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スイーツから廃墟まで。北の国からお送りする日常ゆるゆる探検。2009年から始めた前ブログの記事を再編、移植しています


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旧三井美唄炭鉱 第二坑選炭場跡

旧三井美唄炭鉱 第二坑選炭場跡

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アルテピアッツァ美唄>>43から東へ進むと、盤の沢という地区があり、その道沿いに漏斗型の塔が姿を見せる。2009年に美唄方面に来たのは、炭鉱関係の遺構が目的だったため、これも炭鉱時代のものだということは把握していた。

三井美唄炭鉱第二坑の選炭場跡である。選炭とは、掘り出してきた石炭をクズ石(これをズリという・九州地方ではボタ)と選り分け、そこから更に塊炭や粉炭に分けられ、出荷出来る品質までふるい分ける行程のことである。この漏斗型は原炭ポケットとされ、掘り出した石炭を貯めておく施設で、原炭はそこから付属の選炭機にかけられ選炭された。

三井美唄炭鉱は南美唄に拠点があったが、二坑の経歴については下の通り。
ここ盤の沢の炭鉱は、徳田与三郎が1913年(大正2)に開鉱した徳田炭鉱が始まりである。その後、新美唄炭鉱と改称、1941年(昭和16)に三井が買収、南美唄に事業を展開していた三井美唄炭鉱と合併し、南美唄の炭鉱は「一坑」、盤の沢の炭鉱は「二坑」と称された(注:「1坑」「2坑」とアラビア数字表記の資料もある)。出炭量は増加したが、全国的な熱エネルギーの拡張などで重油の輸入が増加、石炭需要が落ち込んだため三井が企業合理化案を打ち立て、第二坑を個人に租鉱稼働させたものの、1967年(昭和42)に租鉱権期間の満了によりそのまま閉山となった。
※拙著『北の炭山の骸』 「三井美唄炭鉱 第二坑」より抜粋。


▼2009年6月

20241026235827-admin.jpg上の写真とともに、この時初めて見た二坑の原炭ポケット。
この形は三井炭鉱のものによく見られ、芦別でも同型のものが見られる。


▼2009年11月

20241026235838-admin.jpg秋に訪れてみると、周りの草木が枯れて足元と隣接する選炭機の姿まで捉えることが出来た。漏斗の吐出口の辺りまで確認出来る。
これは気になる。が、その後も通りがかる度に遠くから眺めるだけになっていた。


▼2019年5月

同好の士との探索ツアーでこちらを案内していただき、実に10年越しで拝見することが出来た。
あなたの知らない美唄ツアー2019『北の細道』 様)

2024102623585312-admin.jpg北海道ではようやく春、若葉がぽつぽつと顔を出し始めた頃なのでまだ見通しがいい。
このアングルまで近づけただけで胸が躍る。

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202410262358539-admin.jpgこの様になっていたのかと、納得した。

202410262358538-admin.jpg閉山してから50年超、積雪や融雪を繰り返した影響か、鉄筋が剥き出しになってしまっているが、歴史を感じる。

2024102623585311-admin.jpg緑の装身具を纏っているように見えて、美麗だ。

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202410262358531-admin.jpg奥にある遺構。選炭機を配していたものだろうか。

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202410262358535-admin.jpg選炭施設の、工場の中になるのだろうか。人が通るには狭いコンクリートジャングルを進む。

202410262358536-admin.jpg大きく開いた窓(廃業後に人為的に開けられたものかも知れない)から、道路沿いから見えた施設がこちらだろうか。

選炭施設の中にも漏斗(ホッパー)がある。選炭方法には幾つかの方法があり、時代によってその方法は遷移していったらしい。
選別の方法には、石炭とそれ以外の石のそれぞれの比重を利用して液体中での浮沈により選別する「重液選別」、石炭の微粒子を気泡に付着させ水面に浮かせ、不要物を沈殿させる「浮遊選別」等があり、この施設でも利用されていたようだ。
※拙著『北の炭山の骸』「三井美唄炭鉱 第二坑」より抜粋。

炭鉱の技術的なことに関しては多々ご教授いただいたり、資料を参考にさせていただいた。稚拙な部分についてはご容赦いただきたい。

202410262358537-admin.jpg吐出口には色々種類がある。
技術に詳しくなくとも、こういった違いが見られたりするのは興味深い。

元々廃墟美を追い求めるつもりで炭鉱跡に注目していたのだが、炭鉱がどういう歴史を持ちどういうシステムで稼働していたのか、という点も意識すると次第に視界は開けていく。

前ブログでは炭鉱遺産を巡っていた中途の2015年で更新を停止していたが、ここではそれ以降に巡ったものについても徐々に更新していきたいと思う。
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#廃 #炭鉱

道央,美唄

元町トーチカ

元町トーチカ

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トーチカとは、軍事施設の一つで、小型の要塞、掩体壕であり、語源はロシア語(точка)である。多くは、銃口を外に向けるために開けられた銃眼以外は壁に囲われ、兵士が内部に隠れ防御出来るコンクリート製の建造物となっている。

北海道では太平洋岸に点在し、現在も勇払や十勝、釧路、根室に残っているが、所有者が明確でなく事実上放置されたままにある。

太平洋戦争の末期、米軍は戦争の早期終結を目指すため、北海道を占領後に本州侵攻の拠点とする計画を立てていたが、気象条件によりこれらは実行されなかった。一方旧日本軍は、十勝や道東方面の防御を強化し、その沿岸にトーチカを多数配備した。

苫小牧にも勇払方面にかけて多数のトーチカが配備されたが、現在残っているのは3基程であり、緑ヶ丘公園、植苗、元町にそれぞれ現存する。しかし緑ヶ丘公園のものはほぼ埋没しており、かろうじてコンクリ製の遺構の一部が確認出来る程度である。

ここでは元町の浜近くに現存するものを取り上げる。この元町トーチカも以前のブログにコメントで情報を頂き、初めて戦跡の存在を知って2009年に訪れたものである。

202410210111491-admin.jpg住宅地から海へ向かう小道沿いに、カマボコ型の建造物が見える。

202410210111496-admin.jpgかなり古びたコンクリート製で、上部は風雨による侵食か削られている。

202410210111492-admin.jpg側面に出入り口と思われる板張りがあり、開閉は出来ず内部も確認は出来ない。

202410210111494-admin.jpg銃眼は海に向けて開けられているはずだが、その知識に乏しかったため撮り損ねてしまった。

202410210111495-admin.jpgすぐ隣には携帯電話の中継局がある。

202410210111497-admin.jpg遠く彼方には船影が見える。これがもし軍艦だったらと思うと、緊張が走る。
当時の兵士の姿に想いを馳せる。

202410210111493-admin.jpg直ぐ側の海沿いの遊歩道。ここで気軽に散歩が出来るということは幸せなことだと思う。

時の流れにより戦争を語り継ぐ人々は年々減る一方だが、せめて戦跡という形でも記憶を留めつつ、平和を祈りたい。
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#廃 #海 #遊歩道 #戦跡

道央,苫小牧

旧苫小牧川遊歩道

旧苫小牧川遊歩道

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苫小牧の沼>>3や海>>9の記事を書く過程で調べ物をしていたら、そういえば旧苫小牧川が遊歩道になっていたことを思い出し、またそこからふるさと海岸に出られることも判明したため、先日ウォーキングがてら行ってみた。

王子製紙の南西、三条通の旧三条橋(廃川となったので既に橋の体ではないが)から、ふるさと海岸へ出る吐水口近辺までの全長1kmをまず歩いてみた。
このコースはかつての苫小牧川で、王子製紙の排水先だった。子供の頃、国道を通る際に橋から川の様子が見れたが、当然水質は良くなく、物心ついた頃にはすでに枯れ川になっていた。しばらくすると整地された上、石畳や外灯が取り付けられ、遊歩道に変わっていた。
このような遊歩道に興味があるため、いつか歩いてみたいとは思っていた。

20241008011621-admin.jpg旧三条橋から入り、少し進んだところ。右側の車道と並行して伸びている。
蛇行しているのはかつての川の形に忠実に整地したからだろうか。

202410080116211-admin.jpg民家が近くで種が飛ばされるのだろうか、アサガオが道端におはようございます。

202410080116212-admin.jpg橋近くでは石畳が敷かれている。高低差が川の跡らしくなってきた。

202410080116213-admin.jpg橋の下をくぐる。橋は苫小牧橋で、国道36号線(235号と重複)である。
ここを子供の頃クルマに乗せられて通る度に、川に目をやっていた。

202410080116214-admin.jpgくぐって振り返る。内部の天井には電灯が点り、大きなクモが巣を張っていた。

202410080116215-admin.jpgこういう交差する階段など、立体的な道にグッと来る。右側へ横断するためだけの通路なのだが。
真っ直ぐ石畳を進む。

202410080116216-admin.jpg石畳が切れ、未舗装路へ。

202410080116217-admin.jpg終点まであと少し。

202410080116218-admin.jpgこの辺が終点になる。ここまで来ると遊歩道というより踏み跡のようだが、ベンチが設置されており、終点近くに集中して洋燈風の外灯もある。
行き当たりは海へ注ぐ吐水口だが、工場用水を浄化の上、暗渠を設けて流しているのだろうか。あるいは高砂町の浄水場の排水なのかも知れない。

苫小牧川(かつて有珠川と呼ばれていた場所)も、40年程前までは汚染が酷いヘドロ川で、小学生の頃、橋の上から見えた投棄された自転車やリヤカーのようなガラクタが黄土色に変色して何年も同じ場所にあったのを強烈に覚えているが、いつしか河川工事ですっかり綺麗に整地され、水質もかなり改善された。

街も変わっていくが、環境も良い方向に変わっていくのは喜ばしいことだ。

ふるさと海岸>>34へ出てみる。
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#橋梁 #遊歩道 #廃

道央,苫小牧

旧戸井線アーチ橋

旧戸井線アーチ橋

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旧戸井線は1936年(昭和11)に着工。当時、汐首岬砲台建設が計画されたため、物資や人員輸送を目的とした鉄道路線を敷くべく建設された。
1944年(昭和19)に全線開通を目指し、五稜郭から湯の川を経由し、戸井までの全長29.2kmが計画されていたが、戦局の悪化と資材不足により前年の1943年(昭和18)に工事を中断、戸井までの約3km区間を残し未成のままに終わった幻の路線である。

区間にはアーチ橋もいくつか建設され残されたが、戦時中の資材不足による粗悪な施工といわれ、加えて経年劣化により、近年解体の情報も出ていた。

2009年に恵山の道の駅>>29から函館市街地に向かう際に見たのが初である。道の駅の案内板に記されており、この頃からアーチ橋などの土木遺産に興味があったため、見てみようと注意しつつ走っていると右手に美しいアーチを捉えることが出来た。


▼2009年5月

20241002183914-admin.jpg瀬田来町の蓬内川に架かるアーチ橋。蓬内(よもぎない)橋という。
手前の斜面に作られた石段と鳥居など、立体的な集落の造形も魅力に映る。

202410021839143-admin.jpg橋を近くで見るため、石段を上る。神社の参道となっているようだ。

202410021839141-admin.jpg鳥居をくぐると間近に橋の姿が。橋をくぐった先に何があるのか、こういう集落の細道に興味をそそられる。
ちなみにここは参道のため、この先は瀬田来神社に繋がる。元禄時代の創建と伝えられる、小集落の歴史ある社だ。

202410021839142-admin.jpg戦時の鉄不足の中の施工だったので、鉄筋は使われず木筋や竹筋が用いられたと言われていた。詳細は後述する。
表面の劣化は見られるが、素人目にはまだまだ丈夫そうではある。

橋の上部がどうなっているかも気にはなったが、取り急ぎの見物のため上に出る道まで探せなかった。
ここはもともと蓬内川橋梁といい、撮影時は地区の生活路として橋上部は函館の市道となっていた。

202410021839144-admin.jpg瀬田来地区からしばらく進むと、汐首岬と灯台のすぐ近くに別の立派なアーチが現れた。汐首岬第一陸橋(汐首陸橋)といい、こちらは8連ある。
蓬内橋と同じく、1941年頃竣工のコンクリートアーチ橋である。造形が美しい。しかしここに限らないが、この時代の土木建造物は朝鮮人労働者の徴用やタコ部屋労働の産物であることが多いため、留意が必要だ。

こちらは特に道路橋などに転用されずにきているらしい。
直ぐ側には人家があるため、うろつくのは程々にしたがいつまでも見ていたい造形だった。


▼2012年7月

道の駅スタンプラリー時に、函館から恵山の道の駅へ向かう道すがら気になって寄ってみた。

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202410021839292-admin.jpg汐首陸橋は、夏場で木々がこんもりと茂っていたため、電線がなければ山中に眠る橋の様相だったが、変わらず立ち続けていた。3年前と比べて目立った傷みは見られない。

202410021839293-admin.jpg蓬内橋にも寄った。鳥居も変わらずそこにあった。

しかし、こちらの蓬内橋は、この翌年2013年に老朽化を理由に解体され、2014年に新しい橋に架け替えられた。
解体工事の際、竹筋が使用されていると言われていたコンクリート製の内部を調べたところ、補強のない無筋コンクリートだったことが判明し、強度は現在の基準を上回っていたという。
旧戸井線遺構「蓬内橋」、無筋コンクリ製だった(函館新聞2013/3/27)

これは大変興味深い。戦時中の建造物は材料が粗悪だと言われるが、その分を工法で補っていたのだろうか。

旧戸井線の路線跡は湯の川方面の市街地にもあり、緑園通りといい遊歩道やサイクリングロードに転用されているが、そちらに残っていた小型のアーチ橋も道路整備のため取り壊されているらしい。
いずれは汐首陸橋も取り壊される運命にありそうだ。

アーチが見られなくなるのは残念だが、生活の場が近くにあれば安全面には代えられないだろう。

戦前の歴史を物語る遺構が少しずつ、姿を消してゆく。
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#古建築 #橋梁 #廃 #戦跡 #鉄道

道南,函館

ジョイランド樽前跡③ シロクマ舎編

ジョイランド樽前跡③ シロクマ舎編

ジョイランド樽前跡② コテージ群編より

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ジョイランドの見どころは、もう一つ、この白熊牧場だった。
開園の1979年にオープンし、登別クマ牧場と並ぶようなシロクマ(ホッキョクグマ)の繁殖基地にすべく、オープン時は30頭飼育されていたようだ。しかし、1985年には飼育数4頭となっており、他へ移動や輸出の可能性もあるが、他動物の大量死もあったことから気候や環境が合わず命を落とした個体もいたものと思われる。

白熊牧場跡は、レストラン跡や駐車場跡からは離れた位置にひっそりと残されていた。以前は営業当時の様子が窺えるシロクマの畜舎棟も残っていたようだが、2019年4月の探訪時には既に建物は無く、どうやら解体されてしまったようだ。火災による延焼は免れているが、焼けたレストランや温泉棟の解体後にこちらもあえなく解体となったらしい。残っていたのは、畜舎の壁、アオコにまみれた人工池と擁壁、コンクリート製の岩山くらいであった。

2024092120050413-admin.jpg奥の方に長く伸びた施設だったようだ。

20240921200504-admin.jpg壁と岩山。

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202409212005044-admin.jpg壊しにくい部位のみ残して全て解体した感じになっていた。

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202409212005042-admin.jpg当時の面影はかろうじて、池と擁壁だけが残してくれている。

202409212005043-admin.jpgシロクマの遊び場だったのかも知れない。

202409212005047-admin.jpg池はさすがにもう少し水位があったと思われる。

202409212005048-admin.jpgアオコの中に、浮き玉らしきものが浮かんでいた。クマの玩具だったのではないだろうか。

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2024092120050410-admin.jpgところどころに岩山を設けてそれなりに自然の造形を表していたのだろう。

2024092120050411-admin.jpgしかし、ここに30頭は厳しそうだ…

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202409212005323-admin.jpg見物客用のトイレだろうか。

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202409212005326-admin.jpg魚眼で全体を捉える。

202409212005327-admin.jpg頭数が少なければ快適だったかも知れないが、牧場とするにはどうだったろう。畜舎の具体的な広さも今となってはわからないが。

202409212005328-admin.jpg畜舎より手前の岩山。

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ほぼ更地に近い状態だったので生々しさはさほど感じられなかったが、来歴を知ると、生き物で商売をすることの難しさと業の深さを感じずにはいられない。当時はまだ比較的動物に対する福祉の概念や生命倫理が緩かったとはいえ。



当時、此処で犠牲になった動物たちの碑もあると聞き、探してみた。
これでこちらの探索は締めにしようと思った。


2024092120053211-admin.jpgシロクマ舎から遠くない場所、駐車場跡の片隅に鎮座する獣魂碑。裏側には平成3年の建立と、当時の経営会社の名が記されていた。

驚くことに、色褪せていない真新しい造花が献花されていた。お参りが時折あるのだろうか。

2024092120053212-admin.jpg造花の陰から、一匹のクモが姿を見せた。生命は、姿を変えつつ継承するのだろうか。

年月は流れ、世代も変わればここに動物園があったことも人々の記憶から忘れ去られるのかも知れないが。同じ轍を踏むことの無いよう、心霊云々関係なしにどういったことが起こったのかは知っておくべきだろう。

せめて動物たちの眠りが安らかであることを祈りたい。
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ジョイランド樽前跡①
ジョイランド樽前跡② コテージ群編

#廃

道央,苫小牧