全年全月27日の投稿[3件]
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旧三井美唄炭鉱 第二坑選炭場跡
旧三井美唄炭鉱 第二坑選炭場跡
アルテピアッツァ美唄>>43から東へ進むと、盤の沢という地区があり、その道沿いに漏斗型の塔が姿を見せる。2009年に美唄方面に来たのは、炭鉱関係の遺構が目的だったため、これも炭鉱時代のものだということは把握していた。
三井美唄炭鉱第二坑の選炭場跡である。選炭とは、掘り出してきた石炭をクズ石(これをズリという・九州地方ではボタ)と選り分け、そこから更に塊炭や粉炭に分けられ、出荷出来る品質までふるい分ける行程のことである。この漏斗型は原炭ポケットとされ、掘り出した石炭を貯めておく施設で、原炭はそこから付属の選炭機にかけられ選炭された。
三井美唄炭鉱は南美唄に拠点があったが、二坑の経歴については下の通り。
ここ盤の沢の炭鉱は、徳田与三郎が1913年(大正2)に開鉱した徳田炭鉱が始まりである。その後、新美唄炭鉱と改称、1941年(昭和16)に三井が買収、南美唄に事業を展開していた三井美唄炭鉱と合併し、南美唄の炭鉱は「一坑」、盤の沢の炭鉱は「二坑」と称された(注:「1坑」「2坑」とアラビア数字表記の資料もある)。出炭量は増加したが、全国的な熱エネルギーの拡張などで重油の輸入が増加、石炭需要が落ち込んだため三井が企業合理化案を打ち立て、第二坑を個人に租鉱稼働させたものの、1967年(昭和42)に租鉱権期間の満了によりそのまま閉山となった。
※拙著『北の炭山の骸』 「三井美唄炭鉱 第二坑」より抜粋。
▼2009年6月
上の写真とともに、この時初めて見た二坑の原炭ポケット。この形は三井炭鉱のものによく見られ、芦別でも同型のものが見られる。
▼2009年11月
秋に訪れてみると、周りの草木が枯れて足元と隣接する選炭機の姿まで捉えることが出来た。漏斗の吐出口の辺りまで確認出来る。これは気になる。が、その後も通りがかる度に遠くから眺めるだけになっていた。
▼2019年5月
同好の士との探索ツアーでこちらを案内していただき、実に10年越しで拝見することが出来た。
あなたの知らない美唄ツアー2019(『北の細道』 様)
北海道ではようやく春、若葉がぽつぽつと顔を出し始めた頃なのでまだ見通しがいい。このアングルまで近づけただけで胸が躍る。

この様になっていたのかと、納得した。
閉山してから50年超、積雪や融雪を繰り返した影響か、鉄筋が剥き出しになってしまっているが、歴史を感じる。
緑の装身具を纏っているように見えて、美麗だ。
奥にある遺構。選炭機を配していたものだろうか。


選炭施設の、工場の中になるのだろうか。人が通るには狭いコンクリートジャングルを進む。
大きく開いた窓(廃業後に人為的に開けられたものかも知れない)から、道路沿いから見えた施設がこちらだろうか。選炭施設の中にも漏斗(ホッパー)がある。選炭方法には幾つかの方法があり、時代によってその方法は遷移していったらしい。
選別の方法には、石炭とそれ以外の石のそれぞれの比重を利用して液体中での浮沈により選別する「重液選別」、石炭の微粒子を気泡に付着させ水面に浮かせ、不要物を沈殿させる「浮遊選別」等があり、この施設でも利用されていたようだ。
※拙著『北の炭山の骸』「三井美唄炭鉱 第二坑」より抜粋。
炭鉱の技術的なことに関しては多々ご教授いただいたり、資料を参考にさせていただいた。稚拙な部分についてはご容赦いただきたい。
吐出口には色々種類がある。技術に詳しくなくとも、こういった違いが見られたりするのは興味深い。
元々廃墟美を追い求めるつもりで炭鉱跡に注目していたのだが、炭鉱がどういう歴史を持ちどういうシステムで稼働していたのか、という点も意識すると次第に視界は開けていく。
前ブログでは炭鉱遺産を巡っていた中途の2015年で更新を停止していたが、ここではそれ以降に巡ったものについても徐々に更新していきたいと思う。
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#廃 #炭鉱
2024年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
函館・元町方面と坂さんぽ
函館・元町方面と坂さんぽ
小樽、室蘭、そして函館など、坂の街に対する憧れがある。
生まれ育ちが平地の街だからというのもあるが、立体的に展開する街並みに人の活動や暮らしの息吹をより近く感じるような気がする。この斜面をよく拓いたな、という驚嘆もある。
しかしそんな感慨は、平地の少ない土地に産業が出来、そこに人が集まればそうせざるを得なかったという事情が土台にあって成立する。特にそう古くない時代に安住の地や新天地をもとめて流れ着いた人々の多い北国の歴史上、そのような性質が色濃い。
坂の街の暮らしの実際は、やはり行き来に大変骨が折れ、特にクルマを持たない世帯や高齢者、また冬期の積雪や凍結ともなれば危険を伴う。筆者の親戚が室蘭の坂の街住まいなのだが、以前そのようなことを漏らしていたのを聞いた。
憧れというものは所詮無いものねだりではあるのだが、それを承知でもやはり視界に立ちはだかったり、眼下に広がる街並みの景色には惹かれてしまう。
函館はその地形から港湾都市や要塞都市として開かれたが、そんな歴史要素が色濃い元町周辺は、傾斜を利用した景観が言うまでもなく美しい。
▼2009年5月
小さい写真は、おそらくコンデジの電池切れで苦し紛れにケータイ(当時はスマホではない)で撮影したものだろう(掲載は撮影順ではない)。
函館の街をちゃんと見て歩いたのはこれが最初だったが、電池切れになるまで歩き回ったということは楽しいものであったのだろう。自分ごとではあるのだが、とても何よりである。
元町公園から眺める旧函館区公会堂。バックに函館山。
公会堂のバルコニーから望む街と港。入館料必要。筆者は利用していないが貸衣装で撮影も出来る。内部も見学したが生憎写真が残っていない。
前日の夜に訪れていた。ライトアップがされており色合いも把握出来た。パステル調だが洋館らしい大胆な配色。最近補修されたらしく、この当時より色が濃い目になった感じがする。

明治40年の大火で区民の集会所も焼失したため、地元の豪商相馬氏が大金を寄付し、1910年(明治43)に建てられた。豪奢で装飾のディテールも細かい。このすぐそばに旧相馬家住宅も残されている。
基坂は元町公園正面から延びる坂。里数を測るための里程元標が立ったことからこの名がついた。ここから東に進み、坂を見ていく。


「チャチャ」はアイヌ語で老爺の意味。おじいさんのように体を曲げて登るような急坂からついた名。左側に見えるのは聖ヨハネ教会。

日本最古のコンクリート電柱。四角柱(四角錐?)の珍しい電柱。1923年(大正12)建築。

おなじみハセスト。やきとり弁当は有名だけど、クルマで来てしまうと食べるための駐車場所に悩むのでなかなか手を出せない。
新島襄の銅像。ここから小舟を漕ぎ出してアメリカの商船に乗り込み、密出国に成功しのちに同志社大学の創始者となった。
鎖国の時代に外の世界に関心を持って飛び出した偉人は多い。
旧函館どつく。この赤白のクレーンは「ゴライアスクレーン」といい、この翌月に撤去されてしまったらしい。
▼2019年5月
市立函館博物館で見たかった展示が開催されていたため訪れた。ちなみに展示は『描かれたアイヌ』。和人の手により描かれてきたアイヌ民族を主題にした絵画作品の展示であった。せっかくここまで来たので、久々に街歩きと決め込んだ。
初めて訪れた函館公園。「こどものくに」の日本最古の観覧車は小ぶりで可愛いかった。とても懐かしさを感じる遊園地で、多くの子供連れで賑わっていた。
護国神社坂。背後に神社と大鳥居がある。
二十間坂。この先に五島軒本店、更に行くと左手側に最古のコンクリート電柱がある。
市電通り。企業の建物だが、素敵なレトロ感。
もう一つの目的は、北方民族資料館だった。旧日本銀行函館支店の建物を利用した北方民族関連の展示施設だが見応えは凄い。児玉コレクションには思うところはあるが…
蝦夷錦の実物が見れたのは個人的に嬉しかった。写真はロビーで歓迎してくれるコロポックル。
元町公園横の坂。元町周辺にとって函館山はランドマークである。
洒落たカラフルさが目に楽しい家屋。
函館の坂でもっとも有名であろう場所。八幡坂の天辺から。「チャーミーグリーン」と言って分かってくれる方も少なくなってきただろうか。
海の見える坂の風景は、やはりなんとも言えない風情がある。
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#公園 #古建築 #文化施設
旧炭山川橋梁とディーゼル機関車
旧炭山川橋梁とディーゼル機関車西芦別からR452を南下すると、右手に橋梁上の機関車が見えてくる。物珍しさに注目してしまうが、こちらも炭鉱遺産の一つである。
旧三井芦別鉄道の鉄橋、炭山川橋梁と、炭鉱の操業当時に実際に走っていたディーゼル機関車と石炭貨車である。
この橋梁は国の登録有形文化財に登録されており、「炭鉄港」の構成文化財として指定もされている(橋上の機関車と貨車は除く)。
▼2009年7月
現地には特に説明看板もなく、当時は地元または炭鉱関係の人が知っている程度だったかもしれない。
逆側の道道115は通行止めで立ち入ることが出来なかったが、現在は見学場所が整備されているのでそちらから見学するのが一般的だと思う。
▼2016年7月
しかしこの日は晴れだったため、緑の山に映える機関車の姿を捉えることが出来た。
ちなみにこの地点、国道の炭山川橋から逆の方向を見ると頼城橋>>77を望むことが出来る。
▼2017年3月
石炭貨車も見えたが一両自体が小さい。これを何両も連結してこの橋を渡っていたのだと思うと、今にも動き出しそうなリアル感もある。
旧三井芦別鉄道は三井芦別炭鉱の開坑と同時に着工し、1940年(昭和15)に開業した炭鉱の専用鉄道である。終戦前年の国からの緊急増産令により、頼城に第2坑を開坑させるため路線を延長したが、完成は1945年(昭和20)の終戦後となった。芦別駅〜頼城町までの全線全長9km程度の炭鉱鉄道だった。4年後には旅客輸送も開始、ディーゼル機関車の導入は1964年(昭和39)になる。1989年(平成元)の鉄道廃止まで地域の交通も担った。
廃止後は橋梁と機関車は市に寄贈、2009年(平成21)には橋梁が国の登録有形文化財に登録されている。
2019年(令和元)、文化庁の日本遺産「炭鉄港」の構成文化財に指定された。
現在は道道沿いに展望広場が整備されている。冬期は完全通行止めとなり、広場にも行けないようなので注意されたい。
また、橋上からの見学の場合は、橋の手前に新たに設けられた駐車帯を利用してほしいとのこと(橋上での駐停車は避けるべし)。
「旧三井芦別鉄道炭山川橋梁」展望広場までの道道の通行について(星の降る里あしべつ)
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#炭鉱 #古建築 #橋梁 #鉄道