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スイーツから廃墟まで。北の国からお送りする日常ゆるゆる探検。2009年から始めた前ブログの記事を再編、移植しています


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上歌地区史跡広場

上歌地区史跡広場

20250304231524-admin.jpg上歌地区は新歌志内トンネルの上部に位置するが、空き家の目立つ炭住区の外れに、いくつかの碑が集まっている場所がある。
上歌地区史跡広場と呼ばれ、ここ上歌地区にまつわる碑を一箇所に集約した場所だが、上歌志内炭砿の東斜坑の閉塞坑口も同じ場所に残っている。

2009年に探訪したものなので、現在は多少変わっているものがあるかもしれない。Googleマップで確認すると、坑口付近の藪具合が気になるが。

202503042315242-admin.jpg地主神の碑、大山祇神社の碑(「昭和13年5月、上歌志内礦救護隊員一同」とある)、馬頭観世音、狛犬各一対、灯籠一対。

202503042315244-admin.jpg「住友石炭上歌志内砿東斜坑口跡」看板と坑口の碑。坑口は碑のすぐ隣にある。

202503042315243-admin.jpg「移設までの経過」碑
上歌志内地区における開鉱は、明治二十八(一八九五)年である。以来昭和二十八(一九五三)年の住友赤平炭鉱との合併まで掘り続けられた。この間石狩石炭、坂炭鉱、住友坂炭砿、住友鉱業歌志内砿業所上歌志内砿などと名称をかえている。二度の災害(大正末期・昭和初期、ともに七十数名殉職)をはじめ様々なできごとがあり、石碑が建立された。山神社周辺に散在していた石碑は、それらのできごとを物語っているのである。この度、住友赤平炭鉱がこの地区からの撤退を決め、土地を北海道に返却することになった。地元の町内会有志と歴史資料収集保存会は石碑の散逸を惜しみ、一ヶ所に集めて保存し後世に伝えることにした。本日その完成式典を挙行したのである。なお、そのための諸経費は住友赤平炭鉱を初めとする市内の有志と、地元の町内会有志などから醵出された。
 昭和六十二(一九八七)年十月十日  歌志内歴史資料収集保存会  巌堂謹書

炭山や鉱山では大山祇神を祀っていることが多いが、人知を超える危険も伴う坑内労働では必然的に信仰の対象になった。
この地区の炭鉱関係者にとっては、弔いと祈りの場所でもあるのかもしれない。

202503042315241-admin.jpg坑口はガス抜きの管を通して封鎖されている。炭鉱の場合、閉山の際は坑口をすべて密閉しなければ閉山とみなされず、閉山交付金支払いの対象とならなかったため、炭鉱跡では開いたままの坑口を見かけることは稀である。

20250304231524-admin.jpg「旧住友石炭上歌・赤平通洞坑入口」碑
昭和三十年代住友赤平・上歌砿と合併に依り、通勤・通院・買物に約四百段の階段を裸電球の光だけで降りて坑内電車で赤平鉱まで通う帰りも又大変な背の重荷を感じて黙々と歩いた仲間達で旧住友社員上歌現住者にて設立記念とする。

 上歌在住協賛者氏名(以下略)
 立活皆真ナリ
 平成二十年八月十一日 建立

上歌砿関係者は、赤平鉱に合併後は赤平まで通勤や用足しに赴いていたようで、この元斜坑の坑内電車を利用して移動していたらしい。地下まで昇降するのは大変だっただろうし、そんな身の上を分かち合う仲間内の結束も強いものだったのだろう。

このような碑をよく読んでみると、その土地の来歴や人々の生活がわかることも多く、大変興味深い。
あと、ここでは碑文の「砿」「鉱」の字がきちんと分けられていて(社名などの正式名称に則っている)、すごくきちんと作られていると思う。
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#廃 #炭鉱 #碑

道央,歌志内

旧住友赤平炭鉱排気立て坑櫓(解体済)

旧住友赤平炭鉱排気立て坑櫓(解体済)

20250304002408-admin.jpg悲別ロマン座>>52前庭から道路の向こうに見える筒型の建造物。炭鉱関連のもので、旧住友赤平炭鉱の排気立坑の櫓である。
炭鉱には坑内の空気を循環させるため、外からの新鮮な空気を入れる入気と、内部のガス混じりの空気を排出する排気の坑口があった。こちらは排気坑のものだが、元々は同じ住友の上歌志内炭砿の第一立坑で、昭和初期の住友坂(ばん)炭砿時代に建てられた第一立坑が始まりのようだ。

上歌志内炭砿は1895年(明治28)に開鉱し、石狩石炭株式会社が経営したが1917年(大正6)に坂市太郎の坂炭砿株式会社に経営が移り、のち住友との共同経営となり、近隣の歌志内炭鉱と新歌志内炭鉱も住友が買収することになる。
1953年(昭和28)に住友上歌志内炭砿は合理化のため、隣町鉱区の住友赤平炭鉱に吸収統合された。ちなみにこの年は、奇しくも先の上歌会館(後の悲別ロマン座)が開館した年でもあるが、会館の管理は住友歌志内炭鉱が引き継ぎ、1971年(昭和41)の閉山まで使用された。

第一立坑時代は石炭や人員を運ぶ用途として使われたが、1987年(昭和62)には赤平の排気立坑として転換されることとなった。筒状で覆われているのは排気効率を上げるためであり、転換後のものである。1994年(平成6)の住友赤平炭鉱閉山まで使用された。

202503040024081-admin.jpg2009年、ロマン座を訪れた時に撮影。当時は様々な場所を巡っていたので時間の都合でここからの撮影だけに留め、また今度また今度と思っているうちに2016年、惜しくも解体されてしまった。近くまで分け入って見学しなかったことが悔やまれる。

ロマン座にはその後も幾度か訪れていた上、立坑周辺は立ち入り制限も特に設けられていなかったはずなので、勿体ないことをしたと思っている。
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#廃 #炭鉱

道央,歌志内

旧上歌会館(悲別ロマン座)

旧上歌会館(悲別ロマン座)

2025030100402715-admin.jpg
「日本一人口の少ない市」といわれる歌志内市も、かつては炭鉱の町だった。
国道12号線から東側、赤平市へ抜ける途中の山間に点在する街並みがそれである。
国道を通るだけだとその市の存在に気づかず、通り過ぎてしまう位置関係だが、炭鉱跡に興味を持つと俄然、自分の中で存在感を放つ場所となった。

炭住の名残の住宅群と、チロル地方の建物を模した温泉施設と道の駅が代表的なランドマークとなるだろうか。それらを眺めつつ車を走らせると、赤平へ向かうトンネル手前の街の端に、特徴的な大きな切妻屋根の建物が姿を見せる。

「悲別ロマン座」の看板と、文字を掲げたその建物は、かつて「上歌会館」と呼ばれ、旧住友上歌志内砿の職員厚生施設であり劇場や映画館として使用された。1971年(昭和46)の炭鉱閉山後は放棄され、廃墟化していたが、1984年(昭和59)に放映されたTVドラマ『昨日、悲別で』の舞台として使用され、脚光を浴びた。それを機に有志が修復、保存活動を開始し、その後カフェやイベント会場として活用、近年では文化庁認定の日本遺産「炭鉄港」の構成文化財への追加を目指している(参考:時事ドットコム )とのこと。

初探訪は2009年、2013年までの間に数回訪れた。
当時はカフェとして営業されており、お願いすれば奥の映写室の映写機を見せてもらうことも出来た。


▼2009年6月

202503010039408-admin.jpg道路脇の看板。当時の道路地図にもこの名で記載されており、いつか立ち寄ってみたいと思っていた。
このようなレトロ感漂う看板を目にするだけでも気分は盛り上がった。

20250302145626-admin.jpgルピナスの群生が炭鉱町であったことを物語るかのようだ。

202503010039402-admin.jpg大胆にせり出した屋根。造形が見事だ。
堂々たるスケール感がある。

202503010039403-admin.jpg『昨日、悲別で』作者倉本聰の手による看板。
「悲別(かなしべつ)」はドラマ中の架空の地名。北海道内の舞台は近辺の上砂川から歌志内、また旧空知炭砿などの協力を得て制作された。

筆者は当時まだ子供だったため、リアルタイムでは視聴していないが、最近になってとある縁で全話視聴することが出来た。
佳作なので多くの方に観てもらいたいのだが、稀にドラマチャンネルあたりで配信されることがある程度で、DVD化などはされていないのが残念だ。シナリオ本が古本として市場に出ていることはある。こちらは個人的に入手済み。

劇中でこの建物は「悲別ロマン座」と呼ばれ、里帰りした主人公が廃墟化した劇場を利用してタップダンスを披露したり、また映画館として使われた最後のパートはとても悲しく印象に残っている。

202503010039404-admin.jpg初探訪は惜しくも休業日だったらしく、外観だけ見させてもらうに留まった。
この「やってない」看板のなんと味わい深いことよ!

202503010039405-admin.jpg窓際の可愛らしい手作りマスコット。

20250301003940-admin.jpg建物裏に回ると、他にもステージ状の建物が。
元々表側の建物と屋根続きに一つの建物だったが、廃墟化した際に客席部分が崩落して取り除いたということらしい。

今は野外ステージとして機能しているようだ。

202503010039401-admin.jpgペンケウタシナイ川に掛かる橋。この先は「ニングルの森」という散策路になるようで気になるのだが、夏場はちょっと行く気になれない…

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202503010039406-admin.jpg前庭には、炭鉱で使われていたであろうトロッコが展示されていた。


▼2012年10月

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2025030100402714-admin.jpg3年経ってのリベンジ。
どの角度から見ても、美しい形だ。

2025030100402713-admin.jpg「やってる」!
やっと、お邪魔が出来る。「やってない」の裏側が「やってる」になっているようだ。

202503010040279-admin.jpg勇気を出して扉を開けると、館長さんが気さくに挨拶して招き入れてくれた。
ドラマの写真パネルが掲示されている。この時はなんとなく目をやったが、ドラマを観た今だととても貴重に思う。

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2025030100402710-admin.jpgここを訪れた人々の感想が絵馬のようにびっしりと貼られている。
自分も書かせてもらったので、ちゃっかり紛れている、はず。

20250301004027-admin.jpg訪れた理由など色々お話したら、奥の映写室を案内してくれて、当時の映写機を見せてくださった。
昭和20年代から使われていたアークライト式で、とても貴重なものだろう。

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202503010040272-admin.jpgここに石炭を入れて、熱して動かしていたらしい。
今でも動かそうと思えば動くらしいが、引火しやすいため今ではなかなかフィルムを貸し出してもらえないとのこと。

202503010040277-admin.jpgこの時は、館内で写真展が開催されていて、よく見ると当時の知り合いの方で世間は狭いと驚きつつ拝見した記憶。
当然ながら、オーダーをさせていただいた。今見てもリーズナブルな価格だった。

202503010040275-admin.jpgカフェラテを注文したら、なんとデザートまで付いてきた。メニューをよく見ると、「お菓子付き!」とある。

202503010040276-admin.jpgスポンジケーキに、アイスのデザート。ドリンクとこれで340円は破格である。
お味も美味しかった。感動してしまった。

近所の方も食事に訪れていて、賑やかだった。この辺では食事処が少ないため、いつも来ているという方も。他所から来た人間が珍しかったのか、話しかけられてそこから会話が弾むなど楽しい時を過ごさせていただいた。

ずっと歌志内住みの方が、炭鉱時代のこと、特にここに加藤登紀子がコンサートに来てくれたという話を活き活きと語ってくださったことは印象に残っている。当時の活気はこのような感じだったのかなと、タイムスリップしたような感覚を味わった。

2025030100402718-admin.jpgしばらく談笑してから辞した。
外に出て、また建物の周りを観察させてもらった。こちらは主屋側の裏。映画館の頃の客席出入り口に当たると思われる。

2025030100402716-admin.jpg上歌会館から悲別ロマン座になるまでの軌跡。

2025030100402717-admin.jpg椅子とテーブルが配置されていた。前後でイベントがあったのだろうか。


▼2013年10月

この時は隣町の「赤平TANtanまつり」に訪れた際、途中で食事をしたく寄らせてもらった。
変わらす館長さんはお元気だった。

202503010040551-admin.jpgロマンザのオムカレーをいただいた。もしかしたら特別メニューだったのかも。
食事の方も美味しくいただいた。生クリームで描かれたロマン座、遊び心がにくい(笑)

20250301004055-admin.jpgコーヒーは、ヘーゼルナッツフレーバーをチョイスしたように記憶している。

202503010040552-admin.jpgこの時は、元々ここにあったピアノの試し演奏などが行われていたようだ。年代物なので調律が難しいなどと会話が聞こえていた。


これ以降はなかなか足を運べず、また悲しいことに放火(小火)や落書き等の被害もあり、コロナ禍を経てカフェも休業状態となってしまった。
館長さんからその後、赤平の駅前で食堂を営業しているとの知らせが入り、機会を見て訪れたいと考えてはいるが、現状の営業状況はわからない。

昨年、市や有志がロマン座の日本遺産登録を目指しているとのニュースを目にした。保存の意欲があるということに少し嬉しくなった。
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#炭鉱 #文化施設 #飲食 #古建築

道央,歌志内

旧沼東小学校跡

旧沼東小学校跡

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円形校舎は、昭和30年代に全国的に流行し、狭い土地に多くの生徒児童を収容出来るという、省スペース化が見込める様式として取り入れられた。
当時斬新なデザインの上、建築コストを抑えることも出来たと言われるが、教室は概ね切り分けたバウムクーヘンのような形となり、机の配置が難しく、また方角によっては採光しづらいという問題もあったという。これらのような現実的な欠点もあってかその後は廃れ、スタンダードな方形校舎が多くを占めるようになった。

美唄市立沼東小学校は、開校は明治期だが、1959年(昭和34)に現在の場所にめがね校舎として新築された。この時点で1,570名の児童数を抱えるマンモス校であった。1965年(昭和40)に三菱美唄炭鉱が分社化し、1972年(昭和47)に閉山。翌年にも租鉱炭鉱が閉山し、人口の流出が相次ぎ1974年(昭和49)に閉校となった。

炭鉱町としての美唄を知ったきっかけが、この小学校跡だった。
この小学校跡に関しては、あまり褒められたことではないのだが、かなり以前に心霊スポットとして知った。しかし、円形の校舎というのがあまりに珍しく感じられ、むしろ興味は建物そのものに向いた。かつての炭鉱町の小学校ということで、場所も自力で大体の位置を探し当て、いつかはと機会を伺った。2009年前後に炭鉱跡に興味が湧き、始めに足を運んだのが美唄だったためこの際是非にと立ち寄った。

しかしその時は夏場で、藪の中をクルマで進み、川の対岸、木々の間にうっすら見える校舎を視界に捉えただけで撤退した。探索初心者ゆえ、徒歩という概念が抜け落ちており、随分無茶をしたものだ。現在はクルマでは入ることは出来ず、また公にも立入禁止となっている(そもそも立入を認める廃墟が存在するのだろうか)。

夏以外の季節であればと、その年の秋に再訪した。それから、冬、春と訪れるごとに、違う顔を見せてくれた。


▼2009年11月

20241102233445-admin.jpgまず出迎えたのが、骨組みだけになった体育館である。
こちらは以前に、不審火で焼けたと言われており、鉄筋のトラスや剥がれかけのトタンに焼けた跡が見受けられる。

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2024110223344513-admin.jpgそして念願の円形校舎。多面柱形の校舎は本来は2棟あり、連絡通路で繋がっていた(シャッター部分)。
上空からはメガネのように見えたため、「めがね校舎」と呼ばれていたという。
閉校後に1棟が取り壊され、もう1棟のみが残された。理由は不明である。

202411022334455-admin.jpgいつからそこにあるのか、こちらも有名な草ヒロ。

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2024110223344512-admin.jpg1階部分は、水没しかけている。基礎の地盤が沈んでいるのだろうか。

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202411022334459-admin.jpg綺麗な白壁だが、この頃は落書きが多かった。

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2024110223344514-admin.jpgこれを見れた時は感激してしまった。
外部の陽光を取り込んだ天井のトップライト。


▼2013年〜2017年冬

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202411030315251-admin.jpg川岸に石組みが2基並んでいたが、これは校門の門柱だそうだ。

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202411030315253-admin.jpg綿の実が出来ていた。

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202411030315257-admin.jpgそういえば、段数をちゃんと数えたことはない。
右側に見えるのは手洗い場だったようだが、タバコの燃えがらが積み上がっているのは、心霊界隈で線香代わりに供えるそうだが。火事の元になりかねないので、控えて欲しいのだが…

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202411030315259-admin.jpg教室の辺りはモノクロの世界になっていた。
浸水していた1階部分はスケートリンクのように結氷していた。

20241103032004-admin.jpg中央の螺旋階段部分。壁ではなく柵なのは採光を考慮もしているのだろう。

202411030320041-admin.jpgこの自然の造形に驚く。
薄氷が迫り出してクレープ状になっている。

202411030320042-admin.jpgこういうの、誰がつけるのだろう?
心霊現象とは、恐怖感が妄想を膨らませ、そして幻覚を引き起こすのかも知れない(霊感無し人間の戯言である)。

20241103032051-admin.jpg校舎と体育館の位置関係。
雪深い地域だが、こんな中でも元気に登校していたのだろう。

202411030320511-admin.jpg雪化粧はまた違う表情である。

202411030320513-admin.jpgこれが中央の螺旋階段。見事な造形だと思う。

202411030320516-admin.jpg冬は屋上が積雪のため、陽光が届かず消灯状態だ。

202411030320515-admin.jpg連絡通路への接続部分。2階のみシャッターが半開きで明るい。

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202411030320517-admin.jpg一面結氷。もはや大理石のようだ。

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202411030320519-admin.jpgアイスバブルはここでも見られる。自然の湖沼で見られるものに比べれば透明度は劣るかも知れないが。

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▼2019年5月

この間、市やボランティアで校舎内の落書きを消す活動が行われていたらしく、だいぶ綺麗になったと感じる。
なんだか只乗りさせてもらっているようで、申し訳なく思う(そもそも立ち入るべきではないのだが)。

春の訪問は初めてだ。陽気が心地よい。
円形の建物なら、魚眼レンズを使用すると面白いのではと思った。

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20241103041544-admin.jpg浸水がちょっと怖いくらいだが、初めて来た時から高止まりしているように感じる。

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202411030415448-admin.jpg扇形の教室は、どのように撮ればそれらしく見えるのだろうか…
黒板が、窓際と廊下側の2面に設置されている。明るく見やすい方を選び机を配置したのだろう。

202411030415445-admin.jpg広角で教室の配置がわかる。3階(最上階)はやはり晴れだと明るい。

202411030415446-admin.jpg光の乱反射が美しい。

202411030415449-admin.jpg追い求めていた理想の光。
特に関係者でもないのだが、改めて、ここへの思い入れが深いことに気づいた。

今後は滅多に行くことはないと思うが…

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階段に虹彩が落ちていた。

再利用などがなされなかったのは立地的な問題もあるのだろうが、廃校遺産としてこのままでも末永く残ることを願う。
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#廃 #古建築 #炭鉱

道央,美唄

旧我路映劇 映写室跡

旧我路映劇 映写室跡

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美唄市に我路という地区があり、ここも炭鉱街だった。全盛期には所狭しと炭住や商店、娯楽施設等が立ち並び、大変賑やかな街並みが形成されていた。炭鉱も閉山し鉄道も廃線となり、今や多くの建物は消え廃屋も目立ち、住まわれている家屋も点在する程度になっている。

かつての駅前周辺には映画館や料亭、また近年まで営業していた焼き鳥屋や郵便局もあった。それらも閉業し、更に寂寥感が増してしまった。

この駅前通りに、上のような廃址が存在している。家屋でもなく、工場のような大掛かりな施設でもない。
ここにはかつて「我路映劇」という映画館があり、その映写室だと言われる。館自体(客席など)は木造建築だったようだが、そちらは撤去か倒壊かで消失している。何故映写室のみ残っているのかというと、フィルムは可燃性で当時の映写機だと火事になることが多かったため、映写室だけは耐火性のあるコンクリート製になっていたからだそうだ。

我路地区には、3軒程の映画館があったらしく、その内の1軒がこの我路映劇であった。
消えた映画館の記憶 美唄市の項 によると、
テアトル我路劇場/我路映劇/我路映画劇場 と館名の変遷があり
開館は1957年(昭和32)、300名程を収容できる映画館だったようだ。

映画館は炭鉱街では代表的な娯楽施設だったのである。

202410300227111-admin.jpgツタが見事なまでに覆っている。下部はピンク色で特徴的な廃址だ。

202410300227113-admin.jpg漫画『宇宙家族カールビンソン』にも登場している我路映劇。
作者のあさりよしとお氏がここ我路の出身である(生まれは上砂川町)。

202410300227112-admin.jpg多分冬場の方が形を捉えやすいだろう。これらは2009年の撮影である。
隣にあった家屋は(映画館とは無関係)、今ではかなり倒壊してしまったようだ

20241030123955-admin.jpg昭和34年の我路の市街図。下が北側。
我路映劇(赤)、我路駅と我路郵便局(ピンク)が見える。今の状況を見ると、これだけの店舗や家屋が並んでいたとは驚きだ。
地図上ではこの頃から我路映劇と呼ばれていたようだ。
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#廃 #炭鉱 #文化施設

道央,美唄