カテゴリ「イラスト」に属する投稿[13件]

徳内さん。やっぱり印象深いのはイジュヨとのすれ違いですかね…
エトロフ島調査で出会ったロシア人イジュヨらに退去を促しつつも、ロシア語を教わったり互いの国情を交換したりと、友情も深めていくものの、その数年後に再度エトロフ島へ向かうも、到着した2日前にイジュヨは既に島を退去しており、すれ違いに。
一説には、イジュヨらは、エトロフに向かって来ているのが徳内ではなく他の役人だと思い込み慌てて退去したとも言われており、またこの間に徳内さんも普請役に昇進したために以前より自由に動けず、後を追うのが遅れたという事情もあるらしく。
徳内さんが握りしめているのは、イジュヨからもらったパスポートです。
エトロフからウルップ、更にその先カムチャッカまで、広い世界への関心を持つ徳内さんに、ロシア側に捕まってもこれがあれば大丈夫と渡してくれたもの。これがあればどこへでも行けると、『風雲児たち』でも描かれたシーンは印象的です。
花はチシマザクラ。鳥は、善知鳥(ウトウ)といいます。北海道の離島や北方領土方面に多く生息しているのですが、この剥製を持ち帰って堀田老中へ贈り、他文化人の関心を引いたりもしていた模様。
地図は彼の報告書『蝦夷国風俗人情之沙汰付図』を参考に、エゾからカラフト、クナシリ、エトロフ方面になります。
イジュヨとの出会いからエトロフ再渡島までの間にも、松前藩に追い出されたり、自身の婚姻や、上司の青島に連座し投獄され(これは理不尽案件ですが)、妻が江戸まで追いかけてくるなどなど、波乱とエピソードも豊富な御仁です。全生涯で9度、蝦夷地に渡島して調査し、その後も八王子で製蠟の指導や論語の再編等の執筆活動も精力的にこなすなど、この方の辞書に休息などという言葉はあったのだろうかという活動ぶり。晩年は平田篤胤と深い交流があったようです。
シーボルトに間宮の地図を渡したのも彼…25年間の出版禁止の約束を取り付けた(それを守ったシーボルトも誠実)のは賢明だなぁと。
復習で色々読み返しましたが、改めてなかなか面白かったです。
#最上徳内

あけましておめでとうございます。
明けてしまいましたね、最近の1年はあっという間に感じます。
こちら歴創ブログでのご挨拶になりますが、今年もよろしくお願いいたします。
年表作りを継続していて、参考本の誤字や間違いの多さにキーキー言いながらの年越しでした。嫌な年越しだな…
年賀状は既に出していないのでSNS向けにはと思いつつ、こんな状況なので今年は年賀絵もろくに描いていないのですが、過去に描いたものをこの機会にアップします。
2021年のものですね…今のこちらのトップバナーの絵になります。雰囲気よいですね(自画自賛)。
火鉢囲んで師弟が一同に会している画なんて創作でしかお目にかかれません(そもそも年代も違う)。その通りエゾの冬はこれでは凌げませんが…松前の人たちはあくまで和人の生活様式にこだわった?ようだけど、よくやってこれたな…
右側の、犬の毛皮持ってる人は八九郎さんのつもりだったのですが、なんか怪しい毛皮商人っぽくて笑えます。
極寒の地で身につける毛皮は、冬眠動物であるクマよりイヌの方がいい(撥水効果がある)という話もよく聞きますね、私は吉村昭の『間宮林蔵』で初めて知り、ほほう!となったものです。原典あったら紐解いてみたいな。
松前藩士の今井八九郎(間宮の弟子)には、樺太調査の時に子グマを2頭ほど連れて湯たんぽ代わりに懐に入れて就寝し、子グマが成長してしまったときには〆てその毛皮を身につけたとかいうワイルドなエピソードが残っています。
前の年代(蝦夷地第一次幕領期)の警備では、津軽藩や会津藩で多数の死者を出していることもあり、寒冷地での駐留はそれだけ大変な任務だったのだと思います。
ゆるりとした冬を過ごせた時が彼らにもあったらいいなぁ。
#間宮林蔵 #伊能忠敬 #村上島之允 #アイヌ #村上貞助 #今井八九郎

日常の忙しさにかまけていたら、もうクリスマス当日になっていましたね…!
それまでには上げようと思っていた、トナカイとまみりんです。
2019年のクリスマス絵として旧Twitterにも上げた過去絵ですが、北方の歴史にハマってからやたら描くことが増えたトナカイさん。
>>5でも描いていますわね…
トナカイという獣の存在を日本に初めて伝えたのが、間宮ということらしい。
(「トナカイ」はアイヌ語、発音的には「トゥナッカイ」だとか)
それ以前にも目にしている日本人はいたのかもしれないけど(松前藩や幕吏など相当数の人がカラフトを巡検しているので)、書物で著して知らせたのは彼が初めてということですね。
尚、彼は冬にトナカイの生息地(ウィルタ民族の居住地)には行っていません。絵は妄想です(笑)
#間宮林蔵

イノー先生。以前アナログで描いたものをデジタルでリメイクしたもの。
先生の測量事業の第一歩は、北海道(東蝦夷地)から!ということで、測量した海岸線とハマナス、タンチョウ、トドワラっぽい道東の風景を織り交ぜてみました。こういうのをそれぞれの人物で描きたいのですよね。描き溜めたら本に出来るかな…したいな。
例の液タブで描いてみました。モニタに直書きなので板タブよりも描きやすくて良いです。
修正ややり直しがある程度効く分、細部までこだわるとキリがないというか、時間が溶けます…利点はパーツごとにレイヤー分けしておくと、後でそれぞれの色調整が可能なところですかね(ソフトはPhotoshopです)。
アナログの一発描きの思い切りの良さが無くなるのはいいのか悪いのかですが、そのままPCの前で思い立った時にぱっと描ける環境は憧れでもあったので、まあ精進します(笑)
#伊能忠敬
島之允先生。間宮林蔵の最初の師で、測量や蝦夷地検分を行った幕吏です。健脚で、一日に三〇里(約120km)を歩き何日続けても疲れないというのは有名で、他には考古学の嗜みもあり古物趣味だったなどが代表的なエピソードになりますが、本人に関しては史料が乏しいので、第三者が語った逸話などをかき集めて伝記として組み立てているという印象が強く、完全に信憑性のある評伝が存在しないというのが妙にミステリアスな印象の人物なのです。
当然肖像画も残されておらず、強いて挙げれば『蝦夷島奇観』地図部のヲシヤマンベ地図の挿絵にある、二本差しの和人がその著者(秦檍丸=村上島之允)の姿になるのでしょうが…ちなみにこれはユーラップ酋長からヲシヤマンベ(長万部か)の地名の由来を聞き取っている図だということです。
肖像画が無いなら勝手なイメージで描いてもよいな…? 伊勢の社家の出だと聞いたので神主っぽい服装にしました。神主の階級によって袴の色が変わるらしい。浅葱は一番下の三・四級だとか。社家の次男で跡継ぎではなかったようなのでこんなところで。
月代にするかも迷いましてね…ひとつ逸話に、アイヌに対して月代を強制的に剃らせようとする役人には反発したらしく、「蝦夷地のような(冷涼な)土地ではそんなもん剃ったら寒かろう」的なことを言ったとか。おもしろいな。
穏やかな物腰だったとかそんな評もあるらしく、個人的にはイケメン枠ということで。そういうイメージです。
『蝦夷島奇観(えぞがしまきかん)』とは、蝦夷地の開発と夷人(アイヌ)の和人化により失われていく風俗や文化を惜しみ、記録として残しその姿をまだ知らない人のためにという目的で著されたものですが、著者の秦が社家の出、(おそらく)国学の徒ということもあってかアイヌ文化に日本古来の文化との共通点を見出し、両者は遡れば同胞だったという説を展開しており、現代ではそのまま鵜呑みにするには慎重を要するものではあります。
ただこの時代、一般庶民には異民族の文化が劣ったものと見られる風潮と、その偏見を払拭するために著されたものという見方もあり、いづれにせよ執筆当時の江戸後期のアイヌ文化を知る貴重な史料とされています。
ところがこの蝦夷島奇観、写本が実に多く、おおもとの秦の自筆本が果たして存在するのかが謎らしいのですが…
自筆の可能性が高いと言われているのが東京国立博物館蔵のもの(通称:東博本)で、1982年に雄峰社から出版された翻刻本がNDLのデジタルコレクションで閲覧出来ると知り、ひと通り閲覧・読了しました。
書き文字を見た第一印象は率直に「これ村上貞助の字じゃん」だったのですが、間宮が口述し村上貞助が執筆した『北夷分界余話』『東韃地方紀行』(国立公文書館蔵)の字とかなり似ているので、東博本=秦檍丸自筆説に少々疑いの目を持っています。この辺りはまだまだ研究途中らしく、様々な論考があるようですので、個人的に少し追ってみたいなと思っています(蝦夷島奇観は1800年頃、北夷分界余話等は1810年の成立で、秦は1808年に没している)。
巻末の「秦檍麿略伝」からは、あまり知られていない彼の逸話が多く載っていて、真偽はともかくこれは興味深いです。上で記したとおりに、彼と親交のあった第三者が記した(語った)ものが多いので、多方面から確認出来ればと思います。
東博本に掲載の秦筆とされる蝦夷地図とイヲマンテ(熊送り)、エトピリカ、エゾスカシユリを添えました。
エゾスカシユリに関しては、東博本の写生部に「アムラクル」(一曰くイマキバロ)と題したユリの写生があるのですが、アンラコロはクロユリなのに挿絵のユリは黒くないのと、イマキバルはクロユリではなくエゾスカシユリなので、挿絵はエゾスカシユリのつもりで描かれたのだろうかと。聞き取り間違いはまああることだとして。
どちらを描こうか迷って結局エゾスカシユリにしましたが、配色的にクロユリの方が締まったかな…エトピリカは、めっちゃ泳ぐらしいです。
#村上島之允