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江戸期の北方探検家で歴史創作。絵・漫画・設定・調べ物などゆるゆるっとな。


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2006年に知床へ旅行に行った際、ひかりごけ目当てに羅臼町のマッカウス洞窟へ足を運んだのですが、そこに建っていた石碑と案内板の説明に惹かれました。

202508072341265-admin.jpgそう、これが松浦武四郎との出会いだったわけです。
当時の筆者は開拓期以前の北海道の歴史については無知で、幕末の時代に蝦夷地まで来てすごい冒険をした人がいたのだなぁと驚きつつこの看板を眺めていました。そしてこの洞窟に宿泊したのかと。クマが魚の骨をバリバリ食べる音って…それは現代人の我々も怖い…

202508072341264-admin.jpg隣にあった詩碑。大分見づらいですが。

松浦武四郎 野宿の地

仮寝する窟におふる石小菅 葦し菖蒲と見てこそハねめ

安政五年五月●日 武四郎

上の看板の説明のとおり、これは彼の著作『知床日誌』の中にある詩で、洞窟に野宿したことが書かれていますが、『戊午志礼登古日誌 乾』という日誌には、「チトライ川口(マッカウスから海岸を300m程北上した所)の番屋に泊まった」旨のことが書かれており(参考:『松浦武四郎知床紀行』秋葉實編)、洞窟のことには触れられていません。『戊午〜』は実際の日誌(紀行文)と思われ、『知床日誌』は紀行を元にした作品、と見るべきものなのでしょう。日誌の著作は他にも『石狩日誌』『天塩日誌』『十勝日誌』など多数ありますが、これらは蝦夷地調査を終えてしばらく経ってから著され、広く民衆にも読まれるために潤色(アレンジ)を加えて出版されたものとのこと。

ですので、実際に泊まったのは番屋の方で、このマッカウス洞窟には泊まっていないようです。
ならクマの件も…? ガッカリするやらホッとするやら。

ですがまあ、著名な人物の著作に出てくる洞窟と思えば(洞窟の存在自体は見聞きしたものなのでしょうし)、これも史跡ですから。
それにしてもこういうのは、案内板で馬鹿正直に説明しようとするといささか理屈っぽくなってしまうので悩みどころでしょうね…

※このパターンは、拙著同人誌『希望と洞窟と石垣山』 に記したのと同じですね〜。武四郎が泊まったと云われる別の洞窟の実際的なことを書いています。まあそういうことです。洞窟に泊まるシチュエーション好きかよ。まあワクワクするよね。

それはともかく、自分にとってここは"北海道の名付け親"松浦武四郎のことを知った思い入れの深い場所になります(他にも登山家、古物蒐集家の顔がある)。
これをきっかけに、関連書籍を読んだり(彼自身の著作は膨大なので…さすがに全ては無理ですが)して関心を持ち、そして今に至ります。北方探検家に興味を持った源流が、彼を知ったことだったと思います。もう20年近くになるとは…色々な人物に寄り道してまだすべての著作を読めていない。本格的にハマってしまったら沼一直線なのでしょうね…

ただこの思い出深いマッカウス洞窟も、崩落の危険のため今はもう見ることが出来ません。
上の石碑と案内板は、かろうじて洞窟の囲いの外にあるようで通行止め地点から徒歩で入れば見られるようなのですが…

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雰囲気だけでも…(ひかりごけは柵の内側に自生していました。詳しくはこちら へ)

※『知床日誌』の本文と訳文は、奈良女子大学学術情報センターの所蔵資料『知床日誌』 を参考にさせていただきました。

#松浦武四郎

メモ,

6月の北海道COMITIA21合わせに新刊を作ったのですが、ちょうどこのブログで小幌海岸>>31を出したので、小幌駅の探索レポとして発行すべく色々調べていましたら、最寄りの岩屋観音絡みで興味深いことが判明したのでここに記しておこうと思います。

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小幌駅へは2015年に、国道脇から林道へ入り徒歩で訪れているのですが、途中降りる浜に小幌洞窟があり、その中に「岩屋観音」が祀られています。
上の写真がその小幌洞窟なのですが、鳥居も相まって凄い雰囲気です。こちらは今でも漁師の守り神として、毎年祭礼が行われています。

20250713180947-admin.jpgこの岩屋観音、あの円空仏が祀られていることで有名です。こちらに祀られているのは「首なし観音」と呼ばれる(修復された)仏像になります。

202507131740371-admin.jpg入口の鳥居。岩壁の隙間に押しつぶされそうな場所に祀られています。神仏習合の祠になります。

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202507131740373-admin.jpg内部は外から見るよりもそこそこ広く、その昔円空上人がここに籠もって仏像を彫ったのだとか。
両脇にあるのは仏像のレプリカで、本物の首なし観音はお堂の奥にあるのか普段は窺うことは出来ません。

と、ここまでは予てから知っていた事柄ですが、実はここで円空上人が彫って安置した仏像は首なし観音の他に4体あったらしく、その4体は北海道内の各地に送られ、今でも祀られている寺社がある、ということを知りました。

円空は1666年(寛文6)蝦夷地に渡り、渡島半島の数カ所で仏像を彫っては安置しています。洞爺湖の近く有珠山にも登り、下山後この小幌海岸に立ち寄り仏像を彫って安置しましたが、有珠山より奥(東側)へは進めなかったため、仏像の背中にはそれぞれ未踏の地名(祀るべく地、山)を彫り、計5体をその場に安置したといわれています。

時は下って1791年(寛政3)、民俗学者の菅江真澄が小幌洞窟で5体の円空仏を発見し、そのうち1体は朽ちていて背中の文字も判別出来なかったとあることから、これが逸話のクマに襲われた首なし観音と思われます。

更にその後、残り4体はその背銘通りにそれぞれの地に送られることになるのですが、それを命じ手配したのがあの松田伝十郎(当時は仁三郎)だったのです。松田がエトモ(室蘭)に勤務していた際>>29、小幌洞窟を巡検し発見した4体の円空仏の背銘を確認し(朽ちた仏像には言及していない)、その通りに各所へ送って安置するのがよいとの判断を下したようです。

4体はそれぞれ有珠奥の院(洞爺湖観音島)、タルマエ(苫小牧)、クスリ(釧路)、ユウバリ(夕張岳が見える?千歳方面)に送られ、有珠奥の院の仏像は現在は有珠善光寺に、タルマエは錦岡樽前山神社、クスリは釧路市厳島神社に今も安置されています。有珠善光寺の仏像は現在北海道の有形文化財に指定されていますが、それに至るまでには紆余曲折があり…
(詳しくは拙新刊『徒歩で来た。小幌への道 』の後書きと年表に記しましたので、ご興味ある方はご覧いただけますと幸いです…)

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ここでも松田伝十郎の名を見るとは思いませんでした。小幌の洞窟はそれまではどちらかというと小幌駅とセットのイメージだったので(そのつもりで駅を訪れた)、別ルートで知っている歴史人物に繋がるという意外性が。しかし円空はそれより昔の人物で、後世の人々の信仰の対象でもあったことを思えばまあ、色々繋がるものなんでしょうね。円空仏を彫ったのもそれを各地に送ったのも(和人が信仰している)仏の教えを広めたいという思惑も当然あったのでしょうし。
今回大変興味深い新刊づくりとなりました。これからもそんな繋がりを沢山知ることになるのでしょう。

このために、何処にも扱いがなく入手を諦めていた松田の『北夷談』の現代語訳を、某所で発見し漸く手に入れることが出来たのも嬉しい出来事でした。

#松田伝十郎 #円空

メモ,

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根室市指定文化財(史跡)
寛政の蜂起和人殉難墓碑

 寛政元(一七八九)年五月、和人のアイヌ民族に対する脅迫や非道行為によって追い詰められた結果、国後島と現在の標津町、羅臼町付近のアイヌ民族が和人七十一人を殺害した。この出来事は、「クナシリ・メナシの戦い」と呼ばれ、最終的にノッカマップ(根室市牧の内)で戦いに関わったアイヌ民族三十七人が和人によって処刑された。
 この墓碑は、殺害された和人七十一人の供養のために文化九(一八一二)年に作られたもので、明治四十五年、納沙布岬に近い珸瑤瑁の海中で発見されたという。現地で保存されていたが、昭和四十三年、国後島を臨むこの地に移設された。

○表面
 (梵字)横死七十一人之墓
(意味)
 不慮の死を遂げた七十一人の墓

○裏面
 寛政元年己酉夏五月此地凶悪蝦夷決黨爲賊事起乎不意士庶遇害者總七十一人也姓名記録別在官舎乎茲合葬建石
(意味)
 寛政元年五月に、この地方の凶悪なアイヌが集まり、突然反乱を起こした。偶然居合せた侍や漁民合計七十一人が殺された。その姓名の記録は役所にある。ここに合わせて供養しこの碑を建てる。

○側面
 文化九年歳在壬申四月建
(意味)
 文化九年四月に建てる

 墓碑裏面には、和人の視点からアイヌ民族が不意に襲ってきたとあるが、和人が殺害された原因はアイヌ民族への非道行為が原因であり、石碑の内容と史実は異なる。

指定年月日 昭和四十二年七月二十五日
管理者 根室市教育委員会

※訳文(意味)を原文の直下に移動させる編集を行っております。

2016年に根室方面に行った際に立ち寄り撮影しました。
たまたま前年2015年に、北海道博物館で開催された『夷酋列像』展を観覧したため、ここまで来たなら是非見ておこうと足を運んだものです。
納沙布岬周辺の北方領土関連の施設や碑、モニュメントが建つ中にひっそりと存在します。

処刑されたアイヌ側の慰霊碑なのかと思っていたら、この事件で犠牲になった和人の墓碑をここに設置したものとのこと。
毎年9月には、ここより西側のノッカマップで「ノッカマップイチャルパ」というクナシリ・メナシの戦いの犠牲者(和人・アイヌ両者)を弔う慰霊祭が行われています。ノッカマップは、アイヌ側の37人が処刑された場所になります。
1789年クナシリ・メナシの戦い(根室市ホームページ)

墓碑が海中から発見された理由は不明だそうですが、根室市によると、海上輸送の途中で船が難破し、海中に没したままだったのではないかとのこと。
寛政の蜂起和人殉難墓碑(根室市ホームページ)

墓碑が作られたのが蜂起から23年後、それだけ経っても未だに和人側(直接虐待に関わっていない人も多数いるのでしょうが)が一方的な被害者としての認識だったというのと、アイヌ側に対する表現が露悪的なのが当時の和人側の認識だったという証明でもあるようにも感じます。

併設の詳細な説明板がなければ誤解を招きかねないため、ちゃんと設置されているのは良いことだと思います。

#アイヌ

20250228011557-admin.jpg室蘭市本輪西の「伊能橋」。
伊能忠敬が蝦夷地測量の時、この本輪西川を渡ったことから名付けられたそうです。

室蘭市史に記載されている伝承だそうですが、測量ルートや元々の橋の位置、橋の名称の歴史など近年の研究により、疑わしいとの話も上がっているようで。研究が進んでいることの証なのでしょうね。

202502280115571-admin.jpg古くからの街の片隅の風景は味わいがある。川と桜の風景は個人的に大好物です。

202502280115572-admin.jpg掲示されている案内板。文字が見えづらいのは反射ではなく、何故か本当に消えていた。
訪問は2019年。落書きなのか、色褪せなのか…
Googleマップで確認すると、2023年時点では修復されているようですが。

 その昔、伊能忠敬がここを渡ったので命名されたといわれている。
 五十歳をすぎてから日本全国を測量して歩いた伊能忠敬は蝦夷地の測量のため簡単な測量機械を持って助手など五人とともに江戸を出発した。
 寛政十二年(一八OO)六月、室蘭に到着し、陸地の測量を行いながら東へ向かうこととなり、このとき小学校の沢道を通り、現神社下の道を八丁平へ向うため、本輪西川を渡ったとされている。
 室蘭市

余談ですが、「小学校の沢道を通り」とあるのは、本輪西川沿いにあった旧本輪西小学校のことでしょうか。明治の時代の開校ですが2016年に閉校となり、今はソーラーパネルが立ち並ぶ土地となっています。
2014年にドライブで近辺に立ち寄った時には、まだ現役の校舎を確認していたのですが、それから程なくして閉校の話を聞いたので、寂しさと共に時代の流れを感じます。

202502280115573-admin.jpgすぐそばのバス停。由来の信憑性はともかく、史跡的な名前のバス停はなかなかグッと来ます…

#伊能忠敬

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>>29の漫画に描いた小幌海岸です。礼文華山道の代替として険しい地形だとわかってくださればと。
実際山道(旧国道と共に江戸期からの古道も残っています)に行って取材したいですね…この海岸より少し内陸側に通された道なので、この風景とはまた違う眺めになるかと思います。
昨今はクマの出没が怖くて、以前はよく行っていたこのような場所ですら行く気になれません。いつかいつか…

ここは秘境駅として有名な小幌駅の近くになります。2015年に訪問しました。少し海側へ分け入ると、文太郎浜という海岸へ降りる急勾配の階段があり、そのった近辺で撮影しています。駅へは現国道脇から入って踏み跡を辿って訪問したため体力が消耗していたので、海岸には降りていません。
ちなみにこの時は円空仏が納められている岩屋観音の洞窟海岸の方に立ち寄りました。

訂正(2025.6.19):写真に見える浜は美利加(ぴりか)浜といい、文太郎浜はこの地点の背後、駅から緩やかな勾配を降りた場所にあります。

この礼文華の海岸は、伊能も間宮も測量出来ていないほどの難所です。伊能は礼文華山道を通ったので海岸は未測量、その後の間宮の測量でも難所と言われる海岸は測量できず、ここ礼文華も未測量地の一つです。伊能の測量日記では礼文華を「霧深海辺三里ほど行て新道峠にかかる大難所なり」と記しています。
礼文華山道に関しては後に松浦武四郎やイザベラ・バードも通行していることで有名ですね。

そういうのを知ると、探索したくなってしまいますな…

#伊能忠敬