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スイーツから廃墟まで。北の国からお送りする日常ゆるゆる探検。2009年から始めた前ブログの記事を再編、移植しています


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丸山遠見望楼(閉鎖)

丸山遠見望楼(閉鎖)

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支笏湖へ向かう道沿い、左手林道分岐にかつて「口無沼」>>3と「丸山遠見望楼」を示す看板が立っていた。
現在は望楼が老朽化のため立ち入ることが出来ず、そのせいか看板も撤去され林道ゲートも通年閉まっておりそちらへ進むことは出来ないようだが、2008年時は看板が健在でほぼゲートも開いていたため高い確率で沼と望楼へクルマを走らせることが出来た。

林道を南下すると口無沼へ、北上すると望楼へ辿り着く。「丸山」はこの地区の字名であり、望楼のある場所はひときわ小高い丘になっており、遠く樽前山>>93や恵庭岳などの山岳や広大な森林を一望出来るため「遠見」、望楼に関しては明治期に建てられた簡易的な見張りやぐらが始まりだったそうだ。それからは森林の管理のため使用されていたということらしい。一般にも解放されていたが、2019年に階段部分が倒壊したらしく、以来立入禁止となっている。

この望楼が昔から気になっており、2008年に訪れることが出来た。もっとも、これが最初で最後の訪問になってしまったのが残念だが。

20260423013905-admin.jpg望楼への道は近くになると螺旋を描くような上り道になる。
クルマが息絶え絶えのように辿り着いた頂上の駐車場から見た景色。

202604230139052-admin.jpg木々の間から覗く苫小牧の街並み。港の工場群になる。

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丸山遠見望楼

 丸山遠見は、樽前山があたかも大鳥が翼を拡げるように穏やかな傾斜を見せて、太平洋に接するほぼ中間に位置する標高三二一メートルの小丘陵です。この地一帯の森林は、昭和二九年の洞爺丸台風で想像を絶する大量の風倒木が発生し、壊滅的な被害を受けましたが、多くの人達の長年にわたる努力により現在は見事な樹海がよみがえっています。
 この丘陵地は樽前山、風不死岳を背に紋別岳、恵庭岳を傍らにみて果てしなく拡がる樹海を一望できることから「遠見」と称されています。
 丸山遠見望楼の歴史は古く、明治中期に簡単なヤグラ建の見張り所がおかれたことに始まり、その後改築を繰り返しながら、今日まで百年余り森林火災防止や森林造成の推進に大きな役割を果たしてきました。
 国有林は国民共通の財産として、土砂崩壊防止や水源かん養などの「水土保全林」と、優れた自然環境の保全や余暇活動への利用などの「森林と人との共生林」を柱とする公益林の拡充に重点を置いた管理経営を行っています。
 今後もこの望楼が訪れる人々に森林とのふれあいを通じて自然の素晴らしさ、森林の大切さを実感できる場となればと考えています。


概要

1 構造 全高 13m 基礎コンクリート 木造4階建
2 主要資材 カラマツ材10㎥ スギ材9㎥ 鋼材100kg
3 沿革 ・昭和17年 2階建望楼完成
     ・昭和29年 洞爺丸台風被害を受け改築
     ・昭和54年 老朽化により4階建望楼(13m)新築
     ・平成12年 老朽化により望楼及び看板新築

平成12年10月 北海道森林管理局 胆振東部森林管理署


202604230139054-admin.jpg森林の中に相応しい味わいのある望楼だ。平成12年、2000年に新たに新築されているものなのでこの時点で8年経っていたようだ。2004年(平成16)にも台風被害があったので、もしかしたらその後も改築しているのかもしれない。

階段は結構怖かった。それなりにしっかりした作りではあったが複数名いっぺんに登るとぐらつくような感じがして、同行者が1階づつ上りきってからゆっくり上った。なので登っている途中の撮影は余裕がなく、していない。階段の隙間から下が見えるので、カメラを構える姿勢を取るのが不安だったのだ。

202604230139055-admin.jpg登りきった最上階からの眺め。窓は開閉可能だったので綺麗に撮れた。
こちらは苫東と千歳方面。

202604230139056-admin.jpg左からモーラップ山、恵庭岳、右側が紋別岳。
ここでは見えないが山の向こうに支笏湖がある。

202604230139057-admin.jpg逆光の風不死岳。日が傾きかけていた。

202604230139058-admin.jpg左側が樽前山。風不死岳とのツーショット。

202604230139059-admin.jpg樽前山の裾野。災害から4年経っていたが、ここから見る限りではそんなことを感じさせない雄大さだ。

2026042301390510-admin.jpg苫小牧市街方面と、手前の二筋は右側が国道276号と、左は王子製紙専用鉄道の「山線」跡になる。

紙の原料の木材を伐り出し工場まで運んだ森林鉄道だが、温泉があった支笏湖方面へ行き来する旅客も便乗させたという。安全の保証は無かったが、幸い事故も起こらずに済んだらしい。車もまだ一般には普及しておらず、道路が開かれる以前のことである。

望楼の最上階の屋内には四方にそれぞれ見える山や景色の絵図も掲げられていた。
屋内はそれほど広くないため、あまりうろうろすると階段から落ちそうだったので、そちらの写真も撮らずに終わった。広角レンズがあればよかったのだが。
Googleマップは有り難い。様々な写真を撮ってくれている方が沢山おられる。こういうのは貴重な記録だなと最近はつくづく思う。

2026042301390511-admin.jpg駐車場を見下ろす。ぐるっと回る上り道が結構な急坂だった。

後からカメラを手にした人が来たりと、それなりに知られたスポットだったようだ。

202604230139053-admin.jpgあれから約10年で幾度目かの老朽の時を迎えたようだが、もう新築はしないのだろうか。

今振り返ると、無くすのは惜しく思えるスポットだ。
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#林道 #古建築 #鉄道 #山

道央,苫小牧

旧東明駅舎と4110形機関車

旧東明駅舎と4110形機関車

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美唄市街地からアルテピアッツァ>>43>>44へ向かう途中に、旧三菱鉱業美唄鉄道の「東明駅」の駅舎が残されている。
そしてこの駅舎と一緒に、炭鉱時代に活躍した「4110形式十輪連結タンク機関車2号」が保存されている。
機関車は美唄市の指定文化財となっており、近年では駅舎と共に「炭鉄港」の構成文化財に指定されている。

ここに挙げた写真は2009年と2019年のものである。
その後、これらの保全のためのクラウドファンディングも行われ、更に見学しやすく綺麗に整備されたようだ(筆者も寄附しているのだが、その後訪れる機会がなく成果を確認出来ずに年月を経てしまっている)。


▼2009年7月

20250901230445-admin.jpgこの年の前月にアルテピアッツァや炭鉱メモリアル森林公園>>46等に向かう時に通った道だったのだが、その時は気づかず通り過ぎていた。後で知って>>80の帰り道に寄ってみた。

まったく古びていない、この時から綺麗に保たれていた駅舎。当時は個人的に廃墟趣味の方が強くあったため、本音を言えば綺麗すぎて物足りない感があった。
それからかなり年月が経ち、炭鉱遺産の機運が盛り上がって今も変わらず残されているのを見ると、これは素晴らしいことだったのだと考え直さざるを得ない。

202509012304454-admin.jpg裏手のホーム側。駅だった面影がはっきりとある。
駅舎の内部には入れなかったが、見た限りは劣化もなく塗装も定期的にされていたのか、汚れも見当たらなかった。花壇もあり、ちょうど花も咲いていたのが人の手が入っている証拠だ。

202509012304452-admin.jpg傍らには蒸気機関車が展示されている。こちらも見る限り綺麗だ。

202509012304451-admin.jpg説明板はかなり年季が入っていた。

美唄鉄道の勾配路線と、大量の石炭の運搬に耐えるための力強い十輪「E型」機関車で、当時は多く作られたが現在はここでしか見られないものだそうだ。
三菱造船がドイツの4100形を基に製造、閉山までの50年超を走り続けた機関車である。

202509012304453-admin.jpgかつての路線は、サイクリングロードとなり、傍らにはプラットホームの跡も残っている。


▼2019年5月

202509012305095-admin.jpgその間も駅舎前の道はしばしば通っており、駅舎の姿は目にしていたのだが、10年経って再訪。

間近で見ても変わらず綺麗だ。この時も駅舎内の入口は固く閉ざされた状態だったが。

202509012305093-admin.jpg窓も目隠しされているので、内部を窺うことは出来ない。

20250901230509-admin.jpg機関車も変わらず綺麗。2号車の「2」が眩しい。
ただそれなりに傷みはあったようで、このあとクラファンが行われている。

202509012305091-admin.jpgあの説明板はさすがに新調されていた。横書きで見やすくなった。
機関車の仕様など、詳しい人には興味深いだろうと思う。

三菱鉱業美唄鉄道は、元々は石狩石炭株式会社が敷設した軽便鉄道が始まりであった。

三菱美唄炭鉱の始まりは、鉱区の所有者黒柳氏と、同地に進出した石狩石炭の間に係争が起こったことに遡る。黒柳側が勝訴したものの、弁護士飯田氏への報酬支払が滞ったため、鉱区の所有は飯田に移り、飯田美唄炭鉱として1913年(大正2)に操業を始めた。敗訴側の石狩石炭は鉄道を敷設し、飯田に譲渡したことで炭鉱経営が進んだが、資金調達のため販売権を委ねていた三菱に買収され、1915年(大正4)に三菱美唄炭鉱、及び三菱美唄鉄道となった。前年に第一次世界大戦が開戦したこともあり、その三菱が景気需要に乗る思惑もあったとされる。

202509012305094-admin.jpgこちらの注意看板は錆びついたまま放置されている。
サイクリングロードは、我路キャンプ場の方まで伸びているようだが、途中道が荒れ通行止めになっているため通行する人はほぼ居ないと思われる。

202509012305092-admin.jpg荒れた道とプラットホーム跡、自転車専用道路の標識が物悲しさを誘う。
鉄道の路線跡は、サイクリングロード跡にもなりつつある。

現在、駅舎は炭鉄港の催しの一環で定期的に内部公開が行われているらしい。

東明駅舎一般公開・2号機関車の見学サポート(美唄市)
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#炭鉱 #鉄道 #古建築

道央,美唄

西芦別〜頼城 旧駅舎と旧校舎、坑夫像

西芦別〜頼城 旧駅舎と旧校舎、坑夫像

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炭鉱の痕跡を探す旅、当時頼りにしていた空知の炭鉱遺産マップをチェックしつつ回ってみたが、2009年当時で既に主だった炭鉱関係施設は解体撤去されていた。残っていても他の用途に転用されているものが多かった。

藪の中や奥地へ分け入ればまだ残っているものも多そうだが(現在、芦別市では「芦別炭鉱遺産マップ 」も公開されており、情報も詳しく記載されている)、現在は自身の探索意欲が落ち着き、再度の挑戦は全くの未定となってしまった。

2009年の初訪当時は先述のマップに載っていた、とあるアーチ形の橋台(具体的な名称は失念した)を目当てに探したものの見つけられず断念したため、町中を適当に回ってみたものである。当記事の写真はほぼ2009年、旧頼城小学校(星槎大学)のみ2016年のものである。

202508280057432-admin.jpg西芦別の郵便局から町中に入ると、突き当りに民間企業の倉庫がある。旧三井芦別鉄道「三井芦別駅」の駅舎だった建物である。
こちらはホーム側と思われるが、庇の形状など若干の名残があるように見える。

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20250828005743-admin.jpg反対側に回ってみると、駅舎らしい雰囲気が残っている。

202508280057433-admin.jpg奥の青い屋根は郵便局だが現在は建て替えられている。理容院の両脇の建物は現存していない。

しばらく進むと西芦別の炭住エリアが見え、そちらからは頼城橋>>77へ繋がる。
国道を更に南下すると炭山川橋から旧炭山川橋梁>>78が見える。

202508280057435-admin.jpg緑泉方面へ進むと、道沿いにポツリと佇む木造の建物。こちらも旧三井芦別鉄道「緑泉駅」の駅舎だった。腰折れ屋根(ギャンブレル)と板張りの壁が味わい深い。

202508280057434-admin.jpg廃止後は個人住宅として使われていたようだが、2019年に解体撤去されている。

20250828005811-admin.jpg更に進むと今は通信制の星槎大学キャンパスとなっている、「旧頼城小学校」の校舎がある。炭鉱時代当時のマンモス校らしく、裏手にはレンガ造りの長大な廊下の校舎が連なる。

過去には幾度か内部公開も行われていたが、現在こちらも「炭鉄港」の構成文化財に指定されており、炭鉄港のポータルサイト上で校舎内を内観 出来るようになっている。

202508280057436-admin.jpg頼城の市街地へ入ると、道沿いの小さな広場の隅に立てられている新しい「坑夫の像」。

元々は西芦別の三井鉱業所労務課外勤前庭に設置されていた「坑夫の像」が老朽化したため、こちらは1997年(平成9)に新たに作られたレプリカ像になる。原像は1944年(昭和19)に軍需省が派遣した軍需生産美術推進隊彫刻班の古賀忠雄(のちに日本彫刻家協会理事長)らによって制作されたもので、実在の坑夫がモデルになっており、原像の方が幾分スマートな作りだった。

このような坑夫像は北海道では北炭夕張や上砂川にもあり、戦時の増産体制の中、生産士気を高揚させるために全国的に制作され立てられたものである。
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#炭鉱 #古建築 #鉄道

道央,芦別

旧炭山川橋梁とディーゼル機関車

旧炭山川橋梁とディーゼル機関車

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西芦別からR452を南下すると、右手に橋梁上の機関車が見えてくる。物珍しさに注目してしまうが、こちらも炭鉱遺産の一つである。
旧三井芦別鉄道の鉄橋、炭山川橋梁と、炭鉱の操業当時に実際に走っていたディーゼル機関車と石炭貨車である。

この橋梁は国の登録有形文化財に登録されており、「炭鉄港」の構成文化財として指定もされている(橋上の機関車と貨車は除く)。


▼2009年7月

20250827145819-admin.jpg国道の炭山川橋を通過中に発見した古い鉄橋と機関車。
現地には特に説明看板もなく、当時は地元または炭鉱関係の人が知っている程度だったかもしれない。

202508271458191-admin.jpg発見当時はこれも多分炭鉱関係のものという確信があったため、もっと違う場所で間近に見れないかとうろつき回り、中の丘方面の一番近い場所を見つけて撮った。時期的にもこれが精一杯だった。

逆側の道道115は通行止めで立ち入ることが出来なかったが、現在は見学場所が整備されているのでそちらから見学するのが一般的だと思う。


▼2016年7月

202508271458461-admin.jpg何故前回と同じく7月に来てしまったのか。
しかしこの日は晴れだったため、緑の山に映える機関車の姿を捉えることが出来た。

20250827145846-admin.jpgただ、連結されている貨車は木の陰に隠れてしまい見ることが出来なかった。

ちなみにこの地点、国道の炭山川橋から逆の方向を見ると頼城橋>>77を望むことが出来る。


▼2017年3月

20250827145906-admin.jpgまだ雪が残るがかなり見通しがいい。こうしてみると相当に深い谷間に架けられた橋だというのがわかる。

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202508271459061-admin.jpg機関車にも雪が積もっている。さすがに除雪は難しいか。
石炭貨車も見えたが一両自体が小さい。これを何両も連結してこの橋を渡っていたのだと思うと、今にも動き出しそうなリアル感もある。

旧三井芦別鉄道は三井芦別炭鉱の開坑と同時に着工し、1940年(昭和15)に開業した炭鉱の専用鉄道である。終戦前年の国からの緊急増産令により、頼城に第2坑を開坑させるため路線を延長したが、完成は1945年(昭和20)の終戦後となった。芦別駅〜頼城町までの全線全長9km程度の炭鉱鉄道だった。4年後には旅客輸送も開始、ディーゼル機関車の導入は1964年(昭和39)になる。1989年(平成元)の鉄道廃止まで地域の交通も担った。

廃止後は橋梁と機関車は市に寄贈、2009年(平成21)には橋梁が国の登録有形文化財に登録されている。
2019年(令和元)、文化庁の日本遺産「炭鉄港」の構成文化財に指定された。

現在は道道沿いに展望広場が整備されている。冬期は完全通行止めとなり、広場にも行けないようなので注意されたい。
また、橋上からの見学の場合は、橋の手前に新たに設けられた駐車帯を利用してほしいとのこと(橋上での駐停車は避けるべし)。

「旧三井芦別鉄道炭山川橋梁」展望広場までの道道の通行について(星の降る里あしべつ)
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#炭鉱 #古建築 #橋梁 #鉄道

道央,芦別

三池8トン有線電車

三池8トン有線電車

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2009年、炭鉱の痕跡を探すべく、今度は芦別へ。
市立図書館の敷地に、炭鉱関係の電車が保存されているということで、立ち寄ってみた。

現在も変わらず保存されているが、塗装し直したらしくこの2009年当時よりも綺麗になっている。

202508210319444-admin.jpg前庭の隅に、ひっそりと保存されている電車と、この看板。

 昭和28(1953)年4月、福岡県の三井三池製作所で製作され、約30年間にわたり三井芦別炭鉱の坑内で働いてきました。 小型ながら、90馬力を有し炭車30両以上をけん引することができます。
 石炭産業の最盛期には、三井芦別炭鉱で37台の同型列車が活躍していましたが、採掘区域の深部化に伴い、運搬の主力がバッテリー電車やベルトコンベヤーに移ったため、昭和57年には3台を残すのみとなりました。
 平成4(1992)年9月、三井芦別炭鉱が閉山したため、芦別ではこの1台しか見られなくなりました。

 平成8(1996)年5月
 芦別市教育委員会

炭鉱の列車といえば、精炭された石炭を出荷するために積載したSL列車などが思いつくが、ここに保存されているのは掘り出したばかりの石炭を坑外へ運び出す坑内列車のことである。筆者は鉄道に明るくないのだが大まかに説明すると、斜坑内に架線し集電して動く有線電車で、都市部の路面電車と同様の仕組みとなる。

202508210319441-admin.jpgこちらはトロッコの頭部?だろうか。今はこの場所には現存していないようだ。その横には連結された茶色い炭車が見え、それに石炭が積まれ坑内を走っていた。

蜘蛛の巣が張っていて、この当時はあまり注目もされていないようだった。

202508210319442-admin.jpg三井マークが付された有線電車。パンタグラフが取り付けられている、架空電車線(架線集電)方式の電車だ。高さは子供の背丈くらいか、小ぶりの電車だがこの大きさ(小ささ)で炭車30両以上をけん引出来たとは驚きだ。
坑内を掘り進むにつれ深部化が進み、立坑掘削くらいになると運炭は無線化してバッテリー式機関車(バッテリーロコ)やベルトコンベアーに取って代わられるようになり、有線電車は姿を消した。

植え込みがすぐ隣にあり、枝が覆い隠す形になっていたため正面を撮ることは出来なかった。

202508210319443-admin.jpgこちらは坑員を運ぶ人車になる。1つの乗降口に付き4人乗り(2人座席が向かい合わせに配置されている)×3列で、1両に付き12人乗りになるのだろう。大の大人が向かい合わせに膝を突き合わせて乗ることを考えると、決して内部は広くない。

雨天の上、蜘蛛の巣に警戒しつつ(とても苦手)だったのでじっくり見ることが出来ず、またこれ以降再訪はしていない。
近くを訪れることがあれば、再整備されたこの列車を間近でもう一度見てみたいと思う。
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#炭鉱 #鉄道

道央,芦別