トップ画像
TOP > Photo

スイーツから廃墟まで。北の国からお送りする日常ゆるゆる探検。2009年から始めた前ブログの記事を再編、移植しています


タグ「古建築」を含む投稿12件]

旧住友赤平炭鉱 立坑櫓

旧住友赤平炭鉱 立坑櫓

20250316142002-admin.jpg
住友赤平炭鉱は1938年(昭和13)に開鉱、閉山は1994年(平成6)と、比較的近年まで稼働していた新しい炭鉱の部類である。
そのためか、炭鉱を象徴する立坑櫓の建物がほぼ操業当時の状態で残り、現在ではガイダンス施設も新設され、立坑ヤード内も施設の開館日は見学可能となっている。
日本遺産「炭鉄港 」の構成文化財として登録もされており、北海道産業遺産群の中でも有名なスポットだ。

筆者の初見は2009年で、その時既に立坑櫓の存在を知った上で訪れたが、外観だけでも実物を間近に見るとその大きさに圧倒された。操業時には「住友赤平立坑」のネオン文字が掲げられていたようだが、この時点では既に取り外されていた。
時間的に夕刻を過ぎていたため、まともに撮影出来ずにその場を後にしたが、有志が開催している「赤平TANtanまつり」で炭鉱関連の施設内見学が出来るということで、翌々年の2011年に再訪し、これまた内部の圧倒的な空間と操業当時の様子に思いを馳せつつ堪能させてもらった。


▼2011年10月

202503161420023-admin.jpg看板の背景写真に、掲げられていたネオン文字が確認できる。

202503161420021-admin.jpg見学時間まで余裕があったので、建物の周りを見てみる。
こちらは道路に面した一角で、見学参加者の集合場所だった。右側建物奥のシャッターから出入りした。

202503161420022-admin.jpg
202503161420024-admin.jpg脇の門からお邪魔して、櫓を正面から。左側は事務所棟。

202503161420025-admin.jpgぐるっと裏の方に回ってみる。

20250316142041-admin.jpg傍には殉職者の慰霊碑があった。

見学時間に集合場所へ向かうと、家族連れなども含めかなりの人が集まっていた。
当時から関心の高さが窺われた。

シャッターが開けられ、内部に入ると従業員の繰込所と思われる一室になり、そこでヘルメットを着用しガイドの説明を聞いた上で立坑ヤード内へ。
ガイドはこちらで働いていた元炭鉱マンの三上氏である。今日に至るまでガイドを務められている。立坑の仕組みやエピソードなど、軽妙かつ分かりやすく興味深い話を色々聞かせていただいた。

202503161420026-admin.jpg櫓の真下、立坑坑口へ下ろすゴンドラの柱部分。
櫓の上部に滑車(ヘッドシープ)があり、巻き上げ機でワイヤーケーブルを制御し昇降させる。

2025031614200210-admin.jpg柵の奥に昇降口があり、石炭を積んだ炭車を上げ下ろししていた。

2025031614200221-admin.jpg炭車。黄色い方はバケットが傾き石炭の積み替えが容易になった新型のもの。

202503161420029-admin.jpg石炭を運び出す炭車のレール。
そういえばこちらの原炭置き場や選炭場も近くにあったと思うのだがどの辺りだったのだろう。名残でもあるのだろうか。

202503161420027-admin.jpg一対の信号室の片方。

2025031614200219-admin.jpg
202503161420028-admin.jpg天井が高く、壮大な空間となっている。

2025031614200222-admin.jpg人員を運ぶ立坑エレベーター、こちらは順番に箱に載せてもらい鉱員の気分を体感。
一つの箱に6人×3列で定員18人で載っていたらしく、これも実際に見学者18人ずつ乗り込んで再現。
なかなかの詰め込み状態で、毎秒約6m、最高深度約600mまで昇降していたという。
これが4段構造になっているため、最大定員72名まで一度に運べるものだった。

2025031614200223-admin.jpg斜坑で使われていた坑内人車の内部。鉱員の移動に使用されていた。
元々坑内にあるべきものだが、こちらに移して展示されている。体の大きな人だと膝が前方の仕切りにつっかえそうだ。

2025031614200226-admin.jpg信号室の内部。近代の炭鉱労働は機械技術的側面も強いことを教えてくれる。
(正面の映り込みは筆者)

2025031614200225-admin.jpg椅子の座布団に働く人の血の通った部分が垣間見える。
玖保キリコのキャラクター懐かしすぎる…

2025031614200224-admin.jpg閉山当時のカレンダーが掛かったまま。時の経過を感じる。

2025031614200211-admin.jpg作業階段を上階へ。ケーブルを巻き取る動力滑車(ケーペプーリ)。
さすがに大きい。

2025031614200212-admin.jpg
2025031614200214-admin.jpg巻上機。施工に携わった安川電機の銘がある。

2025031614200218-admin.jpg施設の傷みが少ないため、通電すれば今でも動かせるとのこと。

2025031614200213-admin.jpg
2025031614200215-admin.jpg消火設備の記録板。こちらも閉山時まで記録され続けたもの。

2025031614200217-admin.jpg住友赤平は、大きな事故が少なく優秀な炭鉱だったといわれている。

2025031614200216-admin.jpg
立坑の建設は1963年(昭和38)、それからこの時点で50年近く経過しているが、かなり堅牢に作られているのか目立った傷みもなく、今日まで残るものになっているのもまた凄いと思う。


▼2012年10月

翌2012年は、赤間炭鉱のズリ山に登った後にTANtanまつりに滑り込み、立坑櫓のライトアップ待ちで撮影したものである。
2011年時にもライトアップは見ているのだが、肝心のそちらの写真は写りが稚拙だったため、残っていない。

20250316234252-admin.jpg曇り気味だったが、日暮れの空の色が何とも言えない渋い色合いで良かった。

202503162342521-admin.jpg櫓部分のアップ。シルエットになるとクールで格好いい。

202503162342522-admin.jpg逆側から。ここの立坑施設はアングルが限られるため、地味に撮影が難しいかもしれない。

202503162342523-admin.jpg立坑前の事務所と道路。

このあとにライトアップ点灯、昨年に続き赤平名物のがんがん鍋(豚汁ベースのモツ鍋)をいただいた。


▼2013年10月

更に翌年も、まつりに合わせて訪れた。3年連続で同じ場所に行くというのは個人的には珍しいことだと思う。
この間にカメラも一眼に新調したこともあり、新たに撮影に行きたい思いもあった。

とはいえ拙いものではあるが、画像のみ淡々と上げていくことにする。

20250317003632-admin.jpg
202503170036322-admin.jpg
202503170036321-admin.jpgこの時も、内部見学に参加し、再びケージ18人乗り体験をさせてもらった。
数百メートルの地下では太陽光がそもそも届かないので、ライトなしで目が慣れるということは決してない、というお話を改めて聞いて過酷な環境だったということを再確認。

でも、ネズミはちょろちょろと動き回っていたというのも聞き、ヒトと動物の能力の違いにも驚く。餌の調達は可能だったのだろうか。

2025031700363211-admin.jpg
2025031700363212-admin.jpg
2025031700363213-admin.jpg
2025031700363215-admin.jpg
2025031700363214-admin.jpg
2025031700363217-admin.jpg
202503170036323-admin.jpgバケットが片方に傾斜し、石炭を移し替える様子の写真が展示されている。

2025031700363218-admin.jpg
202503170036324-admin.jpg
202503170036325-admin.jpg
202503170036326-admin.jpg
202503170036328-admin.jpg立坑の設計図。仕組みが簡易的にわかるようになっている。

2025031700363210-admin.jpg
202503170036327-admin.jpgケーブルを通した天井の穴。

202503170036329-admin.jpg
2025031700363219-admin.jpgこの年もライトアップがあり、やっと撮れた一枚。
この夜は立坑の壁面を利用して、プロジェクターで炭鉱の歴史の映像を流しており、思わず見入ってしまった。

20250317022836-admin.jpgおまけに。この年は会場にもキャンドルが灯され、幻想的な雰囲気を醸し出していた。


▼2018年11月

しばらくご無沙汰だったが、2016年に立坑や関連施設が住石マテリアルズから赤平市に譲渡されたのを機に周辺整備が進み、2018年には炭鉱ガイダンス施設が新設されていた。
この年のTANtanまつりでは施設駐車場がイベント会場となり、屋台の出店や著名人ゲストが呼ばれて大変な賑わいだった。

筆者自身はこの年に入院・手術を経験したため、リハビリと称して久々に遠出をして来たのがこちらだった。そのため立坑見学は遠慮してガイダンス施設の見学と、軽く立坑の撮影だけに止めた。
人が多かったため、写真は厳選した。

20250317014340-admin.jpg
202503170143401-admin.jpg
202503170143402-admin.jpg

遺産保存への道筋を(初訪以前から動きはあったため途中からだが)辿っているようで、余所者の一見学者に過ぎないがとても感慨深くもある。

現在ではガイダンス施設の開館日に有料で立坑内部のガイド付き見学が可能になっている。とはいえガイド料も非常にお値打ち設定だと思うので、利用して損はないはずだ。
炭鉱や産業遺産に関心のある方にはぜひおすすめしたい。
畳む


#炭鉱 #廃 #古建築 #碑 #イベント #文化施設

道央,赤平

旧上歌会館(悲別ロマン座)

旧上歌会館(悲別ロマン座)

2025030100402715-admin.jpg
「日本一人口の少ない市」といわれる歌志内市も、かつては炭鉱の町だった。
国道12号線から東側、赤平市へ抜ける途中の山間に点在する街並みがそれである。
国道を通るだけだとその市の存在に気づかず、通り過ぎてしまう位置関係だが、炭鉱跡に興味を持つと俄然、自分の中で存在感を放つ場所となった。

炭住の名残の住宅群と、チロル地方の建物を模した温泉施設と道の駅が代表的なランドマークとなるだろうか。それらを眺めつつ車を走らせると、赤平へ向かうトンネル手前の街の端に、特徴的な大きな切妻屋根の建物が姿を見せる。

「悲別ロマン座」の看板と、文字を掲げたその建物は、かつて「上歌会館」と呼ばれ、旧住友上歌志内砿の職員厚生施設であり劇場や映画館として使用された。1971年(昭和46)の炭鉱閉山後は放棄され、廃墟化していたが、1984年(昭和59)に放映されたTVドラマ『昨日、悲別で』の舞台として使用され、脚光を浴びた。それを機に有志が修復、保存活動を開始し、その後カフェやイベント会場として活用、近年では文化庁認定の日本遺産「炭鉄港」の構成文化財への追加を目指している(参考:時事ドットコム )とのこと。

初探訪は2009年、2013年までの間に数回訪れた。
当時はカフェとして営業されており、お願いすれば奥の映写室の映写機を見せてもらうことも出来た。


▼2009年6月

202503010039408-admin.jpg道路脇の看板。当時の道路地図にもこの名で記載されており、いつか立ち寄ってみたいと思っていた。
このようなレトロ感漂う看板を目にするだけでも気分は盛り上がった。

20250302145626-admin.jpgルピナスの群生が炭鉱町であったことを物語るかのようだ。

202503010039402-admin.jpg大胆にせり出した屋根。造形が見事だ。
堂々たるスケール感がある。

202503010039403-admin.jpg『昨日、悲別で』作者倉本聰の手による看板。
「悲別(かなしべつ)」はドラマ中の架空の地名。北海道内の舞台は近辺の上砂川から歌志内、また旧空知炭砿などの協力を得て制作された。

筆者は当時まだ子供だったため、リアルタイムでは視聴していないが、最近になってとある縁で全話視聴することが出来た。
佳作なので多くの方に観てもらいたいのだが、稀にドラマチャンネルあたりで配信されることがある程度で、DVD化などはされていないのが残念だ。シナリオ本が古本として市場に出ていることはある。こちらは個人的に入手済み。

劇中でこの建物は「悲別ロマン座」と呼ばれ、里帰りした主人公が廃墟化した劇場を利用してタップダンスを披露したり、また映画館として使われた最後のパートはとても悲しく印象に残っている。

202503010039404-admin.jpg初探訪は惜しくも休業日だったらしく、外観だけ見させてもらうに留まった。
この「やってない」看板のなんと味わい深いことよ!

202503010039405-admin.jpg窓際の可愛らしい手作りマスコット。

20250301003940-admin.jpg建物裏に回ると、他にもステージ状の建物が。
元々表側の建物と屋根続きに一つの建物だったが、廃墟化した際に客席部分が崩落して取り除いたということらしい。

今は野外ステージとして機能しているようだ。

202503010039401-admin.jpgペンケウタシナイ川に掛かる橋。この先は「ニングルの森」という散策路になるようで気になるのだが、夏場はちょっと行く気になれない…

202503010039407-admin.jpg
202503010039406-admin.jpg前庭には、炭鉱で使われていたであろうトロッコが展示されていた。


▼2012年10月

2025030100402711-admin.jpg
2025030100402712-admin.jpg
2025030100402714-admin.jpg3年経ってのリベンジ。
どの角度から見ても、美しい形だ。

2025030100402713-admin.jpg「やってる」!
やっと、お邪魔が出来る。「やってない」の裏側が「やってる」になっているようだ。

202503010040279-admin.jpg勇気を出して扉を開けると、館長さんが気さくに挨拶して招き入れてくれた。
ドラマの写真パネルが掲示されている。この時はなんとなく目をやったが、ドラマを観た今だととても貴重に思う。

202503010040278-admin.jpg
2025030100402710-admin.jpgここを訪れた人々の感想が絵馬のようにびっしりと貼られている。
自分も書かせてもらったので、ちゃっかり紛れている、はず。

20250301004027-admin.jpg訪れた理由など色々お話したら、奥の映写室を案内してくれて、当時の映写機を見せてくださった。
昭和20年代から使われていたアークライト式で、とても貴重なものだろう。

202503010040274-admin.jpg
202503010040273-admin.jpg
202503010040271-admin.jpg
202503010040272-admin.jpgここに石炭を入れて、熱して動かしていたらしい。
今でも動かそうと思えば動くらしいが、引火しやすいため今ではなかなかフィルムを貸し出してもらえないとのこと。

202503010040277-admin.jpgこの時は、館内で写真展が開催されていて、よく見ると当時の知り合いの方で世間は狭いと驚きつつ拝見した記憶。
当然ながら、オーダーをさせていただいた。今見てもリーズナブルな価格だった。

202503010040275-admin.jpgカフェラテを注文したら、なんとデザートまで付いてきた。メニューをよく見ると、「お菓子付き!」とある。

202503010040276-admin.jpgスポンジケーキに、アイスのデザート。ドリンクとこれで340円は破格である。
お味も美味しかった。感動してしまった。

近所の方も食事に訪れていて、賑やかだった。この辺では食事処が少ないため、いつも来ているという方も。他所から来た人間が珍しかったのか、話しかけられてそこから会話が弾むなど楽しい時を過ごさせていただいた。

ずっと歌志内住みの方が、炭鉱時代のこと、特にここに加藤登紀子がコンサートに来てくれたという話を活き活きと語ってくださったことは印象に残っている。当時の活気はこのような感じだったのかなと、タイムスリップしたような感覚を味わった。

2025030100402718-admin.jpgしばらく談笑してから辞した。
外に出て、また建物の周りを観察させてもらった。こちらは主屋側の裏。映画館の頃の客席出入り口に当たると思われる。

2025030100402716-admin.jpg上歌会館から悲別ロマン座になるまでの軌跡。

2025030100402717-admin.jpg椅子とテーブルが配置されていた。前後でイベントがあったのだろうか。


▼2013年10月

この時は隣町の「赤平TANtanまつり」に訪れた際、途中で食事をしたく寄らせてもらった。
変わらす館長さんはお元気だった。

202503010040551-admin.jpgロマンザのオムカレーをいただいた。もしかしたら特別メニューだったのかも。
食事の方も美味しくいただいた。生クリームで描かれたロマン座、遊び心がにくい(笑)

20250301004055-admin.jpgコーヒーは、ヘーゼルナッツフレーバーをチョイスしたように記憶している。

202503010040552-admin.jpgこの時は、元々ここにあったピアノの試し演奏などが行われていたようだ。年代物なので調律が難しいなどと会話が聞こえていた。


これ以降はなかなか足を運べず、また悲しいことに放火(小火)や落書き等の被害もあり、コロナ禍を経てカフェも休業状態となってしまった。
館長さんからその後、赤平の駅前で食堂を営業しているとの知らせが入り、機会を見て訪れたいと考えてはいるが、現状の営業状況はわからない。

昨年、市や有志がロマン座の日本遺産登録を目指しているとのニュースを目にした。保存の意欲があるということに少し嬉しくなった。
畳む


#炭鉱 #文化施設 #飲食 #古建築

道央,歌志内

旧沼東小学校跡

旧沼東小学校跡

2024110304154413-admin.jpg
円形校舎は、昭和30年代に全国的に流行し、狭い土地に多くの生徒児童を収容出来るという、省スペース化が見込める様式として取り入れられた。
当時斬新なデザインの上、建築コストを抑えることも出来たと言われるが、教室は概ね切り分けたバウムクーヘンのような形となり、机の配置が難しく、また方角によっては採光しづらいという問題もあったという。これらのような現実的な欠点もあってかその後は廃れ、スタンダードな方形校舎が多くを占めるようになった。

美唄市立沼東小学校は、開校は明治期だが、1959年(昭和34)に現在の場所にめがね校舎として新築された。この時点で1,570名の児童数を抱えるマンモス校であった。1965年(昭和40)に三菱美唄炭鉱が分社化し、1972年(昭和47)に閉山。翌年にも租鉱炭鉱が閉山し、人口の流出が相次ぎ1974年(昭和49)に閉校となった。

炭鉱町としての美唄を知ったきっかけが、この小学校跡だった。
この小学校跡に関しては、あまり褒められたことではないのだが、かなり以前に心霊スポットとして知った。しかし、円形の校舎というのがあまりに珍しく感じられ、むしろ興味は建物そのものに向いた。かつての炭鉱町の小学校ということで、場所も自力で大体の位置を探し当て、いつかはと機会を伺った。2009年前後に炭鉱跡に興味が湧き、始めに足を運んだのが美唄だったためこの際是非にと立ち寄った。

しかしその時は夏場で、藪の中をクルマで進み、川の対岸、木々の間にうっすら見える校舎を視界に捉えただけで撤退した。探索初心者ゆえ、徒歩という概念が抜け落ちており、随分無茶をしたものだ。現在はクルマでは入ることは出来ず、また公にも立入禁止となっている(そもそも立入を認める廃墟が存在するのだろうか)。

夏以外の季節であればと、その年の秋に再訪した。それから、冬、春と訪れるごとに、違う顔を見せてくれた。


▼2009年11月

20241102233445-admin.jpgまず出迎えたのが、骨組みだけになった体育館である。
こちらは以前に、不審火で焼けたと言われており、鉄筋のトラスや剥がれかけのトタンに焼けた跡が見受けられる。

202411022334451-admin.jpg
202411022334452-admin.jpg
2024110223344513-admin.jpgそして念願の円形校舎。多面柱形の校舎は本来は2棟あり、連絡通路で繋がっていた(シャッター部分)。
上空からはメガネのように見えたため、「めがね校舎」と呼ばれていたという。
閉校後に1棟が取り壊され、もう1棟のみが残された。理由は不明である。

202411022334455-admin.jpgいつからそこにあるのか、こちらも有名な草ヒロ。

202411022334453-admin.jpg
2024110223344512-admin.jpg1階部分は、水没しかけている。基礎の地盤が沈んでいるのだろうか。

202411022334457-admin.jpg
202411022334458-admin.jpg
202411022334459-admin.jpg綺麗な白壁だが、この頃は落書きが多かった。

2024110223344510-admin.jpg
2024110223344514-admin.jpgこれを見れた時は感激してしまった。
外部の陽光を取り込んだ天井のトップライト。


▼2013年〜2017年冬

20241103031525-admin.jpg
202411030315251-admin.jpg川岸に石組みが2基並んでいたが、これは校門の門柱だそうだ。

202411030315252-admin.jpg
202411030315253-admin.jpg綿の実が出来ていた。

202411030315254-admin.jpg
202411030315256-admin.jpg
202411030315257-admin.jpgそういえば、段数をちゃんと数えたことはない。
右側に見えるのは手洗い場だったようだが、タバコの燃えがらが積み上がっているのは、心霊界隈で線香代わりに供えるそうだが。火事の元になりかねないので、控えて欲しいのだが…

202411030315255-admin.jpg
202411030315258-admin.jpg
202411030315259-admin.jpg教室の辺りはモノクロの世界になっていた。
浸水していた1階部分はスケートリンクのように結氷していた。

20241103032004-admin.jpg中央の螺旋階段部分。壁ではなく柵なのは採光を考慮もしているのだろう。

202411030320041-admin.jpgこの自然の造形に驚く。
薄氷が迫り出してクレープ状になっている。

202411030320042-admin.jpgこういうの、誰がつけるのだろう?
心霊現象とは、恐怖感が妄想を膨らませ、そして幻覚を引き起こすのかも知れない(霊感無し人間の戯言である)。

20241103032051-admin.jpg校舎と体育館の位置関係。
雪深い地域だが、こんな中でも元気に登校していたのだろう。

202411030320511-admin.jpg雪化粧はまた違う表情である。

202411030320513-admin.jpgこれが中央の螺旋階段。見事な造形だと思う。

202411030320516-admin.jpg冬は屋上が積雪のため、陽光が届かず消灯状態だ。

202411030320515-admin.jpg連絡通路への接続部分。2階のみシャッターが半開きで明るい。

202411030320514-admin.jpg
202411030320518-admin.jpg
202411030320517-admin.jpg一面結氷。もはや大理石のようだ。

2024110303205110-admin.jpg
202411030320519-admin.jpgアイスバブルはここでも見られる。自然の湖沼で見られるものに比べれば透明度は劣るかも知れないが。

202411030320512-admin.jpg


▼2019年5月

この間、市やボランティアで校舎内の落書きを消す活動が行われていたらしく、だいぶ綺麗になったと感じる。
なんだか只乗りさせてもらっているようで、申し訳なく思う(そもそも立ち入るべきではないのだが)。

春の訪問は初めてだ。陽気が心地よい。
円形の建物なら、魚眼レンズを使用すると面白いのではと思った。

2024110304154414-admin.jpg
2024110304154411-admin.jpg
2024110304154412-admin.jpg
2024110304154413-admin.jpg
202411030415441-admin.jpg
202411030415442-admin.jpg
20241103041544-admin.jpg浸水がちょっと怖いくらいだが、初めて来た時から高止まりしているように感じる。

202411030415443-admin.jpg
202411030415444-admin.jpg
202411030415447-admin.jpg
202411030415448-admin.jpg扇形の教室は、どのように撮ればそれらしく見えるのだろうか…
黒板が、窓際と廊下側の2面に設置されている。明るく見やすい方を選び机を配置したのだろう。

202411030415445-admin.jpg広角で教室の配置がわかる。3階(最上階)はやはり晴れだと明るい。

202411030415446-admin.jpg光の乱反射が美しい。

202411030415449-admin.jpg追い求めていた理想の光。
特に関係者でもないのだが、改めて、ここへの思い入れが深いことに気づいた。

今後は滅多に行くことはないと思うが…

2024110304154410-admin.jpg
階段に虹彩が落ちていた。

再利用などがなされなかったのは立地的な問題もあるのだろうが、廃校遺産としてこのままでも末永く残ることを願う。
畳む


#廃 #古建築 #炭鉱

道央,美唄

炭鉱メモリアル森林公園(旧三菱美唄炭鉱跡)

炭鉱メモリアル森林公園(旧三菱美唄炭鉱跡)

2024102801314211-admin.jpg
炭鉱遺産に興味を持ち、初めて訪れた場所がこちらの炭鉱メモリアル森林公園である。
元々は三菱美唄炭鉱の跡地で、1対2基の立坑櫓と、それらを操作する開閉所、原炭ポケット、そして封鎖された通洞坑が残されている。これらは炭鉱閉山後に美唄市へ譲渡され、遺産として公園整備されて残っている。施設群は外観のみだが自由に訪れ見学することが出来る。

あくまで森林公園なので、季節によって見やすさは変わる。今まで春、夏、秋と探訪したが、原炭ポケットや坑口などは夏は草木に埋もれて全景を見れないこともある。そんな状態でも自然に還る廃墟美的な魅力があるが、遺産として見物するならやはり春か秋だろう。


▼2009年6月

20241028011236-admin.jpg初探訪。市街地からはかなり離れた山間部の森林地帯になる。空知地方の炭山は内陸部のため、閉山し街も消えれば元の深山に戻る。
奥に見えるのは原炭ポケット。三井美唄二坑>>45のものに比べて形も異なれば規模も大きい。

202410280112361-admin.jpg横に目をやれば2つの赤い櫓が見える。
芝刈りの跡が見られるので、最低限公園としての整備はされている。

202410280112362-admin.jpg当時は公園の案内図があった。こちらは現存しない看板だ。

202410280112363-admin.jpg
202410280112364-admin.jpgビルのような大きさの原炭ポケット。北海道に現存するものでは最大級のものだそうだ。
この規模の建造物が草木に埋もれているのもまた圧巻ではある。

202410280112365-admin.jpg
202410280112368-admin.jpg
2024102801123612-admin.jpg立坑櫓の横にある開閉所の建物。電気系統を制御、操作する場所だったが、設備は撤去され内部は空の状態である。普段は立ち入ることは出来ない。

202410280112366-admin.jpgすぐ横に設置してある看板。

202410280112367-admin.jpg炭鉱現役時の写真が掲載されている。
原炭ポケット、三菱のスリーダイヤの建物、当時の炭鉱駅だった常盤台駅など。右写真にはかろうじて立坑櫓らしき姿も見える。張り巡らされたベルトコンベアの建物など、この山間部がこんなに開けていたのかと只々驚く。

2024102801123611-admin.jpg立坑櫓から道なりに奥へ進むと、コンクリ製の物体が木々の間から覗く。

202410280112369-admin.jpg
2024102801123610-admin.jpg2連の坑口「通洞坑」である。左側には三菱のスリーダイヤが掲げられている。


▼2011年6月

202410280125247-admin.jpg何故かまた6月に来ていたらしい。

20241028012524-admin.jpg立坑はそれぞれ上風坑、下風坑と呼ばれていた。人員の出入りと排気は上風坑から行われていたらしい。入気は下風坑からか。
櫓は操業当時は緑色だったようだが、新築当時は赤色だったため元の色に戻し塗り替えたらしい。森の中では不自然なほどだが、それくらいの色でなければこの場所の存在をアピール出来ないかもしれない。

202410280125241-admin.jpg
202410280125242-admin.jpg
202410280125243-admin.jpg原炭ポケットは、以前よりも更に緑に埋もれているように感じた。


▼2019年5月

202410280131422-admin.jpg春に来たのは初めてだ。晴れていたこともあって青い空に櫓の朱が映える。見通しも良い。

2024102801314212-admin.jpg市で建てられた新しい看板。実は2011年時点で既に掲げられていた。写真も交えてわかりやすくなっている。

202410280131424-admin.jpg原炭ポケットの足元が見えている。石垣のようなものもあったとは知らなかった。

202410280131423-admin.jpg公園内には桜の木もあったのだ。咲いているのを見て初めて知った。

202410280131425-admin.jpg写真下に上部分しか写っていないが、立坑櫓のふもとには安田侃作品の黒い『妙夢』(札幌駅にある白い彫刻と同型)が設置されており、より公園らしくなっていた。

202410280131428-admin.jpg
202410280131426-admin.jpg
202410280131427-admin.jpg春の日差しを浴びて気高く立ち続ける。滑車(ヘッドシーブ)部分もよく見える。

202410280131429-admin.jpg
2024102801314210-admin.jpgこぶしの花も咲いていた。意外と花の名所なのかも知れない。

20241028013142-admin.jpg
202410280131421-admin.jpg通洞坑も全体がはっきりと見えた。三菱マークも健在だ。
畳む


#公園 #花 #廃 #古建築 #炭鉱

道央,美唄

旧美唄市立栄小学校(アルテピアッツァ美唄)

旧美唄市立栄小学校(アルテピアッツァ美唄)

202410252333251-admin.jpg
アルテピアッツァ美唄は先に述べた通り>>43、廃校となった旧栄小学校校舎と体育館を再利用の形で開設された美術館である。
当記事では屋内のギャラリーやアートスペースと共に、旧校舎の建物としての視点でも見ていくが、2009年時点の撮影のため、建物や展示作品に変化があるかもしれないことをお断りしておく。

大まかに栄小学校の来歴を記す。
旧栄小学校の創立は1946年(昭和21)、盤の沢国民学校の開校に端を発し、翌々年には中学校を併置しのちに分離、別に小学校を設けて児童を分けたが、その後も人口増加に伴い児童数は増え続け、1959年(昭和34)には1,250名を数えた。主に三菱炭鉱従業員の師弟が多く通学していた。しかし程なく三菱の人員削減により児童数は激減し、炭鉱の閉山を経て1981年(昭和56)に閉校となった。
※拙著『北の炭山の骸』 「旧栄小学校」より抜粋。

20241025233258-admin.jpgおなじみの彫刻作品と、校舎遠景。

202410252332581-admin.jpg旧体育館棟。

2024102523325810-admin.jpg体育館棟アートスペース入口前の作品。

202410252332582-admin.jpg体育館の窓から望む水の広場と木造校舎。

202410252332583-admin.jpg設置してあるストーブと、展示作品。静謐な空間が広がる。

202410252332584-admin.jpg
202410252332585-admin.jpg大理石のユニークな作品群。創造も想像も無限大だ。

202410252332587-admin.jpg改築や増築した部分もあるかと思われるが、元々の造形を最大限に活用している。
螺旋階段を上がった先は、安田侃作品の展示風景写真のギャラリーや書籍、DVDが視聴できるスペースとなっている。

202410252332588-admin.jpg注目は、この天井だろう。円形を連ねたトラスと言って良いのか、とても特徴的な造りが目を引く。
炭鉱町の学校は、景気の良かった時代に建てられたというのもあり中々に洒落ていたり先進的・個性的な造りが多い。

202410252332586-admin.jpg格天井のようだ。

202410252332589-admin.jpg螺旋階段上から。こうして見てみるとさほど広くはなさそうだが、作品と対峙すると広い空間に取り残されているように感じる不思議。

2024102523325812-admin.jpg
2024102523325811-admin.jpg旧校舎棟のギャラリーへ。
入口は外の螺旋階段を上った2階になる。

2024102523325813-admin.jpg梁が剥き出しになった木造の空間に、絶妙なバランスで配置された彫刻が調和する。

2024102523325814-admin.jpg窓から覗く水の広場。前記事では夏だったが、この時は秋に再訪している。

20241025233325-admin.jpg廊下にも展示されている作品。かつての校舎の雰囲気も保ちつつの配置がとても好感が持てる。
このパックンフラワーのような、植物の芽生えのような作品が妙に好きだ。秘めた生命力を感じる。

202410252333251-admin.jpg真っ直ぐに伸びる廊下はノスタルジー。薄れつつも残るセンターラインは学校だったことを物語る。

202410252333252-admin.jpg窓際にひっそりと佇むイトトンボ。冬の訪れから身を潜めているのだろうか。

筆者の学校時代は近隣には既に木造校舎は見られなかったため、レトロ感もあるが逆に新鮮でもあった。ここに数多くの児童が居たのだと思えば相当に賑やかだったのだろう。
そんな歴史を持ちながらも忘れ去られようとしていた場所が今や人々の憩いの場として再生の道を歩むのはとても理想的な形だと思う。
歴史的遺産として見学するのも面白いかもしれない。
畳む


#古建築 #文化施設 #炭鉱

道央,美唄