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旧住友赤平炭鉱 立坑櫓
旧住友赤平炭鉱 立坑櫓
住友赤平炭鉱は1938年(昭和13)に開鉱、閉山は1994年(平成6)と、比較的近年まで稼働していた新しい炭鉱の部類である。
そのためか、炭鉱を象徴する立坑櫓の建物がほぼ操業当時の状態で残り、現在ではガイダンス施設も新設され、立坑ヤード内も施設の開館日は見学可能となっている。
日本遺産「炭鉄港 」の構成文化財として登録もされており、北海道産業遺産群の中でも有名なスポットだ。
筆者の初見は2009年で、その時既に立坑櫓の存在を知った上で訪れたが、外観だけでも実物を間近に見るとその大きさに圧倒された。操業時には「住友赤平立坑」のネオン文字が掲げられていたようだが、この時点では既に取り外されていた。
時間的に夕刻を過ぎていたため、まともに撮影出来ずにその場を後にしたが、有志が開催している「赤平TANtanまつり」で炭鉱関連の施設内見学が出来るということで、翌々年の2011年に再訪し、これまた内部の圧倒的な空間と操業当時の様子に思いを馳せつつ堪能させてもらった。
▼2011年10月


こちらは道路に面した一角で、見学参加者の集合場所だった。右側建物奥のシャッターから出入りした。




見学時間に集合場所へ向かうと、家族連れなども含めかなりの人が集まっていた。
当時から関心の高さが窺われた。
シャッターが開けられ、内部に入ると従業員の繰込所と思われる一室になり、そこでヘルメットを着用しガイドの説明を聞いた上で立坑ヤード内へ。
ガイドはこちらで働いていた元炭鉱マンの三上氏である。今日に至るまでガイドを務められている。立坑の仕組みやエピソードなど、軽妙かつ分かりやすく興味深い話を色々聞かせていただいた。

櫓の上部に滑車(ヘッドシープ)があり、巻き上げ機でワイヤーケーブルを制御し昇降させる。



そういえばこちらの原炭置き場や選炭場も近くにあったと思うのだがどの辺りだったのだろう。名残でもあるのだろうか。




一つの箱に6人×3列で定員18人で載っていたらしく、これも実際に見学者18人ずつ乗り込んで再現。
なかなかの詰め込み状態で、毎秒約6m、最高深度約600mまで昇降していたという。
これが4段構造になっているため、最大定員72名まで一度に運べるものだった。

元々坑内にあるべきものだが、こちらに移して展示されている。体の大きな人だと膝が前方の仕切りにつっかえそうだ。

(正面の映り込みは筆者)

玖保キリコのキャラクター懐かしすぎる…


さすがに大きい。







立坑の建設は1963年(昭和38)、それからこの時点で50年近く経過しているが、かなり堅牢に作られているのか目立った傷みもなく、今日まで残るものになっているのもまた凄いと思う。
▼2012年10月
翌2012年は、赤間炭鉱のズリ山に登った後にTANtanまつりに滑り込み、立坑櫓のライトアップ待ちで撮影したものである。
2011年時にもライトアップは見ているのだが、肝心のそちらの写真は写りが稚拙だったため、残っていない。




このあとにライトアップ点灯、昨年に続き赤平名物のがんがん鍋(豚汁ベースのモツ鍋)をいただいた。
▼2013年10月
更に翌年も、まつりに合わせて訪れた。3年連続で同じ場所に行くというのは個人的には珍しいことだと思う。
この間にカメラも一眼に新調したこともあり、新たに撮影に行きたい思いもあった。
とはいえ拙いものではあるが、画像のみ淡々と上げていくことにする。



数百メートルの地下では太陽光がそもそも届かないので、ライトなしで目が慣れるということは決してない、というお話を改めて聞いて過酷な環境だったということを再確認。
でも、ネズミはちょろちょろと動き回っていたというのも聞き、ヒトと動物の能力の違いにも驚く。餌の調達は可能だったのだろうか。
















この夜は立坑の壁面を利用して、プロジェクターで炭鉱の歴史の映像を流しており、思わず見入ってしまった。

▼2018年11月
しばらくご無沙汰だったが、2016年に立坑や関連施設が住石マテリアルズから赤平市に譲渡されたのを機に周辺整備が進み、2018年には炭鉱ガイダンス施設が新設されていた。
この年のTANtanまつりでは施設駐車場がイベント会場となり、屋台の出店や著名人ゲストが呼ばれて大変な賑わいだった。
筆者自身はこの年に入院・手術を経験したため、リハビリと称して久々に遠出をして来たのがこちらだった。そのため立坑見学は遠慮してガイダンス施設の見学と、軽く立坑の撮影だけに止めた。
人が多かったため、写真は厳選した。



遺産保存への道筋を(初訪以前から動きはあったため途中からだが)辿っているようで、余所者の一見学者に過ぎないがとても感慨深くもある。
現在ではガイダンス施設の開館日に有料で立坑内部のガイド付き見学が可能になっている。とはいえガイド料も非常にお値打ち設定だと思うので、利用して損はないはずだ。
炭鉱や産業遺産に関心のある方にはぜひおすすめしたい。
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#炭鉱 #廃 #古建築 #碑 #イベント #文化施設
上歌地区史跡広場
上歌地区史跡広場
上歌地区史跡広場と呼ばれ、ここ上歌地区にまつわる碑を一箇所に集約した場所だが、上歌志内炭砿の東斜坑の閉塞坑口も同じ場所に残っている。
2009年に探訪したものなので、現在は多少変わっているものがあるかもしれない。Googleマップで確認すると、坑口付近の藪具合が気になるが。



上歌志内地区における開鉱は、明治二十八(一八九五)年である。以来昭和二十八(一九五三)年の住友赤平炭鉱との合併まで掘り続けられた。この間石狩石炭、坂炭鉱、住友坂炭砿、住友鉱業歌志内砿業所上歌志内砿などと名称をかえている。二度の災害(大正末期・昭和初期、ともに七十数名殉職)をはじめ様々なできごとがあり、石碑が建立された。山神社周辺に散在していた石碑は、それらのできごとを物語っているのである。この度、住友赤平炭鉱がこの地区からの撤退を決め、土地を北海道に返却することになった。地元の町内会有志と歴史資料収集保存会は石碑の散逸を惜しみ、一ヶ所に集めて保存し後世に伝えることにした。本日その完成式典を挙行したのである。なお、そのための諸経費は住友赤平炭鉱を初めとする市内の有志と、地元の町内会有志などから醵出された。
昭和六十二(一九八七)年十月十日 歌志内歴史資料収集保存会 巌堂謹書
炭山や鉱山では大山祇神を祀っていることが多いが、人知を超える危険も伴う坑内労働では必然的に信仰の対象になった。
この地区の炭鉱関係者にとっては、弔いと祈りの場所でもあるのかもしれない。


昭和三十年代住友赤平・上歌砿と合併に依り、通勤・通院・買物に約四百段の階段を裸電球の光だけで降りて坑内電車で赤平鉱まで通う帰りも又大変な背の重荷を感じて黙々と歩いた仲間達で旧住友社員上歌現住者にて設立記念とする。
上歌在住協賛者氏名(以下略)
立活皆真ナリ
平成二十年八月十一日 建立
上歌砿関係者は、赤平鉱に合併後は赤平まで通勤や用足しに赴いていたようで、この元斜坑の坑内電車を利用して移動していたらしい。地下まで昇降するのは大変だっただろうし、そんな身の上を分かち合う仲間内の結束も強いものだったのだろう。
このような碑をよく読んでみると、その土地の来歴や人々の生活がわかることも多く、大変興味深い。
あと、ここでは碑文の「砿」「鉱」の字がきちんと分けられていて(社名などの正式名称に則っている)、すごくきちんと作られていると思う。
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#廃 #炭鉱 #碑
旧住友赤平炭鉱排気立て坑櫓(解体済)
旧住友赤平炭鉱排気立て坑櫓(解体済)
炭鉱には坑内の空気を循環させるため、外からの新鮮な空気を入れる入気と、内部のガス混じりの空気を排出する排気の坑口があった。こちらは排気坑のものだが、元々は同じ住友の上歌志内炭砿の第一立坑で、昭和初期の住友坂(ばん)炭砿時代に建てられた第一立坑が始まりのようだ。
上歌志内炭砿は1895年(明治28)に開鉱し、石狩石炭株式会社が経営したが1917年(大正6)に坂市太郎の坂炭砿株式会社に経営が移り、のち住友との共同経営となり、近隣の歌志内炭鉱と新歌志内炭鉱も住友が買収することになる。
1953年(昭和28)に住友上歌志内炭砿は合理化のため、隣町鉱区の住友赤平炭鉱に吸収統合された。ちなみにこの年は、奇しくも先の上歌会館(後の悲別ロマン座)が開館した年でもあるが、会館の管理は住友歌志内炭鉱が引き継ぎ、1971年(昭和41)の閉山まで使用された。
第一立坑時代は石炭や人員を運ぶ用途として使われたが、1987年(昭和62)には赤平の排気立坑として転換されることとなった。筒状で覆われているのは排気効率を上げるためであり、転換後のものである。1994年(平成6)の住友赤平炭鉱閉山まで使用された。

ロマン座にはその後も幾度か訪れていた上、立坑周辺は立ち入り制限も特に設けられていなかったはずなので、勿体ないことをしたと思っている。
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#廃 #炭鉱
旧沼東小学校跡
旧沼東小学校跡
円形校舎は、昭和30年代に全国的に流行し、狭い土地に多くの生徒児童を収容出来るという、省スペース化が見込める様式として取り入れられた。
当時斬新なデザインの上、建築コストを抑えることも出来たと言われるが、教室は概ね切り分けたバウムクーヘンのような形となり、机の配置が難しく、また方角によっては採光しづらいという問題もあったという。これらのような現実的な欠点もあってかその後は廃れ、スタンダードな方形校舎が多くを占めるようになった。
美唄市立沼東小学校は、開校は明治期だが、1959年(昭和34)に現在の場所にめがね校舎として新築された。この時点で1,570名の児童数を抱えるマンモス校であった。1965年(昭和40)に三菱美唄炭鉱が分社化し、1972年(昭和47)に閉山。翌年にも租鉱炭鉱が閉山し、人口の流出が相次ぎ1974年(昭和49)に閉校となった。
炭鉱町としての美唄を知ったきっかけが、この小学校跡だった。
この小学校跡に関しては、あまり褒められたことではないのだが、かなり以前に心霊スポットとして知った。しかし、円形の校舎というのがあまりに珍しく感じられ、むしろ興味は建物そのものに向いた。かつての炭鉱町の小学校ということで、場所も自力で大体の位置を探し当て、いつかはと機会を伺った。2009年前後に炭鉱跡に興味が湧き、始めに足を運んだのが美唄だったためこの際是非にと立ち寄った。
しかしその時は夏場で、藪の中をクルマで進み、川の対岸、木々の間にうっすら見える校舎を視界に捉えただけで撤退した。探索初心者ゆえ、徒歩という概念が抜け落ちており、随分無茶をしたものだ。現在はクルマでは入ることは出来ず、また公にも立入禁止となっている(そもそも立入を認める廃墟が存在するのだろうか)。
夏以外の季節であればと、その年の秋に再訪した。それから、冬、春と訪れるごとに、違う顔を見せてくれた。
▼2009年11月

こちらは以前に、不審火で焼けたと言われており、鉄筋のトラスや剥がれかけのトタンに焼けた跡が見受けられる。



上空からはメガネのように見えたため、「めがね校舎」と呼ばれていたという。
閉校後に1棟が取り壊され、もう1棟のみが残された。理由は不明である。








外部の陽光を取り込んだ天井のトップライト。
▼2013年〜2017年冬







右側に見えるのは手洗い場だったようだが、タバコの燃えがらが積み上がっているのは、心霊界隈で線香代わりに供えるそうだが。火事の元になりかねないので、控えて欲しいのだが…



浸水していた1階部分はスケートリンクのように結氷していた。


薄氷が迫り出してクレープ状になっている。

心霊現象とは、恐怖感が妄想を膨らませ、そして幻覚を引き起こすのかも知れない(霊感無し人間の戯言である)。

雪深い地域だが、こんな中でも元気に登校していたのだろう。










▼2019年5月
この間、市やボランティアで校舎内の落書きを消す活動が行われていたらしく、だいぶ綺麗になったと感じる。
なんだか只乗りさせてもらっているようで、申し訳なく思う(そもそも立ち入るべきではないのだが)。
春の訪問は初めてだ。陽気が心地よい。
円形の建物なら、魚眼レンズを使用すると面白いのではと思った。











黒板が、窓際と廊下側の2面に設置されている。明るく見やすい方を選び机を配置したのだろう。



特に関係者でもないのだが、改めて、ここへの思い入れが深いことに気づいた。
今後は滅多に行くことはないと思うが…

階段に虹彩が落ちていた。
再利用などがなされなかったのは立地的な問題もあるのだろうが、廃校遺産としてこのままでも末永く残ることを願う。
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#廃 #古建築 #炭鉱
旧赤間炭鉱 選炭工場跡
旧赤間炭鉱 選炭工場跡赤間炭鉱は、明治〜大正期に稼働していた中小炭山を北炭が買収して開鉱した炭鉱になる。住友赤平炭鉱と同年の1938年(昭和13)に開鉱し、鉱区的にも隣り合う形で操業した。その後歌志内の空知炭鉱へ集約され、赤間は北炭から分社化していたためここでは単に赤間炭鉱とする。
住友赤平の立坑施設からJR赤平駅方面へ進むと、ちょうど駅の裏手に当たる位置に「日本一のズリ山階段」の看板を掲げた駐車場があり、左手に見えるコンクリート製の建造物がこの赤間炭鉱選炭工場の一部施設である。炭鉱施設は閉山後市の所有となり、ほとんどは解体撤去されたが、産業遺産としての価値が見直されるに当たって、今は炭鉱遺産として整備されているズリ山と共に残されている。
初訪は2009年、上の写真が当時のものである。
2012年にはズリ山を登るために再訪した。以下はその時のものである。
ほぼ中央が赤間炭鉱の施設、すぐ上に赤平駅、左下がズリ山になるが、大変興味深い。
選炭工場はこのベルトコンベアー2基の施設で、現在残っている原炭ポケットの一部はトロッコ線を挟んだすぐ下の小さい施設だろうか。この施設にも小さいコンベアーのようなものが見える。
昔の写真と照らし合わせると、なんとなくどう使用されていたかが(正確に判明せずとも)わかるような感じで面白い。
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#廃 #炭鉱