No.41, No.40, No.39, No.38, No.37, No.36, No.35[7件]
長年使っていたお財布につけていた間宮くんの絵馬ストラップ。さすがに9年もつけていたらこうなりますよねぇ
何が描かれていたのかわからないくらいになりましたねえ。
右側には「不撓不屈」と書かれていました。
裏側。これは2016年に宗谷岬に行った時に買ったものです。
台紙が可愛かったので取っておいてました。イラストは、あの「ヒジカタ君」でおなじみの、まうのすけ先生のものです。
ほんわか風味のまみりん、なかなかお見かけしなくて可愛い。
こっちも新調したいけど、宗谷岬の売店にしか売ってないらしいので、難易度高いですね…今でも売っているのかしら…
もう一種類、違うデザインのもあったのだけど、そっちも買っておけばよかったなあ…
mstdn.yurutan.net 2025年8月31日 19:07
#間宮林蔵
2006年に知床へ旅行に行った際、ひかりごけ目当てに羅臼町のマッカウス洞窟へ足を運んだのですが、そこに建っていた石碑と案内板の説明に惹かれました。
そう、これが松浦武四郎との出会いだったわけです。
当時の筆者は開拓期以前の北海道の歴史については無知で、幕末の時代に蝦夷地まで来てすごい冒険をした人がいたのだなぁと驚きつつこの看板を眺めていました。そしてこの洞窟に宿泊したのかと。クマが魚の骨をバリバリ食べる音って…それは現代人の我々も怖い…
隣にあった詩碑。大分見づらいですが。
上の看板の説明のとおり、これは彼の著作『知床日誌』の中にある詩で、洞窟に野宿したことが書かれていますが、『戊午志礼登古日誌 乾』という日誌には、「チトライ川口(マッカウスから海岸を300m程北上した所)の番屋に泊まった」旨のことが書かれており(参考:『松浦武四郎知床紀行』秋葉實編)、洞窟のことには触れられていません。『戊午〜』は実際の日誌(紀行文)と思われ、『知床日誌』は紀行を元にした作品、と見るべきものなのでしょう。日誌の著作は他にも『石狩日誌』『天塩日誌』『十勝日誌』など多数ありますが、これらは蝦夷地調査を終えてしばらく経ってから著され、広く民衆にも読まれるために潤色(アレンジ)を加えて出版されたものとのこと。
ですので、実際に泊まったのは番屋の方で、このマッカウス洞窟には泊まっていないようです。
ならクマの件も…? ガッカリするやらホッとするやら。
ですがまあ、著名な人物の著作に出てくる洞窟と思えば(洞窟の存在自体は見聞きしたものなのでしょうし)、これも史跡ですから。
それにしてもこういうのは、案内板で馬鹿正直に説明しようとするといささか理屈っぽくなってしまうので悩みどころでしょうね…
※このパターンは、拙著同人誌『希望と洞窟と石垣山』 に記したのと同じですね〜。武四郎が泊まったと云われる別の洞窟の実際的なことを書いています。まあそういうことです。洞窟に泊まるシチュエーション好きかよ。まあワクワクするよね。
それはともかく、自分にとってここは"北海道の名付け親"松浦武四郎のことを知った思い入れの深い場所になります(他にも登山家、古物蒐集家の顔がある)。
これをきっかけに、関連書籍を読んだり(彼自身の著作は膨大なので…さすがに全ては無理ですが)して関心を持ち、そして今に至ります。北方探検家に興味を持った源流が、彼を知ったことだったと思います。もう20年近くになるとは…色々な人物に寄り道してまだすべての著作を読めていない。本格的にハマってしまったら沼一直線なのでしょうね…
ただこの思い出深いマッカウス洞窟も、崩落の危険のため今はもう見ることが出来ません。
上の石碑と案内板は、かろうじて洞窟の囲いの外にあるようで通行止め地点から徒歩で入れば見られるようなのですが…




雰囲気だけでも…(ひかりごけは柵の内側に自生していました。詳しくはこちら へ)
※『知床日誌』の本文と訳文は、奈良女子大学学術情報センターの所蔵資料『知床日誌』 を参考にさせていただきました。
#松浦武四郎
そう、これが松浦武四郎との出会いだったわけです。当時の筆者は開拓期以前の北海道の歴史については無知で、幕末の時代に蝦夷地まで来てすごい冒険をした人がいたのだなぁと驚きつつこの看板を眺めていました。そしてこの洞窟に宿泊したのかと。クマが魚の骨をバリバリ食べる音って…それは現代人の我々も怖い…
隣にあった詩碑。大分見づらいですが。松浦武四郎 野宿の地
仮寝する窟におふる石小菅 葦し菖蒲と見てこそハねめ
安政五年五月●日 武四郎
上の看板の説明のとおり、これは彼の著作『知床日誌』の中にある詩で、洞窟に野宿したことが書かれていますが、『戊午志礼登古日誌 乾』という日誌には、「チトライ川口(マッカウスから海岸を300m程北上した所)の番屋に泊まった」旨のことが書かれており(参考:『松浦武四郎知床紀行』秋葉實編)、洞窟のことには触れられていません。『戊午〜』は実際の日誌(紀行文)と思われ、『知床日誌』は紀行を元にした作品、と見るべきものなのでしょう。日誌の著作は他にも『石狩日誌』『天塩日誌』『十勝日誌』など多数ありますが、これらは蝦夷地調査を終えてしばらく経ってから著され、広く民衆にも読まれるために潤色(アレンジ)を加えて出版されたものとのこと。
ですので、実際に泊まったのは番屋の方で、このマッカウス洞窟には泊まっていないようです。
ならクマの件も…? ガッカリするやらホッとするやら。
ですがまあ、著名な人物の著作に出てくる洞窟と思えば(洞窟の存在自体は見聞きしたものなのでしょうし)、これも史跡ですから。
それにしてもこういうのは、案内板で馬鹿正直に説明しようとするといささか理屈っぽくなってしまうので悩みどころでしょうね…
※このパターンは、拙著同人誌『希望と洞窟と石垣山』 に記したのと同じですね〜。武四郎が泊まったと云われる別の洞窟の実際的なことを書いています。まあそういうことです。洞窟に泊まるシチュエーション好きかよ。まあワクワクするよね。
それはともかく、自分にとってここは"北海道の名付け親"松浦武四郎のことを知った思い入れの深い場所になります(他にも登山家、古物蒐集家の顔がある)。
これをきっかけに、関連書籍を読んだり(彼自身の著作は膨大なので…さすがに全ては無理ですが)して関心を持ち、そして今に至ります。北方探検家に興味を持った源流が、彼を知ったことだったと思います。もう20年近くになるとは…色々な人物に寄り道してまだすべての著作を読めていない。本格的にハマってしまったら沼一直線なのでしょうね…
ただこの思い出深いマッカウス洞窟も、崩落の危険のため今はもう見ることが出来ません。
上の石碑と案内板は、かろうじて洞窟の囲いの外にあるようで通行止め地点から徒歩で入れば見られるようなのですが…




雰囲気だけでも…(ひかりごけは柵の内側に自生していました。詳しくはこちら へ)
※『知床日誌』の本文と訳文は、奈良女子大学学術情報センターの所蔵資料『知床日誌』 を参考にさせていただきました。
#松浦武四郎
当コンテンツ『ゆるたん。』ブログのこの記事 を纏めていて、羅臼の海岸から国後島が見える写真があり、そのシルエットが山のように見えるため山岳としての名前があるのかと調べてみると、泊山(とまりやま)という名前で、別名Golovninというらしい。
ん?
んんん…???
Golovnin?
ゴロヴニン!!!
あああ、あのゴローニンのことですね!?
あのゴローニン事件の、まみりんとバチバチした、あの人ですね!(雑)
ヴァシーリー・ゴローヴニン(日本語表記だと表記揺れの多い人ですが)はロシアの軍人で、ディアナ号での世界一周調査の途中、その数年前に発生した文化露寇の影響で警戒中の日本側に拿捕、身柄を拘束され箱館や松前に幽閉されていた人です。途中で脱走を試みるも連れ戻され、のちにロシア側のリコルドに拿捕された高田屋嘉兵衛が交渉の結果、互いに身柄を交換で帰還を果たしたという、波乱の人でもあります。
日本での幽閉生活中に『日本幽囚記』を記し、日本での出来事や会った人々、日本の習慣習俗などに触れていますが、概ね日本人のことは好意的に見られていたらしく、日本語訳も出版されているものを読むと中々面白かったりします。日本ではロシア語がほとんど通じなかったため、会話は同行していた千島アイヌがアイヌ語に訳し、それを日本人のアイヌ語通辞が日本語に訳すという2段階通訳で意思疎通をしたといわれ、その後接見した日本役人にロシア語を教えることになったが、アイヌ語通辞の上原熊次郎は老齢だからか覚えが悪く、村上貞助はとても優秀だった旨のことが記されていたり。ゴロちゃん辛口で上原さんが気の毒。
中でも間宮林蔵とのエピソードが面白すぎで、絶対印象悪いはずの人に数行費やして色々書かれているのは不思議。何度も通い詰めてきて測量法を聞き出そうとしてくるも事情があって教えられずにいるとブチギレられて、日本の軍船を差し向けるぞと恐喝してきたり(それならロシア側でもその何倍もの数で迎え撃つぞと反論してる)、自分の樺太探検の話を自慢気に延々と話す(なんだコイツは)などとまあ実にしつこい(病みそう)。と感じの悪さオンパレードなのに、悪いことばかりでもなく彼の話には未知の情報もあったり他色々と興味深い話もしたよと何故かフォローが入ったり。実は好いてんのかよ。良くも悪くも印象に残った人物なんでしょうが、両者負けず劣らず知的好奇心旺盛で勉強家、方向性は同じでも自国の立場があるために完全には親密になれなかったんだろうなあという感じもします。
で、国後の泊山に何故彼の名が付いているのか。日本に捕まる前に国後島を訪れているらしく、その時にこの山を記したことで付いたのだろうか。土地や地形に人名を付すのは西欧にはよくあるけれど、日本では地名を人が名乗る(名字・姓)ことが多いなとふと思った。
間宮海峡も間宮自身や日本側が付けた訳ではなくシーボルトの紹介で呼ばれた名(マミヤノセト)だったわけだし、ロシア側ではネヴェリスコイ海峡だし(間宮が探検したあとに大型船舶で初めて通過した人物の名)。今はタタール海峡が国際的な名称になっているけれど。
うーん、とりとめがなくなってしまった。

羅臼オッカバケ港付近から見た国後。
多分あれが泊山(Golovnin)なのかなあ。近くて遠い、思わぬところで発見した知っている人。
#間宮林蔵 #村上貞助 #ゴロヴニン
ん?
んんん…???
Golovnin?
ゴロヴニン!!!
あああ、あのゴローニンのことですね!?
あのゴローニン事件の、まみりんとバチバチした、あの人ですね!(雑)
ヴァシーリー・ゴローヴニン(日本語表記だと表記揺れの多い人ですが)はロシアの軍人で、ディアナ号での世界一周調査の途中、その数年前に発生した文化露寇の影響で警戒中の日本側に拿捕、身柄を拘束され箱館や松前に幽閉されていた人です。途中で脱走を試みるも連れ戻され、のちにロシア側のリコルドに拿捕された高田屋嘉兵衛が交渉の結果、互いに身柄を交換で帰還を果たしたという、波乱の人でもあります。
日本での幽閉生活中に『日本幽囚記』を記し、日本での出来事や会った人々、日本の習慣習俗などに触れていますが、概ね日本人のことは好意的に見られていたらしく、日本語訳も出版されているものを読むと中々面白かったりします。日本ではロシア語がほとんど通じなかったため、会話は同行していた千島アイヌがアイヌ語に訳し、それを日本人のアイヌ語通辞が日本語に訳すという2段階通訳で意思疎通をしたといわれ、その後接見した日本役人にロシア語を教えることになったが、アイヌ語通辞の上原熊次郎は老齢だからか覚えが悪く、村上貞助はとても優秀だった旨のことが記されていたり。ゴロちゃん辛口で上原さんが気の毒。
中でも間宮林蔵とのエピソードが面白すぎで、絶対印象悪いはずの人に数行費やして色々書かれているのは不思議。何度も通い詰めてきて測量法を聞き出そうとしてくるも事情があって教えられずにいるとブチギレられて、日本の軍船を差し向けるぞと恐喝してきたり(それならロシア側でもその何倍もの数で迎え撃つぞと反論してる)、自分の樺太探検の話を自慢気に延々と話す(なんだコイツは)などとまあ実にしつこい(病みそう)。と感じの悪さオンパレードなのに、悪いことばかりでもなく彼の話には未知の情報もあったり他色々と興味深い話もしたよと何故かフォローが入ったり。実は好いてんのかよ。良くも悪くも印象に残った人物なんでしょうが、両者負けず劣らず知的好奇心旺盛で勉強家、方向性は同じでも自国の立場があるために完全には親密になれなかったんだろうなあという感じもします。
で、国後の泊山に何故彼の名が付いているのか。日本に捕まる前に国後島を訪れているらしく、その時にこの山を記したことで付いたのだろうか。土地や地形に人名を付すのは西欧にはよくあるけれど、日本では地名を人が名乗る(名字・姓)ことが多いなとふと思った。
間宮海峡も間宮自身や日本側が付けた訳ではなくシーボルトの紹介で呼ばれた名(マミヤノセト)だったわけだし、ロシア側ではネヴェリスコイ海峡だし(間宮が探検したあとに大型船舶で初めて通過した人物の名)。今はタタール海峡が国際的な名称になっているけれど。
うーん、とりとめがなくなってしまった。

羅臼オッカバケ港付近から見た国後。
多分あれが泊山(Golovnin)なのかなあ。近くて遠い、思わぬところで発見した知っている人。
#間宮林蔵 #村上貞助 #ゴロヴニン
6月の北海道COMITIA21合わせに新刊を作ったのですが、ちょうどこのブログで小幌海岸>>31を出したので、小幌駅の探索レポとして発行すべく色々調べていましたら、最寄りの岩屋観音絡みで興味深いことが判明したのでここに記しておこうと思います。

小幌駅へは2015年に、国道脇から林道へ入り徒歩で訪れているのですが、途中降りる浜に小幌洞窟があり、その中に「岩屋観音」が祀られています。
上の写真がその小幌洞窟なのですが、鳥居も相まって凄い雰囲気です。こちらは今でも漁師の守り神として、毎年祭礼が行われています。
この岩屋観音、あの円空仏が祀られていることで有名です。こちらに祀られているのは「首なし観音」と呼ばれる(修復された)仏像になります。
入口の鳥居。岩壁の隙間に押しつぶされそうな場所に祀られています。神仏習合の祠になります。

内部は外から見るよりもそこそこ広く、その昔円空上人がここに籠もって仏像を彫ったのだとか。
両脇にあるのは仏像のレプリカで、本物の首なし観音はお堂の奥にあるのか普段は窺うことは出来ません。
と、ここまでは予てから知っていた事柄ですが、実はここで円空上人が彫って安置した仏像は首なし観音の他に4体あったらしく、その4体は北海道内の各地に送られ、今でも祀られている寺社がある、ということを知りました。
円空は1666年(寛文6)蝦夷地に渡り、渡島半島の数カ所で仏像を彫っては安置しています。洞爺湖の近く有珠山にも登り、下山後この小幌海岸に立ち寄り仏像を彫って安置しましたが、有珠山より奥(東側)へは進めなかったため、仏像の背中にはそれぞれ未踏の地名(祀るべく地、山)を彫り、計5体をその場に安置したといわれています。
時は下って1791年(寛政3)、民俗学者の菅江真澄が小幌洞窟で5体の円空仏を発見し、そのうち1体は朽ちていて背中の文字も判別出来なかったとあることから、これが逸話のクマに襲われた首なし観音と思われます。
更にその後、残り4体はその背銘通りにそれぞれの地に送られることになるのですが、それを命じ手配したのがあの松田伝十郎(当時は仁三郎)だったのです。松田がエトモ(室蘭)に勤務していた際>>29、小幌洞窟を巡検し発見した4体の円空仏の背銘を確認し(朽ちた仏像には言及していない)、その通りに各所へ送って安置するのがよいとの判断を下したようです。
4体はそれぞれ有珠奥の院(洞爺湖観音島)、タルマエ(苫小牧)、クスリ(釧路)、ユウバリ(夕張岳が見える?千歳方面)に送られ、有珠奥の院の仏像は現在は有珠善光寺に、タルマエは錦岡樽前山神社、クスリは釧路市厳島神社に今も安置されています。有珠善光寺の仏像は現在北海道の有形文化財に指定されていますが、それに至るまでには紆余曲折があり…
(詳しくは拙新刊『徒歩で来た。小幌への道 』の後書きと年表に記しましたので、ご興味ある方はご覧いただけますと幸いです…)

ここでも松田伝十郎の名を見るとは思いませんでした。小幌の洞窟はそれまではどちらかというと小幌駅とセットのイメージだったので(そのつもりで駅を訪れた)、別ルートで知っている歴史人物に繋がるという意外性が。しかし円空はそれより昔の人物で、後世の人々の信仰の対象でもあったことを思えばまあ、色々繋がるものなんでしょうね。円空仏を彫ったのもそれを各地に送ったのも(和人が信仰している)仏の教えを広めたいという思惑も当然あったのでしょうし。
今回大変興味深い新刊づくりとなりました。これからもそんな繋がりを沢山知ることになるのでしょう。
このために、何処にも扱いがなく入手を諦めていた松田の『北夷談』の現代語訳を、某所で発見し漸く手に入れることが出来たのも嬉しい出来事でした。
#松田伝十郎 #円空

小幌駅へは2015年に、国道脇から林道へ入り徒歩で訪れているのですが、途中降りる浜に小幌洞窟があり、その中に「岩屋観音」が祀られています。
上の写真がその小幌洞窟なのですが、鳥居も相まって凄い雰囲気です。こちらは今でも漁師の守り神として、毎年祭礼が行われています。
この岩屋観音、あの円空仏が祀られていることで有名です。こちらに祀られているのは「首なし観音」と呼ばれる(修復された)仏像になります。
入口の鳥居。岩壁の隙間に押しつぶされそうな場所に祀られています。神仏習合の祠になります。
内部は外から見るよりもそこそこ広く、その昔円空上人がここに籠もって仏像を彫ったのだとか。両脇にあるのは仏像のレプリカで、本物の首なし観音はお堂の奥にあるのか普段は窺うことは出来ません。
と、ここまでは予てから知っていた事柄ですが、実はここで円空上人が彫って安置した仏像は首なし観音の他に4体あったらしく、その4体は北海道内の各地に送られ、今でも祀られている寺社がある、ということを知りました。
円空は1666年(寛文6)蝦夷地に渡り、渡島半島の数カ所で仏像を彫っては安置しています。洞爺湖の近く有珠山にも登り、下山後この小幌海岸に立ち寄り仏像を彫って安置しましたが、有珠山より奥(東側)へは進めなかったため、仏像の背中にはそれぞれ未踏の地名(祀るべく地、山)を彫り、計5体をその場に安置したといわれています。
時は下って1791年(寛政3)、民俗学者の菅江真澄が小幌洞窟で5体の円空仏を発見し、そのうち1体は朽ちていて背中の文字も判別出来なかったとあることから、これが逸話のクマに襲われた首なし観音と思われます。
更にその後、残り4体はその背銘通りにそれぞれの地に送られることになるのですが、それを命じ手配したのがあの松田伝十郎(当時は仁三郎)だったのです。松田がエトモ(室蘭)に勤務していた際>>29、小幌洞窟を巡検し発見した4体の円空仏の背銘を確認し(朽ちた仏像には言及していない)、その通りに各所へ送って安置するのがよいとの判断を下したようです。
4体はそれぞれ有珠奥の院(洞爺湖観音島)、タルマエ(苫小牧)、クスリ(釧路)、ユウバリ(夕張岳が見える?千歳方面)に送られ、有珠奥の院の仏像は現在は有珠善光寺に、タルマエは錦岡樽前山神社、クスリは釧路市厳島神社に今も安置されています。有珠善光寺の仏像は現在北海道の有形文化財に指定されていますが、それに至るまでには紆余曲折があり…
(詳しくは拙新刊『徒歩で来た。小幌への道 』の後書きと年表に記しましたので、ご興味ある方はご覧いただけますと幸いです…)

ここでも松田伝十郎の名を見るとは思いませんでした。小幌の洞窟はそれまではどちらかというと小幌駅とセットのイメージだったので(そのつもりで駅を訪れた)、別ルートで知っている歴史人物に繋がるという意外性が。しかし円空はそれより昔の人物で、後世の人々の信仰の対象でもあったことを思えばまあ、色々繋がるものなんでしょうね。円空仏を彫ったのもそれを各地に送ったのも(和人が信仰している)仏の教えを広めたいという思惑も当然あったのでしょうし。
今回大変興味深い新刊づくりとなりました。これからもそんな繋がりを沢山知ることになるのでしょう。
このために、何処にも扱いがなく入手を諦めていた松田の『北夷談』の現代語訳を、某所で発見し漸く手に入れることが出来たのも嬉しい出来事でした。
#松田伝十郎 #円空
◆最上徳内とイジュヨ


イジュヨの名はイジュヨゾフといい、遭難してウルップ島に来たものの、彼いわく仲間割れをして他のサスノスコイ、ニケタと3人でエトロフ島へ逃れてきた、ということのようですが、1775年にロシア商事の植民団がウルップ島ワニナウに上陸し居住を始め、1779年に千島地震で大津波が発生、彼らが乗ってきた船ナタリア号が内陸まで押し上げられ、しばらく奥地に廃船として残されていたらしく、イジュヨもこの船に乗ってやってきたようで、植民団の一員だったと思われるため※書きに記しています。この植民団は1782年に撤退し、1784年にはイジュヨはカローミンらと共にウルップ島に再上陸、ここで仲間割れしてイジュヨら3人がエトロフ島へやってきたのが1785年。同じ年にカローミンはワニナウ植民団跡地に碑を建てています。
徳内はのちにその廃船やカローミンの碑、植民団の居住跡も確認しているらしく、このあたりも探検要素の濃いエピソードでワクワクします。
当時においてはそんな能天気な話でもないといわれればまあそうなのですが。
最近やっと『蝦夷草紙』(時事通信社S40年出版)を入手したので、いずれじっくり読んでみたいと思います。
こちらはNDLでも閲覧出来るし、なんなら地元の図書館にも蔵書はあるのですが…やっぱり本の形で手元に置いて好きな時に手に取りたいんですよね。
※2025.4.15 画像差し替えしました(違和感あったためコマ内の人物の肌を塗りました)。
#最上徳内


イジュヨの名はイジュヨゾフといい、遭難してウルップ島に来たものの、彼いわく仲間割れをして他のサスノスコイ、ニケタと3人でエトロフ島へ逃れてきた、ということのようですが、1775年にロシア商事の植民団がウルップ島ワニナウに上陸し居住を始め、1779年に千島地震で大津波が発生、彼らが乗ってきた船ナタリア号が内陸まで押し上げられ、しばらく奥地に廃船として残されていたらしく、イジュヨもこの船に乗ってやってきたようで、植民団の一員だったと思われるため※書きに記しています。この植民団は1782年に撤退し、1784年にはイジュヨはカローミンらと共にウルップ島に再上陸、ここで仲間割れしてイジュヨら3人がエトロフ島へやってきたのが1785年。同じ年にカローミンはワニナウ植民団跡地に碑を建てています。
徳内はのちにその廃船やカローミンの碑、植民団の居住跡も確認しているらしく、このあたりも探検要素の濃いエピソードでワクワクします。
当時においてはそんな能天気な話でもないといわれればまあそうなのですが。
最近やっと『蝦夷草紙』(時事通信社S40年出版)を入手したので、いずれじっくり読んでみたいと思います。
こちらはNDLでも閲覧出来るし、なんなら地元の図書館にも蔵書はあるのですが…やっぱり本の形で手元に置いて好きな時に手に取りたいんですよね。
※2025.4.15 画像差し替えしました(違和感あったためコマ内の人物の肌を塗りました)。
#最上徳内

根室市指定文化財(史跡)
寛政の蜂起和人殉難墓碑
寛政元(一七八九)年五月、和人のアイヌ民族に対する脅迫や非道行為によって追い詰められた結果、国後島と現在の標津町、羅臼町付近のアイヌ民族が和人七十一人を殺害した。この出来事は、「クナシリ・メナシの戦い」と呼ばれ、最終的にノッカマップ(根室市牧の内)で戦いに関わったアイヌ民族三十七人が和人によって処刑された。
この墓碑は、殺害された和人七十一人の供養のために文化九(一八一二)年に作られたもので、明治四十五年、納沙布岬に近い珸瑤瑁の海中で発見されたという。現地で保存されていたが、昭和四十三年、国後島を臨むこの地に移設された。
○表面
(梵字)横死七十一人之墓
(意味)
不慮の死を遂げた七十一人の墓
○裏面
寛政元年己酉夏五月此地凶悪蝦夷決黨爲賊事起乎不意士庶遇害者總七十一人也姓名記録別在官舎乎茲合葬建石
(意味)
寛政元年五月に、この地方の凶悪なアイヌが集まり、突然反乱を起こした。偶然居合せた侍や漁民合計七十一人が殺された。その姓名の記録は役所にある。ここに合わせて供養しこの碑を建てる。
○側面
文化九年歳在壬申四月建
(意味)
文化九年四月に建てる
墓碑裏面には、和人の視点からアイヌ民族が不意に襲ってきたとあるが、和人が殺害された原因はアイヌ民族への非道行為が原因であり、石碑の内容と史実は異なる。
指定年月日 昭和四十二年七月二十五日
管理者 根室市教育委員会
※訳文(意味)を原文の直下に移動させる編集を行っております。
2016年に根室方面に行った際に立ち寄り撮影しました。
たまたま前年2015年に、北海道博物館で開催された『夷酋列像』展を観覧したため、ここまで来たなら是非見ておこうと足を運んだものです。
納沙布岬周辺の北方領土関連の施設や碑、モニュメントが建つ中にひっそりと存在します。
処刑されたアイヌ側の慰霊碑なのかと思っていたら、この事件で犠牲になった和人の墓碑をここに設置したものとのこと。
毎年9月には、ここより西側のノッカマップで「ノッカマップイチャルパ」というクナシリ・メナシの戦いの犠牲者(和人・アイヌ両者)を弔う慰霊祭が行われています。ノッカマップは、アイヌ側の37人が処刑された場所になります。
1789年クナシリ・メナシの戦い(根室市ホームページ)
墓碑が海中から発見された理由は不明だそうですが、根室市によると、海上輸送の途中で船が難破し、海中に没したままだったのではないかとのこと。
寛政の蜂起和人殉難墓碑(根室市ホームページ)
墓碑が作られたのが蜂起から23年後、それだけ経っても未だに和人側(直接虐待に関わっていない人も多数いるのでしょうが)が一方的な被害者としての認識だったというのと、アイヌ側に対する表現が露悪的なのが当時の和人側の認識だったという証明でもあるようにも感じます。
併設の詳細な説明板がなければ誤解を招きかねないため、ちゃんと設置されているのは良いことだと思います。
#アイヌ
積読をある程度解消したタイミングで、こちらを読んでみようと、読了したので記しておきます。
一言にいえば、伊能についてのことなら、こちらを真っ先に読んだ方が良かったのではないかと。
童門先生の作品はやはり読みやすく、途中の解説も親切に感じます。
佐原の名主時代、天文方への弟子入り、蝦夷地測量から日本全土の測量までの大方のあらましが書かれています。物語小説というよりは伊能の全生涯の解説本といった方が適当かもしれません。
残された日記や手紙などから心情の部分も推測して書かれていますが、割と驚いたのが、師である高橋至時と子午線一度を出す時に軽く諍いがあったということ。年下の師といつも和気藹々という訳でもなかったのだなと。
あとは二次測量以降の各藩での悶着やトラブルは何故、どのような行き違いで起こったのかというのも著者の想像も交えつつわかりやすく解説されています。
互いの疑心暗鬼と幕府の無理解、身分制度の弊害の側面が大きいものの、伊能の半ば強引な態度もやはりプライドを持った職人気質の頑固者という一面が見られて、彼のキャラクターがリアリティをもって見えてくるようです。セカンドライフを充実させた中高年の星、時には聖人君子的に見られがちだけど、むしろ酸いも甘いも噛み分けた中高年だからこそ頑固さが際立つのかも。よく、性格的には厳格なパワハラモラハラ気質と言われますが、そんな人間臭さの部分にも触れていて、中々面白かったです。当時の身分制度にも楯突くというのは、感性的には現代人に近いものがあり当時としても革新的というか、厄介な変わり者ではあったのだろうなと。
だからこそ、あれだけのことを成し遂げられたのでしょうが。
文章は平易で読みやすく、さすが童門冬二だなと。
若かりし頃に歴史関係の著書をいくつか読んだ記憶があり、親しみやすい文章と、未熟な頭でも理解出来たために著者の名前はよく覚えていました。
そんな童門先生も最近鬼籍に入られてしまい、時代の流れを感じます。
#伊能忠敬