ユーザ「shinozakitakato」の投稿(時系列順)[51件](9ページ目)
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御前水の湧水
御前水の湧水鹿肉缶詰製造所跡>>41から更に東へ50m程行くと、明治天皇行幸の際に供したと言われる湧水がある。
こちらも2009年に訪れたものである。
明治天皇行幸記念碑(御前水)の由緒
所在地 苫小牧市字美沢
所有者 苫小牧市
この史跡は明治14年9月3日 明治天皇行幸の際、御小休された箇所で往時、千歳、勇払の境をなす丘陵の道路に沿し湧水あり、良水なるをもって御膳に供され、尓後”御前水”と呼称されている。御巡幸当時は附近住民も開拓入地日浅く土着の基礎も不安定のため移転、離村する者後を絶たず聖跡も荒廃の一途を辿っていたが昭和4年6月、町費をもって記念碑を建て史跡として永遠に保護することとなった。碑文は北海道帝国大学総長男爵佐藤昌介博士の筆になる。
昭和47年8月1日
苫小牧市教育委員会
こちらの看板もリニューアルされ、現存しない。
新しい看板の方には、明治天皇行幸の行程が記されており興味深い。
開拓使10ヵ年計画が明治15年に終了するに伴い、ときの開拓使長官黒田清隆が明治天皇に視察を陳情し、北海道への行幸が行われた。
明治14年8月30日に小樽へ上陸、幌内鉄道で札幌へ向かい、開拓使庁(現・道庁)や農学校(現・北海道大学)を視察し、9月2日に千歳で一泊のち美々の缶詰製造所で休止、その際にここの井戸水が御膳に供されたとのこと。
その後はウトナイ、一本松、矢代町(旧樽前山神社があった)、宮前町で休止されたのち夕方には白老に発たれている。
これらは苫小牧市のホームページにも記載されている。
明治天皇行幸跡
昭和に入ってから建てられた碑。
行幸から日が経って明治17年に缶詰工場が廃止されてからは人の流出も激しかっただろうと思われ、顧みられることもなかったのかもしれない。
もっとも、建立当時は皇民化教育が活発だった時代ということもあり、皇室顕彰の一環として縁のあった地を保存する向きになったのだろうと思う。
元々は井戸だったという。地面から滲み出すように水が湛えられている。
水草も繁茂している。
透明度のある綺麗な水だが、現在は飲料水としては適さない水質らしく、飲用禁止の注意書きがある。
道路脇にぽつんと水場がある様は少し不思議な感じがするが、ここに人の営みがあった証でもある。
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#碑 #湧水
アルテピアッツァ美唄
アルテピアッツァ美唄アルテピアッツァ美唄は、美唄市と同市出身の国際的彫刻家である安田侃氏が創立した彫刻美術館である。廃校となった美唄市立栄小学校の体育館と校舎をアートスペースとして再生し、野外にも彫刻を展示している芸術公園となっている。
1991年から体育館の改修を始め、翌1992年にはアルテピアッツァ美唄としてオープン、のちに校舎の改修やギャラリーとしての整備等を経て、カフェスペースやワークスペースも設け、休日には多くの人が訪れる評価の高いスポットとなっている。2016年には正式名を「安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄」として登録博物館(美術館)となった。
かつては炭鉱街の小学校だった、味わいのある木造校舎と体育館、広々とした芝生広場に調和の取れた彫刻、子供も楽しめる水場や森林の散策コース等、美しい景色の中思い思いに楽しめるこの施設は、駐車料金も入場料も無料であるため、気軽に立ち寄ることが出来るが、施設維持のための寄附を募っている。グッズの購入もしくはカフェ利用もおすすめだ。
「カフェアルテ」ではドリンクと軽食を提供しており、窓から眺める景色も品良く素敵だ。そんな景色を前に静かにゆったり出来るコーヒータイムは格別だろう。
安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄
▼2009年6月
芝生広場に佇む木造校舎。最盛期では1,000人以上の児童が在籍していた。
端の一角は幼稚園として使われていた。小学校と併設されていた幼稚園は、小学校閉校後もそのまま運営されていたようだが、2020年に閉園している。
離れにある体育館棟。手前の彫刻と同型のものはJR札幌駅にも設置されている。
とてもシンプルな造形なのだが、見慣れると他の場所で出会っても不思議と氏の作品だとわかる。
丘の上の『天翔』という作品。
巣箱のような時計。
大理石の白が眩しい水の広場。
森の中を散策出来る小道もある。
ルート上に作品が点在しているので、探しながら歩くのも楽しい。
自然観察をしながら森林浴も。
このような枕木の階段がところどころに。ちょっとした探索気分も味わえる。
自然も豊かな素敵な美術館だ。
▼2013年2月
冬季のアルテピアッツァ。
雪原にぽつんと佇む木造校舎も独特の味わいがある。
冬も訪れる人がそれなりにあるようで、彫刻へのアプローチも出来上がっている。
体育館と、彫刻が点在しているのが見渡せる。
校舎や体育館のギャラリーは冬季でも見学出来る。
冬空の下、夕日を浴びる彫刻が何かを語りかけてくれそうな感じがする。
どの季節に訪れても、素敵な景色を見せてくれるのだろう。
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体育館棟、校舎棟内部へ
#公園 #古建築 #文化施設 #花
旧美唄市立栄小学校(アルテピアッツァ美唄)
旧美唄市立栄小学校(アルテピアッツァ美唄)アルテピアッツァ美唄は先に述べた通り>>43、廃校となった旧栄小学校校舎と体育館を再利用の形で開設された美術館である。
当記事では屋内のギャラリーやアートスペースと共に、旧校舎の建物としての視点でも見ていくが、2009年時点の撮影のため、建物や展示作品に変化があるかもしれないことをお断りしておく。
大まかに栄小学校の来歴を記す。
旧栄小学校の創立は1946年(昭和21)、盤の沢国民学校の開校に端を発し、翌々年には中学校を併置しのちに分離、別に小学校を設けて児童を分けたが、その後も人口増加に伴い児童数は増え続け、1959年(昭和34)には1,250名を数えた。主に三菱炭鉱従業員の師弟が多く通学していた。しかし程なく三菱の人員削減により児童数は激減し、炭鉱の閉山を経て1981年(昭和56)に閉校となった。
※拙著『北の炭山の骸』 「旧栄小学校」より抜粋。
おなじみの彫刻作品と、校舎遠景。
旧体育館棟。
体育館棟アートスペース入口前の作品。
体育館の窓から望む水の広場と木造校舎。
設置してあるストーブと、展示作品。静謐な空間が広がる。
大理石のユニークな作品群。創造も想像も無限大だ。
改築や増築した部分もあるかと思われるが、元々の造形を最大限に活用している。
螺旋階段を上がった先は、安田侃作品の展示風景写真のギャラリーや書籍、DVDが視聴できるスペースとなっている。
注目は、この天井だろう。円形を連ねたトラスと言って良いのか、とても特徴的な造りが目を引く。
炭鉱町の学校は、景気の良かった時代に建てられたというのもあり中々に洒落ていたり先進的・個性的な造りが多い。
格天井のようだ。
螺旋階段上から。こうして見てみるとさほど広くはなさそうだが、作品と対峙すると広い空間に取り残されているように感じる不思議。
旧校舎棟のギャラリーへ。
入口は外の螺旋階段を上った2階になる。
梁が剥き出しになった木造の空間に、絶妙なバランスで配置された彫刻が調和する。
窓から覗く水の広場。前記事では夏だったが、この時は秋に再訪している。
廊下にも展示されている作品。かつての校舎の雰囲気も保ちつつの配置がとても好感が持てる。
このパックンフラワーのような、植物の芽生えのような作品が妙に好きだ。秘めた生命力を感じる。
真っ直ぐに伸びる廊下はノスタルジー。薄れつつも残るセンターラインは学校だったことを物語る。
窓際にひっそりと佇むイトトンボ。冬の訪れから身を潜めているのだろうか。
筆者の学校時代は近隣には既に木造校舎は見られなかったため、レトロ感もあるが逆に新鮮でもあった。ここに数多くの児童が居たのだと思えば相当に賑やかだったのだろう。
そんな歴史を持ちながらも忘れ去られようとしていた場所が今や人々の憩いの場として再生の道を歩むのはとても理想的な形だと思う。
歴史的遺産として見学するのも面白いかもしれない。
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#古建築 #文化施設 #炭鉱
旧三井美唄炭鉱 第二坑選炭場跡
旧三井美唄炭鉱 第二坑選炭場跡アルテピアッツァ美唄>>43から東へ進むと、盤の沢という地区があり、その道沿いに漏斗型の塔が姿を見せる。2009年に美唄方面に来たのは、炭鉱関係の遺構が目的だったため、これも炭鉱時代のものだということは把握していた。
三井美唄炭鉱第二坑の選炭場跡である。選炭とは、掘り出してきた石炭をクズ石(これをズリという・九州地方ではボタ)と選り分け、そこから更に塊炭や粉炭に分けられ、出荷出来る品質までふるい分ける行程のことである。この漏斗型は原炭ポケットとされ、掘り出した石炭を貯めておく施設で、原炭はそこから付属の選炭機にかけられ選炭された。
三井美唄炭鉱は南美唄に拠点があったが、二坑の経歴については下の通り。
ここ盤の沢の炭鉱は、徳田与三郎が1913年(大正2)に開鉱した徳田炭鉱が始まりである。その後、新美唄炭鉱と改称、1941年(昭和16)に三井が買収、南美唄に事業を展開していた三井美唄炭鉱と合併し、南美唄の炭鉱は「一坑」、盤の沢の炭鉱は「二坑」と称された(注:「1坑」「2坑」とアラビア数字表記の資料もある)。出炭量は増加したが、全国的な熱エネルギーの拡張などで重油の輸入が増加、石炭需要が落ち込んだため三井が企業合理化案を打ち立て、第二坑を個人に租鉱稼働させたものの、1967年(昭和42)に租鉱権期間の満了によりそのまま閉山となった。
※拙著『北の炭山の骸』 「三井美唄炭鉱 第二坑」より抜粋。
▼2009年6月
上の写真とともに、この時初めて見た二坑の原炭ポケット。
この形は三井炭鉱のものによく見られ、芦別でも同型のものが見られる。
▼2009年11月
秋に訪れてみると、周りの草木が枯れて足元と隣接する選炭機の姿まで捉えることが出来た。漏斗の吐出口の辺りまで確認出来る。
これは気になる。が、その後も通りがかる度に遠くから眺めるだけになっていた。
▼2019年5月
同好の士との探索ツアーでこちらを案内していただき、実に10年越しで拝見することが出来た。
あなたの知らない美唄ツアー2019(『北の細道』 様)
北海道ではようやく春、若葉がぽつぽつと顔を出し始めた頃なのでまだ見通しがいい。
このアングルまで近づけただけで胸が躍る。
この様になっていたのかと、納得した。
閉山してから50年超、積雪や融雪を繰り返した影響か、鉄筋が剥き出しになってしまっているが、歴史を感じる。
緑の装身具を纏っているように見えて、美麗だ。
奥にある遺構。選炭機を配していたものだろうか。
選炭施設の、工場の中になるのだろうか。人が通るには狭いコンクリートジャングルを進む。
大きく開いた窓(廃業後に人為的に開けられたものかも知れない)から、道路沿いから見えた施設がこちらだろうか。
選炭施設の中にも漏斗(ホッパー)がある。選炭方法には幾つかの方法があり、時代によってその方法は遷移していったらしい。
選別の方法には、石炭とそれ以外の石のそれぞれの比重を利用して液体中での浮沈により選別する「重液選別」、石炭の微粒子を気泡に付着させ水面に浮かせ、不要物を沈殿させる「浮遊選別」等があり、この施設でも利用されていたようだ。
※拙著『北の炭山の骸』「三井美唄炭鉱 第二坑」より抜粋。
炭鉱の技術的なことに関しては多々ご教授いただいたり、資料を参考にさせていただいた。稚拙な部分についてはご容赦いただきたい。
吐出口には色々種類がある。
技術に詳しくなくとも、こういった違いが見られたりするのは興味深い。
元々廃墟美を追い求めるつもりで炭鉱跡に注目していたのだが、炭鉱がどういう歴史を持ちどういうシステムで稼働していたのか、という点も意識すると次第に視界は開けていく。
前ブログでは炭鉱遺産を巡っていた中途の2015年で更新を停止していたが、ここではそれ以降に巡ったものについても徐々に更新していきたいと思う。
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#廃 #炭鉱
開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡
開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡2009年に訪れたものである。
当時同行していた友人の情報で、昔苫小牧に鹿肉の缶詰工場があったというのを聞き、その跡地を見に行こうと探訪した。千歳市との境界すれすれの、国道沿いガソリンスタンドから東方向へ入ってすぐの場所にある。クルマで通ると見落としそうである。
缶詰工場については小学生の頃の郷土史の教科書『のびゆく苫小牧』にも記載されていたという話なのだが、はてさてそうだったか、いまいち記憶にない(現在も使われているのだろうか、のびゆく苫小牧)。北方警備の八王子千人隊のことなら勇払に碑があり、その当時見学に行ったこともあるためよく覚えているのだが。
以降開拓の歴史を齧るようになってからは、缶詰工場があったことくらいはそれほど不思議な話でもないと感じるが、友人の話を聞いた当初は、明治の時代に鹿肉の缶詰というのが妙に現代的に感じて繋がりづらく、そのような昔に工場というのもイメージしづらかったため、意外な話と驚いたものだ。
逆に無知だからこそ、興味深く探索出来るのかも知れない。
思えばこの頃から身近な史跡に興味を持ち出したような気がする。
この看板も今ではリニューアルされており、現存しないと見える。
開拓使が道内の産業振興のため、官営事業として様々な事業を行った内の一つが鹿肉の缶詰だった。
この辺りは元々鹿が多く、そのため予てより鹿肉の燻製所があったところに缶詰所や脂肪の製造所、そして鹿の内臓や血液から火薬の原料である硝石を製造する施設も設けられたが、乱獲やまれにみる大雪と寒気に見舞われ、頭数が激減して立ち行かなくなったということらしい。缶詰製造はわずか6年程度の操業だった。
環境保全や自然保護の概念がまだ希薄だった時代のことだが、このようなことは現代において教訓となっているのだろうか。
工場の詳細は苫小牧のホームページにある。
鹿肉缶詰のレプリカは、美術博物館にも展示されている。
開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡
「御駐蹕(ちゅうひつ)之碑」
明治天皇がこの地に巡幸された際、缶詰工場の生徒舎を休息所に充てたとのこと。
この時に、ここの井戸水が御膳に供されたという。御前水については次項にて>>42。
横に立つ大木は、天皇の行幸や工場の行末を見ていたのだろうか。
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#碑