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江戸期の北方探検家で歴史創作。絵・漫画・設定・調べ物などゆるゆるっとな。


2026年の投稿2件]

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◆『蝦夷草紙』 最上徳内著 吉田常吉編 時事通信社 昭和40年

>>36の後半に記した時事通信社の『蝦夷草紙』を読了しました。出版は1965年なので60年前のものになりますが、おそらくこれが最も原書を解読出来る近道になるのかと思われます。

構成は「蝦夷草紙上巻」「蝦夷草紙下巻」「蝦夷草紙後篇」とそれらの解説、巻末に最上徳内略伝を掲載しています。巻頭によると、底本については、上下巻は東京大学史料編纂所 所蔵の近藤重蔵旧蔵本『正斎遺書』中の最上徳内自筆本、後篇は大友喜作氏校訂の『北門叢書』所収のものとあります。上下巻の徳内自筆本(近藤重蔵関係資料)といわれるものは編纂所のサイトから検索で閲覧可能です。徳内が自筆の本を近藤重蔵に贈ったものといわれており、平成4年度に重要文化財に指定されています。

上巻は松前や蝦夷地の風土や蝦夷(アイヌ)の習慣等について、下巻はエトロフやウルップ、カラフトの風土や各所の現地人や赤人(ロシア人)などから得た情報が記されており、天明5年(1785)から寛政元年(1789)の蝦夷地調査での見聞を記録したものになります。寛政元年にはあの寛政蝦夷蜂起(クナシリ・メナシの戦い)があったため、その発端についても記されています(「嫉妬の深き事」注釈が詳しい)。
翌年、政変により巡見隊の上司青島俊蔵に連座し入牢の身となり、保釈後に師の本多利明宅にて執筆した『蝦夷国風俗人情之沙汰』の改訂版がこの蝦夷草紙とされているようです。

また後篇については、下巻での書き漏らし(イジュヨらとのことは後篇に記されている)を含め再編し、更にその後寛政11年(1799)までの蝦夷地巡見での見聞について記されています。寛政10年(1798)は、徳内が近藤重蔵隊に付いてエトロフまで渡海し日本国の標柱を建てた年になり、それからロシアの南下や松前とアイヌの現状、カラフトへ及ぶ満洲の影響などを痛感し、蝦夷地の開発を強く意識しつつも、幕府の蝦夷地上地に伴う急速なアイヌの和人化などには抵抗を示す心情も見えます。ついには上司松平忠明と山道開発の件で衝突し免職となり、最後の章(「世間取沙汰の事」)には判読不明な文字が多々あるものの(文字の乱雑さか原本の虫損かは不明)、かえってそれが上のやり方に対する激しい憤りの心情が現れているようにも感じられます。

各段落毎に編者の注釈があるので、わかりやすいと思います。原文も比較的読みやすい方だとは思うのですが、現代文の解説や注釈無しに全て理解するにはやはり難しいので(少なくとも自分のレベルでは)、今では研究も進み内容も古くなっている部分がある(かもしれない)とはいえこういう本の存在は有り難いものです。
色々な作品で見知った最上徳内の業績の原典に触れられるという、今となっては貴重な本かもしれません。

巻末の最上徳内の略伝については、もう少し後に出版された人物叢書>>26と合わせて読むのがいいのかとは思いますが、蝦夷地での業績を知るためだけでもこれで十分過ぎるほどのページ数となっています。

#最上徳内 #近藤重蔵

関連本

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「ゆるたん。」ブログの方で以前の樽前登山 を記事化するにあたって、軽く樽前山のことをおさらい(地元の山なので調査というよりは)しようとWikipediaを見ていたら、アイヌ語由来で秦檍丸の『東蝦夷地屏風』が出てきておお?となったのでメモっておきます。思わぬところで出てきた島之允先生。

とはいえこの東蝦夷地屏風の実物、実は以前見ているんですよね…2019年に北海道博物館で催されていた、「アイヌ語地名と北海道」で展示されていました。
趣味ドンピシャな展示だったもので、伊能図から近藤重蔵、今井八九郎などの地図や山田秀三の調査資料等々、それはそれは佳い展示でした。前期後期共に足を運んだくらいにはハマりまして。その中に秦の例の屏風も展示されており、これは北海道特に道南〜道東に馴染みのある方には興味深いものだと思います。

しかし観客の視線は主に伊能図の方に集まり、私は秦の屏風の方に熱視線を注いでいたという。いや伊能図も綺麗で良かったですよ。しかしこの屏風は実質秦の最後の大仕事の一つで、没年の前年に完成させたものらしく。49歳で亡くなったというのもなんだか胸に迫るのです。

それほどまでに観ていたにもかかわらず、地元の周辺の山々の部分は見落としたのか、別件のWikipediaで再発見のような形になってしまったのは、記憶力の衰退かな…

インターネットは偉大ですね、検索するとすぐ出てきて、しかも全6曲8隻が拡大付きで見られるなんて。

東蝦夷地屏風 (函館市中央図書館デジタル資料館)

4隻目の2曲目にある「ヲフイノボリ」というのが、現在の樽前山に相当するらしいです。形が普通の山ですが、今のような陥没した形になったのは明治期なので、なるほどと思いましたね。元の形を見れたみたいで感慨深い。というか、普通の山の形だったので認識出来なかったのでは…?
ただ、その上に恵庭岳らしき名の山もあるので、気づけよと。その間に支笏湖があるはずですが、この角度からだと山の間に隠れて見えないことになるのですかね。これも原因としてありそう。

「燃える山」という意味のアイヌ語らしく、ヲフイノボリ→オフィヌプリ(ohuy-nupuri)→ウフィヌプリ(uhuy-nupuri/こちらが一般的) なのだとか。
絵図が描かれたこの頃から、変わらず火山活動があったということなのでしょう。

それにしても、気になる人物が地元や馴染みの地を記録していたことに勝手に親近感を抱いてしまいます。
そして、シマ先生の画も良いですね…番屋や会所、温泉まで描き込んである。同じく『陸奥州駅路図』でもそうですが現在のような観光地としてというよりは、宿場としての重要なポイントだったから?なのかな…見ていて面白い。

#村上島之允

メモ