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王子製紙苫小牧工場周辺さんぽ(旧道側)
王子製紙苫小牧工場周辺さんぽ(旧道側)
普段はクルマ移動の人間なのだが、ここ数年春から秋にかけては休日に意識して歩くことにしている。とはいえ、目的地で折り返す往復は嫌気が差すため、往路はバスで、復路はウォーキングよろしく徒歩で帰って来るというパターンが多いが。
最近は夏が酷暑のため無理せず、気が向いた時のみなのだが…
2023年と2024年の5月に、昔から馴染み深いランドマークだった王子製紙の工場近くを散歩した。
徒歩でなければなかなか味わえない景色だと思う。
▼2023年5月
まずは腹ごしらえ。コメダ珈琲店が地元に来た時は嬉しくてかなりの頻度で利用していた。当時は夜遅くまで営業しており程よく居心地も良く、積読本を消化したい目的もあった。コロナ禍を境に営業時間が短縮されてしまい、滅多に足を運べなくなったのと、ここのメニューのボリュームを完食出来る自信が最近はめっきり無くなってしまったというのもあり。
この時はピザトーストを久々にガッツリ食べたい強い意志が湧いたため足を運び、帰り道は歩こうと考えた。
西若葉門横から見える赤煉瓦の建物。変電所で大正期の建築らしい。そういえば三笠の幌内炭鉱の変電所も煉瓦造りで同時期の建築だったな、と思い出す。この建物は、小学生の頃に写生会でほぼこの位置にクラス全員陣取って、描いたことがある。懐かしい。炭鉱のことはまあまあ縁があったので結構調べて勉強したが、地元のこちらのことは意外と知らない。身内や親戚、友人など周りに製紙業関係者が居れば身近に感じられたのかもしれないが、不思議と誰一人として繋がりがあるという人に会ったことがない。住んでいた地区の違いか、身内の職業など特に話す必要がないといわれればそうなのだが。
余談だが、かなり以前に短期間ここの構内への配送の仕事をしていたことがある。工場など、関係者以外立入禁止という場所へ入る仕事は、ここに限らず妙な高揚感と独特のアウェー感がある。
踏切を渡って線路沿いを歩く。踏切の手前の線路沿いは旧道と呼ばれていた。国道が整備される前のメイン通りだったと聞く。
紅白の巨大煙突。そして(写真には無いが)樽前山は、予てより市を象徴する風景である。
送木水路。線路の下を潜って構内へ伸びる。紙の元となるパルプの原料の材木はこの水路に投入され、工場内へと流され運ばれる。水路を遡った道路を挟んだ向かい(北側)は木場町といい、その名の通り材木の保管場所となる。昔は材木を運ぶのも人力で、苫小牧銘菓「よいとまけ」の名はその労働の際の掛け声が由来である。
JR北海道苫小牧運転所。
JR苫小牧駅の構内にある「苫小牧構内神社」。一般人・乗客は立ち入れず、駅北口の自転車置き場越しに、社殿の背面を見ることが出来る。正面は駅の改札を抜けホームからズームで見るしかないと思われる。
JR駅構内にある道内唯一の神社「苫小牧構内神社」の社殿が、十月二十二日の例大祭までに改修されることになった。苫小牧駅の線路脇にある高さ約二メートルの小社殿で、道内最大の貨物駅だった半世紀前 、作業中の事故が相次ぎ、安全祈願のため一九六三年に建立されたが、老朽化が進んでいた。 神社は敷地面積約三十平方メートルで、一般の乗客は入れない。高さ約五十センチのコンクリートの土台の上に、約一・五メートルの社殿が立つ。木材の腐食が激しくなってきたため、JR北海道が改修を決めた。 同社などによると、一九五〇年代の苫小牧駅には王子製紙苫小牧工場で加工する丸太が道内各地から運ばれてきた。青函連絡船で届いた生活必需物資を旭川や日高など方面別に振り分ける役割も担い、駅職員は現 在の十六倍の約四百人もいた。 しかし、連結・切り離し作業を急いだ職員が貨車にはねられる事故が多発。毎年のように死者が出たため、旧国鉄が神社を建てた。以後毎年、「鉄道の日」の十月十四日前後に例大祭が行われる。少なくともJR誕生の八 七年以降、死亡事故は起きていないという。
(「駅見守り45年 老朽化で社殿改修へ JR苫小牧「構内神社」」 2008年9月7日 北海道新聞) ※中川木材産業株式会社 木材、木工ニュースアーカイブより
この構内神社を最近知り、散歩の途中で探してみようと通ってみたら案外近くにあり、今まで気づかなかったのが不思議なくらいだった。
地元の人ほど地元を知らないとは、自分に限ればまったく当たっていると思う。
▼2024年5月
この時もコメダ珈琲店に行き、近くのホームセンターに寄ってからのスタート。そのホームセンターに隣接する形で、この空き地と説明板があった。
説明の写真のとおり、この狭く細長い区画は校地の一部で、現在のホームセンターと隣のスーパーなどの区画が全体の跡地になるだろう。実は筆者の母校の隣の校区になり、聞き馴染みはかなりあった。もっとも、青臭い縄張り意識なのか屈折した地域愛がそうさせるのか、田舎の中学生などは近隣の学校の生徒とはいがみ合うものでもあったため、よほどのことが無い限りは他所の校舎を訪れることも無かったのだが。
それでも、都市部で自分が知っている学校が廃校になるとは思わず、このような碑(昔は石碑が多かったが)を見ると寂寞の思いもある。
構内の変電所の赤煉瓦はずっと健在だ。いつまで残ってくれるだろうか。



息づく工場と、代謝を繰り返す自分と街の景色を眺めつつ、帰途についた。
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#工場 #飲食 #古建築 #碑 #鉄道 #神社
マッカウス洞窟とひかりごけ
マッカウス洞窟とひかりごけ
>>66羅臼の海沿いを羅臼漁港近くまで注視しつつ戻ると、やっと山側に駐車スペースのある窪んだ場所を発見。
そこがヒカリゴケで有名な「マッカウス洞窟」である。
このマッカウス洞窟だが、岩盤崩落の恐れのため2013年から立入禁止となっている。
そして、同じく2013年にマッカウス洞窟を迂回するように内陸側に「マッカウストンネル」が開通している。
当記事は2006年のものだが、その後かなり経ってからマップでこの周辺を見ていた時にトンネルの新設を確認して、驚いた記憶がある。
洞窟のある場所は元々時化の影響を受けやすかったことからトンネルを掘る計画は以前からあったようで、貴重なヒカリゴケの自生地である洞窟に影響の無いようかなり考慮した工法(ウォータータイト工法 )で施工されたらしい。しかし洞窟は一時期岩盤剥離の恐れもあり一部立入禁止となっていたところ、岩盤内部に亀裂が発見され、トンネル開通の同年に全面立入禁止となった。現在は洞窟部分は完全に囲われ近づけなくなっている。トンネル工事との因果関係は不明。
ヒカリゴケそのものは現在、羅臼町郷土資料館 で人工培養されているものを見ることが出来るようだ。
このような看板が立っているくらい、整備はされていた。訪れる人はまばらだったが、この前後に2組程出入りがあった。
何処から見ても光ってみえる訳ではなく、ポイントがある。柵越しに見る形になる。

横方向に長く、天井は低い。
柵の奥に、苔が広がっているが…
ヒカリゴケと、他にも数種類の苔が自生しているらしい。
この角度だとよくわからないのだが…
見る場所を変えると、色の変わる場所が現れる。
薄暗く撮るのが難しかったが、この蛍光塗料を散らしたような黄緑が、おそらくそれなのだろう。看板には4地点で自生しているとあったが、見落としなのかこれ以外の場所には見つけることが出来なかった。
洞内は完全に日陰となり、とても涼しい。
天井にも何らかの草が生えていた。水分を多く含んでいるのだろうか。だとしたら岩盤はさほど強固ではないのかもしれない。



前庭的な場所には、池が設けられていた。水は温かった。
上を見上げると、中々の断崖である。
そしてマッカウス洞窟は、こんな場所でもあった。筆者が松浦武四郎を知ったのは、これがきっかけだったのだ。開拓期以前の北海道(蝦夷地)の歴史をまだろくに知らなかった頃だった。幕末の時代に蝦夷地をこのような冒険の旅をした人がいたのかという驚きがあり、たちまち興味を持った。
※追記:詳しくはこちら
それから色々な探検家を知り、郷土史等も含め現在の趣味や関心事となっている。
この16年後、亀の歩みなりに武四郎の郷里の松阪を訪れる ことになろうとはさすがに当時はまだ知る由もない。
武四郎が詠んだ詩の碑。Googleのレビュー投稿を見てみると、これらの看板と碑はかろうじて立入禁止の柵外にあるように見える。徒歩では近くまで行けそうなので、碑だけでも見たいという武四郎フリークの方は行ってみる価値はあるのかもしれない。が、肝心の洞窟が外観ごと拝めないのでは意味が無さそうだが…
個人的には、ヒカリゴケもまあ良かったが、興味を持った人物の史跡という点で印象深くまた思い出の場所でもある。


危険を理由に一度立入禁止となると、今後解除される見込みはほぼ無いだろう。自然現象であり致し方なしだが、色々と惜しい。
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#碑 #洞窟
旧住友赤平炭鉱 立坑櫓
旧住友赤平炭鉱 立坑櫓
住友赤平炭鉱は1938年(昭和13)に開鉱、閉山は1994年(平成6)と、比較的近年まで稼働していた新しい炭鉱の部類である。
そのためか、炭鉱を象徴する立坑櫓の建物がほぼ操業当時の状態で残り、現在ではガイダンス施設も新設され、立坑ヤード内も施設の開館日は見学可能となっている。
日本遺産「炭鉄港 」の構成文化財として登録もされており、北海道産業遺産群の中でも有名なスポットだ。
筆者の初見は2009年で、その時既に立坑櫓の存在を知った上で訪れたが、外観だけでも実物を間近に見るとその大きさに圧倒された。操業時には「住友赤平立坑」のネオン文字が掲げられていたようだが、この時点では既に取り外されていた。
時間的に夕刻を過ぎていたため、まともに撮影出来ずにその場を後にしたが、有志が開催している「赤平TANtanまつり」で炭鉱関連の施設内見学が出来るということで、翌々年の2011年に再訪し、これまた内部の圧倒的な空間と操業当時の様子に思いを馳せつつ堪能させてもらった。
▼2011年10月
看板の背景写真に、掲げられていたネオン文字が確認できる。
見学時間まで余裕があったので、建物の周りを見てみる。こちらは道路に面した一角で、見学参加者の集合場所だった。右側建物奥のシャッターから出入りした。

脇の門からお邪魔して、櫓を正面から。左側は事務所棟。
ぐるっと裏の方に回ってみる。
傍には殉職者の慰霊碑があった。見学時間に集合場所へ向かうと、家族連れなども含めかなりの人が集まっていた。
当時から関心の高さが窺われた。
シャッターが開けられ、内部に入ると従業員の繰込所と思われる一室になり、そこでヘルメットを着用しガイドの説明を聞いた上で立坑ヤード内へ。
ガイドはこちらで働いていた元炭鉱マンの三上氏である。今日に至るまでガイドを務められている。立坑の仕組みやエピソードなど、軽妙かつ分かりやすく興味深い話を色々聞かせていただいた。
櫓の真下、立坑坑口へ下ろすゴンドラの柱部分。櫓の上部に滑車(ヘッドシープ)があり、巻き上げ機でワイヤーケーブルを制御し昇降させる。
柵の奥に昇降口があり、石炭を積んだ炭車を上げ下ろししていた。
炭車。黄色い方はバケットが傾き石炭の積み替えが容易になった新型のもの。
石炭を運び出す炭車のレール。そういえばこちらの原炭置き場や選炭場も近くにあったと思うのだがどの辺りだったのだろう。名残でもあるのだろうか。
一対の信号室の片方。
天井が高く、壮大な空間となっている。
人員を運ぶ立坑エレベーター、こちらは順番に箱に載せてもらい鉱員の気分を体感。一つの箱に6人×3列で定員18人で載っていたらしく、これも実際に見学者18人ずつ乗り込んで再現。
なかなかの詰め込み状態で、毎秒約6m、最高深度約600mまで昇降していたという。
これが4段構造になっているため、最大定員72名まで一度に運べるものだった。
斜坑で使われていた坑内人車の内部。鉱員の移動に使用されていた。元々坑内にあるべきものだが、こちらに移して展示されている。体の大きな人だと膝が前方の仕切りにつっかえそうだ。
信号室の内部。近代の炭鉱労働は機械技術的側面も強いことを教えてくれる。(正面の映り込みは筆者)
椅子の座布団に働く人の血の通った部分が垣間見える。玖保キリコのキャラクター懐かしすぎる…
閉山当時のカレンダーが掛かったまま。時の経過を感じる。
作業階段を上階へ。ケーブルを巻き取る動力滑車(ケーペプーリ)。さすがに大きい。

巻上機。施工に携わった安川電機の銘がある。
施設の傷みが少ないため、通電すれば今でも動かせるとのこと。
消火設備の記録板。こちらも閉山時まで記録され続けたもの。
住友赤平は、大きな事故が少なく優秀な炭鉱だったといわれている。
立坑の建設は1963年(昭和38)、それからこの時点で50年近く経過しているが、かなり堅牢に作られているのか目立った傷みもなく、今日まで残るものになっているのもまた凄いと思う。
▼2012年10月
翌2012年は、赤間炭鉱のズリ山に登った後にTANtanまつりに滑り込み、立坑櫓のライトアップ待ちで撮影したものである。
2011年時にもライトアップは見ているのだが、肝心のそちらの写真は写りが稚拙だったため、残っていない。
曇り気味だったが、日暮れの空の色が何とも言えない渋い色合いで良かった。
櫓部分のアップ。シルエットになるとクールで格好いい。
逆側から。ここの立坑施設はアングルが限られるため、地味に撮影が難しいかもしれない。
立坑前の事務所と道路。このあとにライトアップ点灯、昨年に続き赤平名物のがんがん鍋(豚汁ベースのモツ鍋)をいただいた。
▼2013年10月
更に翌年も、まつりに合わせて訪れた。3年連続で同じ場所に行くというのは個人的には珍しいことだと思う。
この間にカメラも一眼に新調したこともあり、新たに撮影に行きたい思いもあった。
とはいえ拙いものではあるが、画像のみ淡々と上げていくことにする。


この時も、内部見学に参加し、再びケージ18人乗り体験をさせてもらった。数百メートルの地下では太陽光がそもそも届かないので、ライトなしで目が慣れるということは決してない、というお話を改めて聞いて過酷な環境だったということを再確認。
でも、ネズミはちょろちょろと動き回っていたというのも聞き、ヒトと動物の能力の違いにも驚く。餌の調達は可能だったのだろうか。






バケットが片方に傾斜し、石炭を移し替える様子の写真が展示されている。



立坑の設計図。仕組みが簡易的にわかるようになっている。
ケーブルを通した天井の穴。
この年もライトアップがあり、やっと撮れた一枚。この夜は立坑の壁面を利用して、プロジェクターで炭鉱の歴史の映像を流しており、思わず見入ってしまった。
おまけに。この年は会場にもキャンドルが灯され、幻想的な雰囲気を醸し出していた。▼2018年11月
しばらくご無沙汰だったが、2016年に立坑や関連施設が住石マテリアルズから赤平市に譲渡されたのを機に周辺整備が進み、2018年には炭鉱ガイダンス施設が新設されていた。
この年のTANtanまつりでは施設駐車場がイベント会場となり、屋台の出店や著名人ゲストが呼ばれて大変な賑わいだった。
筆者自身はこの年に入院・手術を経験したため、リハビリと称して久々に遠出をして来たのがこちらだった。そのため立坑見学は遠慮してガイダンス施設の見学と、軽く立坑の撮影だけに止めた。
人が多かったため、写真は厳選した。



遺産保存への道筋を(初訪以前から動きはあったため途中からだが)辿っているようで、余所者の一見学者に過ぎないがとても感慨深くもある。
現在ではガイダンス施設の開館日に有料で立坑内部のガイド付き見学が可能になっている。とはいえガイド料も非常にお値打ち設定だと思うので、利用して損はないはずだ。
炭鉱や産業遺産に関心のある方にはぜひおすすめしたい。
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#炭鉱 #古建築 #碑 #イベント #文化施設
上歌地区史跡広場
上歌地区史跡広場
上歌地区は新歌志内トンネルの上部に位置するが、空き家の目立つ炭住区の外れに、いくつかの碑が集まっている場所がある。上歌地区史跡広場と呼ばれ、ここ上歌地区にまつわる碑を一箇所に集約した場所だが、上歌志内炭砿の東斜坑の閉塞坑口も同じ場所に残っている。
2009年に探訪したものなので、現在は多少変わっているものがあるかもしれない。Googleマップで確認すると、坑口付近の藪具合が気になるが。
地主神の碑、大山祇神社の碑(「昭和13年5月、上歌志内礦救護隊員一同」とある)、馬頭観世音、狛犬各一対、灯籠一対。
「住友石炭上歌志内砿東斜坑口跡」看板と坑口の碑。坑口は碑のすぐ隣にある。
「移設までの経過」碑上歌志内地区における開鉱は、明治二十八(一八九五)年である。以来昭和二十八(一九五三)年の住友赤平炭鉱との合併まで掘り続けられた。この間石狩石炭、坂炭鉱、住友坂炭砿、住友鉱業歌志内砿業所上歌志内砿などと名称をかえている。二度の災害(大正末期・昭和初期、ともに七十数名殉職)をはじめ様々なできごとがあり、石碑が建立された。山神社周辺に散在していた石碑は、それらのできごとを物語っているのである。この度、住友赤平炭鉱がこの地区からの撤退を決め、土地を北海道に返却することになった。地元の町内会有志と歴史資料収集保存会は石碑の散逸を惜しみ、一ヶ所に集めて保存し後世に伝えることにした。本日その完成式典を挙行したのである。なお、そのための諸経費は住友赤平炭鉱を初めとする市内の有志と、地元の町内会有志などから醵出された。
昭和六十二(一九八七)年十月十日 歌志内歴史資料収集保存会 巌堂謹書
炭山や鉱山では大山祇神を祀っていることが多いが、人知を超える危険も伴う坑内労働では必然的に信仰の対象になった。
この地区の炭鉱関係者にとっては、弔いと祈りの場所でもあるのかもしれない。
坑口はガス抜きの管を通して封鎖されている。炭鉱の場合、閉山の際は坑口をすべて密閉しなければ閉山とみなされず、閉山交付金支払いの対象とならなかったため、炭鉱跡では開いたままの坑口を見かけることは稀である。
「旧住友石炭上歌・赤平通洞坑入口」碑昭和三十年代住友赤平・上歌砿と合併に依り、通勤・通院・買物に約四百段の階段を裸電球の光だけで降りて坑内電車で赤平鉱まで通う帰りも又大変な背の重荷を感じて黙々と歩いた仲間達で旧住友社員上歌現住者にて設立記念とする。
上歌在住協賛者氏名(以下略)
立活皆真ナリ
平成二十年八月十一日 建立
上歌砿関係者は、赤平鉱に合併後は赤平まで通勤や用足しに赴いていたようで、この元斜坑の坑内電車を利用して移動していたらしい。地下まで昇降するのは大変だっただろうし、そんな身の上を分かち合う仲間内の結束も強いものだったのだろう。
このような碑をよく読んでみると、その土地の来歴や人々の生活がわかることも多く、大変興味深い。
あと、ここでは碑文の「砿」「鉱」の字がきちんと分けられていて(社名などの正式名称に則っている)、すごくきちんと作られていると思う。
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#廃 #炭鉱 #碑
上芦別さんぽ 三菱芦別の痕跡を追う
上芦別さんぽ 三菱芦別の痕跡を追う2009年に芦別に来たのには、もう一つ目的があった。
筆者の父と祖母が炭鉱時代の上芦別に住んでいたため、予てからどのような場所か気になっていたからである。
それは昭和20年代後半から30年代半ばのことで、祖母の再婚相手が三菱芦別炭鉱の従業員だったためだ。その人は電話交換士を務めており、坑内員ではなかったようだ。
時折母を介して語られる父と祖母の芦別での暮らしを聞き、炭鉱に興味を持ったタイミングで芦別方面に行った際には上芦別へも行ってみようと思っていた。
炭鉱員だった祖母の再婚相手は筆者から見れば義理の祖父、父から見れば継父(義父)になるため、血縁は無い。互いに子連れ再婚だったこともあり、嫁側の実子であった父にとっては肩身の狭い家庭生活だったようだ。
昔は、結婚するなら炭鉱の人と云われており(坑内・坑外員の別有りかは不明だが)、祖母の場合も再婚の相手探しに周りが色々世話を焼いたのではないかと思われる。現在の恋愛結婚とは事情が異なる婚姻だったのだろう。
そう云われるくらいには炭鉱もまだ戦後復興の時期で比較的景気が良かった時代のことであった。
かつての三菱芦別鉱業所のあった場所である。
「北国人 言葉少なに 冬に入る」
碑の句は18歳の時の作。炭鉱の斜陽化により当地を離れ、東京経済大学に学んだ。
三菱芦別炭鉱は1933年(昭和8)に樺太の炭鉱開発に注力するため、一旦芦別を閉山している。樺太の三菱塔路炭鉱がそれである。
取り寄せた除籍によると、件の義祖父の連れ子(実子)の出生地が樺太の塔路となっており、そこで働いていた時に子供が生まれたということが読み取れる。
戦前の樺太で生まれ育ったという年配の人は親類以外で度々見かけたが、これを知って俄然樺太という地が身近に感じられるようになった。
終戦後三菱は樺太から引き揚げ、1947年(昭和22)に芦別炭砿を再開、1964年(昭和39)の閉山まで操業した。
北海道内の主要炭鉱の中では比較的早い時期の閉山だったためか、炭鉱施設の痕跡は少なめである。
炭鉱の工場施設は既に取り壊されて残っていなかったものの、この周辺には三菱関係の炭住や厚生施設等が他に転用されつつ残っているらしい。
探訪当時は情報も少なく、それらを見つけることが出来なかった。
父と祖母が住んでいた場所は、500番地台と聞いていたのだが、そうなると上芦別駅周辺区域となり、どちらかというと三菱よりは明治炭鉱のエリアになるような感じがする。近年除籍謄本を取り寄せてみたところ、件の義祖父の本籍が富岡(上芦別)100番台となっており、それだと上記の啓南公園の近辺になる。
もっとも、実際に住んでいた場所は500番台だったのかもしれないことを踏まえて、そちらの方を街撮りよろしく回ってみた。
現在はこの遊具のようなものは撤去されたのか見当たらない。
当時のこれらの写真と今のGoogleマップなどで見比べると、やはりところどころ空き家や老朽していた建物は取り壊されているようだ。
父も2009年以前にこの辺りを訪れたことがあったらしいのだが、昔のものは何も無かったと言っていたためそれほど期待もしていなかった。
それでもこのような場所だったと知れただけでもまあ良かったと思う。帰宅してから気付いたが、父が通っていたと思われる旧上芦別小学校の跡地を見逃してしまったのは残念だ。
再訪は未だ出来ていないので、これもまた課題とする。
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#炭鉱 #碑