2025年9月の投稿(時系列順)[3件]
2025年9月1日 この範囲を新しい順で読む この範囲をファイルに出力する
2025年9月2日 この範囲を新しい順で読む この範囲をファイルに出力する
旧東明駅舎と4110形機関車
旧東明駅舎と4110形機関車
美唄市街地からアルテピアッツァ>>43>>44へ向かう途中に、旧三菱鉱業美唄鉄道の「東明駅」の駅舎が残されている。
そしてこの駅舎と一緒に、炭鉱時代に活躍した「4110形式十輪連結タンク機関車2号」が保存されている。
機関車は美唄市の指定文化財となっており、近年では駅舎と共に「炭鉄港」の構成文化財に指定されている。
ここに挙げた写真は2009年と2019年のものである。
その後、これらの保全のためのクラウドファンディングも行われ、更に見学しやすく綺麗に整備されたようだ(筆者も寄附しているのだが、その後訪れる機会がなく成果を確認出来ずに年月を経てしまっている)。
▼2009年7月
この年の前月にアルテピアッツァや炭鉱メモリアル森林公園>>46等に向かう時に通った道だったのだが、その時は気づかず通り過ぎていた。後で知って>>80の帰り道に寄ってみた。まったく古びていない、この時から綺麗に保たれていた駅舎。当時は個人的に廃墟趣味の方が強くあったため、本音を言えば綺麗すぎて物足りない感があった。
それからかなり年月が経ち、炭鉱遺産の機運が盛り上がって今も変わらず残されているのを見ると、これは素晴らしいことだったのだと考え直さざるを得ない。
裏手のホーム側。駅だった面影がはっきりとある。駅舎の内部には入れなかったが、見た限りは劣化もなく塗装も定期的にされていたのか、汚れも見当たらなかった。花壇もあり、ちょうど花も咲いていたのが人の手が入っている証拠だ。
傍らには蒸気機関車が展示されている。こちらも見る限り綺麗だ。
説明板はかなり年季が入っていた。美唄鉄道の勾配路線と、大量の石炭の運搬に耐えるための力強い十輪「E型」機関車で、当時は多く作られたが現在はここでしか見られないものだそうだ。
三菱造船がドイツの4100形を基に製造、閉山までの50年超を走り続けた機関車である。
かつての路線は、サイクリングロードとなり、傍らにはプラットホームの跡も残っている。▼2019年5月
その間も駅舎前の道はしばしば通っており、駅舎の姿は目にしていたのだが、10年経って再訪。間近で見ても変わらず綺麗だ。この時も駅舎内の入口は固く閉ざされた状態だったが。
窓も目隠しされているので、内部を窺うことは出来ない。
機関車も変わらず綺麗。2号車の「2」が眩しい。ただそれなりに傷みはあったようで、このあとクラファンが行われている。
あの説明板はさすがに新調されていた。横書きで見やすくなった。機関車の仕様など、詳しい人には興味深いだろうと思う。
三菱鉱業美唄鉄道は、元々は石狩石炭株式会社が敷設した軽便鉄道が始まりであった。
三菱美唄炭鉱の始まりは、鉱区の所有者黒柳氏と、同地に進出した石狩石炭の間に係争が起こったことに遡る。黒柳側が勝訴したものの、弁護士飯田氏への報酬支払が滞ったため、鉱区の所有は飯田に移り、飯田美唄炭鉱として1913年(大正2)に操業を始めた。敗訴側の石狩石炭は鉄道を敷設し、飯田に譲渡したことで炭鉱経営が進んだが、資金調達のため販売権を委ねていた三菱に買収され、1915年(大正4)に三菱美唄炭鉱、及び三菱美唄鉄道となった。前年に第一次世界大戦が開戦したこともあり、その三菱が景気需要に乗る思惑もあったとされる。
こちらの注意看板は錆びついたまま放置されている。サイクリングロードは、我路キャンプ場の方まで伸びているようだが、途中道が荒れ通行止めになっているため通行する人はほぼ居ないと思われる。
荒れた道とプラットホーム跡、自転車専用道路の標識が物悲しさを誘う。鉄道の路線跡は、サイクリングロード跡にもなりつつある。
現在、駅舎は炭鉄港の催しの一環で定期的に内部公開が行われているらしい。
東明駅舎一般公開・2号機関車の見学サポート(美唄市)
畳む
#炭鉱 #鉄道 #古建築
2025年9月3日 この範囲を新しい順で読む この範囲をファイルに出力する
旧落合会館(栄町映画劇場)
旧落合会館(栄町映画劇場)
旧東明駅舎>>82やアルテピアッツァ美唄>>43>>44からほど遠くない場所に、若干派手目な色合いの建物がある。
こちらも、炭鉱時代の映画館だった場所である。
通称「落合会館」といい、落合町にあるためそう呼ばれていたようだ。
このアングルしか撮っていないため分かりづらいが、奥行きがそこそこあり、定員800人を収容できたといわれている(※後述参照)。
2009年に撮影したが、この当時から民間企業の所有となっており、現在も敷地内は立入禁止となっている。
外観のみ拝見させてもらった。
外壁の配色もなかなかのものだが、この前衛アート的なデザインにも注目だ。外壁も色褪せているため全体像がどうだったのか、いつ頃描かれたものかは不明だが、昭和の景気の良かった時代なら割と自由度も高く、飛び抜けたものも多かったのかもしれない。
この旧落合会館は、消えた映画館の記憶 美唄市の項 によると、栄町映画劇場/栄町会館 とあるのがそれと思われる。
開館が1960年頃で、1961年の名簿では三菱鉱業の経営だったらしく、定員は500とある。上で800人と書いたが、これも筆者が探訪当時に伝え聞いていた情報で、今となっては出所が何処だったかはわからない。当時参考にさせてもらったサイトの多くは閉鎖となり、確認のしようがない。口伝からだとしたなら尾鰭もつきそうなのでまあ、あるある案件だろう。
閉館は1965年頃とあり、この頃にはあの我路映劇>>49に経営が移っている。この年(昭和40)は三菱美唄炭鉱が三菱鉱業から分社して美唄炭礦株式会社の経営に変わった年である。炭鉱の衰退と共に閉館となり、4〜5年程度の営業だったようだ。
畳む
#炭鉱 #廃 #古建築 #文化施設
新宝来軒 ガタタンラーメン
新宝来軒 ガタタンラーメン>>80で上芦別のことに触れ、文末に「再訪していない」と書いたが、2017年に食事だけのために上芦別町に来ていたことを思い出したのでこの際記事にする。
この頃は同じく炭鉱関係探索の同士と行動することが多かったため、近郊まで足を運んだ際に新宝来軒に立ち寄った。
一人行動だと食事は無頓着になりがちのため食事処を開拓しづらいのだが、詳しい人と一緒に行動すると名店を知ることが出来るのはメリットだと思う。
芦別といえばガタタン。とろみのある中華系スープをチャーハンやラーメンなどに和えた、炭鉱町の郷土料理である。漢字では「含多湯」と書き、旧満州から芦別に引き揚げた村井豊後之亮氏が余った食材で作った中華料理店のまかない料理が評判を呼び、提供したのが始まりだそうだ。
こちら新宝来軒では、ガタタンメニューだとスープ、ラーメン、チャーハン、焼きそばを提供している。
上の写真の手前は筆者が注文したガタタンラーメン。奥は同行者が注文した炭鉱メニュー、ブラックダイヤモンドだ。そちらもガタタンラーメンなのだが、醤油ベースに背脂、ニンニクなどが入ったスタミナ系メニュー。名の通り、石炭をイメージした黒い白玉団子も入っている。
2017年当時は器が普通のラーメンどんぶりだったが、今は木の器になっているようだ。
塩味ベースであっさりめ、エビやイカなどの海鮮と豚肉、野菜と、こちらにも白玉が入る、この店のオリジナルメニューだそうだ。餡がスープの役割も果たしており、最後まですべて食べられる。玉子縮れ麺に安心感を覚えるのは好みといえばそうなのだろうけど、北海道民には多いのではないだろうか。
この時は1月だったため、冷えた体にちょうどいいメニューだった。個人的には好みの味だ。
他のスタンダードなラーメンに比べやはり値段はお高めだが、満足感は得られる。
土日と平日で注文できるメニューが異なるそうなので、目当てのものがある場合は訪れる際要チェック。
畳む
#飲食 #炭鉱