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江戸期の北方探検家で歴史創作。絵・漫画・設定・調べ物などゆるゆるっとな。


No.45

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島之允先生。間宮林蔵の最初の師で、測量や蝦夷地検分を行った幕吏です。健脚で、一日に三〇里(約120km)を歩き何日続けても疲れないというのは有名で、他には考古学の嗜みもあり古物趣味だったなどが代表的なエピソードになりますが、本人に関しては史料が乏しいので、第三者が語った逸話などをかき集めて伝記として組み立てているという印象が強く、完全に信憑性のある評伝が存在しないというのが妙にミステリアスな印象の人物なのです。

当然肖像画も残されておらず、強いて挙げれば『蝦夷島奇観』地図部のヲシヤマンベ地図の挿絵にある、二本差しの和人がその著者(秦檍丸=村上島之允)の姿になるのでしょうが…ちなみにこれはユーラップ酋長からヲシヤマンベ(長万部か)の地名の由来を聞き取っている図だということです。

肖像画が無いなら勝手なイメージで描いてもよいな…? 伊勢の社家の出だと聞いたので神主っぽい服装にしました。神主の階級によって袴の色が変わるらしい。浅葱は一番下の三・四級だとか。社家の次男で跡継ぎではなかったようなのでこんなところで。

月代にするかも迷いましてね…ひとつ逸話に、アイヌに対して月代を強制的に剃らせようとする役人には反発したらしく、「蝦夷地のような(冷涼な)土地ではそんなもん剃ったら寒かろう」的なことを言ったとか。おもしろいな。
穏やかな物腰だったとかそんな評もあるらしく、個人的にはイケメン枠ということで。そういうイメージです。

『蝦夷島奇観(えぞがしまきかん)』とは、蝦夷地の開発と夷人(アイヌ)の和人化により失われていく風俗や文化を惜しみ、記録として残しその姿をまだ知らない人のためにという目的で著されたものですが、著者の秦が社家の出、(おそらく)国学の徒ということもあってかアイヌ文化に日本古来の文化との共通点を見出し、両者は遡れば同胞だったという説を展開しており、現代ではそのまま鵜呑みにするには慎重を要するものではあります。
ただこの時代、一般庶民には異民族の文化が劣ったものと見られる風潮と、その偏見を払拭するために著されたものという見方もあり、いづれにせよ執筆当時の江戸後期のアイヌ文化を知る貴重な史料とされています。

ところがこの蝦夷島奇観、写本が実に多く、おおもとの秦の自筆本が果たして存在するのかが謎らしいのですが…
自筆の可能性が高いと言われているのが東京国立博物館蔵のもの(通称:東博本)で、1982年に雄峰社から出版された翻刻本がNDLのデジタルコレクションで閲覧出来ると知り、ひと通り閲覧・読了しました。
書き文字を見た第一印象は率直に「これ村上貞助の字じゃん」だったのですが、間宮が口述し村上貞助が執筆した『北夷分界余話』『東韃地方紀行』(国立公文書館蔵)の字とかなり似ているので、東博本=秦檍丸自筆説に少々疑いの目を持っています。この辺りはまだまだ研究途中らしく、様々な論考があるようですので、個人的に少し追ってみたいなと思っています(蝦夷島奇観は1800年頃、北夷分界余話等は1810年の成立で、秦は1808年に没している)。

巻末の「秦檍麿略伝」からは、あまり知られていない彼の逸話が多く載っていて、真偽はともかくこれは興味深いです。上で記したとおりに、彼と親交のあった第三者が記した(語った)ものが多いので、多方面から確認出来ればと思います。

東博本に掲載の秦筆とされる蝦夷地図とイヲマンテ(熊送り)、エトピリカ、エゾスカシユリを添えました。
エゾスカシユリに関しては、東博本の写生部に「アムラクル」(一曰くイマキバロ)と題したユリの写生があるのですが、アンラコロはクロユリなのに挿絵のユリは黒くないのと、イマキバルはクロユリではなくエゾスカシユリなので、挿絵はエゾスカシユリのつもりで描かれたのだろうかと。聞き取り間違いはまああることだとして。

どちらを描こうか迷って結局エゾスカシユリにしましたが、配色的にクロユリの方が締まったかな…エトピリカは、めっちゃ泳ぐらしいです。

#村上島之允

イラスト