、保釈後に師の本多利明宅にて執筆した『蝦夷国風俗人情之沙汰』の改訂版がこの蝦夷草紙とされているようです。

また後篇については、下巻での書き漏らし(イジュヨらとのことは後篇に記されている)を含め再編し、更にその後寛政11年(1799)までの蝦夷地巡見での見聞について記されています。寛政10年(1798)は、徳内が近藤重蔵隊に付いてエトロフまで渡海し日本国の標柱を建てた年になり、それからロシアの南下や松前とアイヌの現状、カラフトへ及ぶ満洲の影響などを痛感し、蝦夷地の開発を強く意識しつつも、幕府の蝦夷地上地に伴う急速なアイヌの和人化などには抵抗を示す心情も見えます。ついには上司松平忠明と山道開発の件で衝突し免職となり、最後の章(「世間取沙汰の事」)には判読不明な文字が多々あるものの(文字の乱雑さか原本の虫損かは不明)、かえってそれが上のやり方に対する激しい憤りの心情が現れているようにも感じられます。

各段落毎に編者の注釈があるので、わかりやすいと思います。原文も比較的読みやすい方だとは思うのですが、現代文の解説や注釈無しに全て理解するにはやはり難しいので(少なくとも自分のレベルでは)、今では研究も進み内容も古くなっている部分がある(かもしれない)とはいえこういう本の存在は有り難いものです。
色々な作品で見知った最上徳内の業績の原典に触れられるという、今となっては貴重な本かもしれません。

巻末の最上徳内の略伝については、もう少し後に出版された人物叢書>>26と合わせて読むのがいいのかとは思いますが、蝦夷地での業績を知るためだけでもこれで十分過ぎるほどのページ数となっています。

#最上徳内 #近藤重蔵

関連本

2026年1月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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「ゆるたん。」ブログの方で以前の樽前登山 を記事化するにあたって、軽く樽前山のことをおさらい(地元の山なので調査というよりは)しようとWikipediaを見ていたら、アイヌ語由来で秦檍丸の『東蝦夷地屏風』が出てきておお?となったのでメモっておきます。思わぬところで出てきた島之允先生。

とはいえこの東蝦夷地屏風の実物、実は以前見ているんですよね…2019年に北海道博物館で催されていた、「アイヌ語地名と北海道」で展示されていました。
趣味ドンピシャな展示だったもので、伊能図から近藤重蔵、今井八九郎などの地図や山田秀三の調査資料等々、それはそれは佳い展示でした。前期後期共に足を運んだくらいにはハマりまして。その中に秦の例の屏風も展示されており、これは北海道特に道南〜道東に馴染みのある方には興味深いものだと思います。

しかし観客の視線は主に伊能図の方に集まり、私は秦の屏風の方に熱視線を注いでいたという。いや伊能図も綺麗で良かったですよ。しかしこの屏風は実質秦の最後の大仕事の一つで、没年の前年に完成させたものらしく。49歳で亡くなったというのもなんだか胸に迫るのです。

それほどまでに観ていたにもかかわらず、地元の周辺の山々の部分は見落としたのか、別件のWikipediaで再発見のような形になってしまったのは、記憶力の衰退かな…

インターネットは偉大ですね、検索するとすぐ出てきて、しかも全6曲8隻が拡大付きで見られるなんて。

東蝦夷地屏風 (函館市中央図書館デジタル資料館)

4隻目の2曲目にある「ヲフイノボリ」というのが、現在の樽前山に相当するらしいです。形が普通の山ですが、今のような陥没した形になったのは明治期なので、なるほどと思いましたね。元の形を見れたみたいで感慨深い。というか、普通の山の形だったので認識出来なかったのでは…?
ただ、その上に恵庭岳らしき名の山もあるので、気づけよと。その間に支笏湖があるはずですが、この角度からだと山の間に隠れて見えないことになるのですかね。これも原因としてありそう。

「燃える山」という意味のアイヌ語らしく、ヲフイノボリ→オフィヌプリ(ohuy-nupuri)→ウフィヌプリ(uhuy-nupuri/こちらが一般的) なのだとか。
絵図が描かれたこの頃から、変わらず火山活動があったということなのでしょう。

それにしても、気になる人物が地元や馴染みの地を記録していたことに勝手に親近感を抱いてしまいます。
そして、シマ先生の画も良いですね…番屋や会所、温泉まで描き込んである。同じく『陸奥州駅路図』でもそうですが現在のような観光地としてというよりは、宿場としての重要なポイントだったから?なのかな…見ていて面白い。

#村上島之允

メモ

2025年10月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

◆『伊能忠敬 日本を測量した男』 童門冬二 河出書房新社 2014年

積読をある程度解消したタイミングで、こちらを読んでみようと、読了したので記しておきます。

一言にいえば、伊能についてのことなら、こちらを真っ先に読んだ方が良かったのではないかと。
童門先生の作品はやはり読みやすく、途中の解説も親切に感じます。

佐原の名主時代、天文方への弟子入り、蝦夷地測量から日本全土の測量までの大方のあらましが書かれています。物語小説というよりは伊能の全生涯の解説本といった方が適当かもしれません。
残された日記や手紙などから心情の部分も推測して書かれていますが、割と驚いたのが、師である高橋至時と子午線一度を出す時に軽く諍いがあったということ。年下の師といつも和気藹々という訳でもなかったのだなと。
あとは二次測量以降の各藩での悶着やトラブルは何故、どのような行き違いで起こったのかというのも著者の想像も交えつつわかりやすく解説されています。
互いの疑心暗鬼と幕府の無理解、身分制度の弊害の側面が大きいものの、伊能の半ば強引な態度もやはりプライドを持った職人気質の頑固者という一面が見られて、彼のキャラクターがリアリティをもって見えてくるようです。セカンドライフを充実させた中高年の星、時には聖人君子的に見られがちだけど、むしろ酸いも甘いも噛み分けた中高年だからこそ頑固さが際立つのかも。よく、性格的には厳格なパワハラモラハラ気質と言われますが、そんな人間臭さの部分にも触れていて、中々面白かったです。当時の身分制度にも楯突くというのは、感性的には現代人に近いものがあり当時としても革新的というか、厄介な変わり者ではあったのだろうなと。

だからこそ、あれだけのことを成し遂げられたのでしょうが。

文章は平易で読みやすく、さすが童門冬二だなと。
若かりし頃に歴史関係の著書をいくつか読んだ記憶があり、親しみやすい文章と、未熟な頭でも理解出来たために著者の名前はよく覚えていました。
そんな童門先生も最近鬼籍に入られてしまい、時代の流れを感じます。

#伊能忠敬

関連本