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スイーツから廃墟まで。北の国からお送りする日常ゆるゆる探検。2009年から始めた前ブログの記事を再編、移植しています


2025年8月24日の投稿(時系列順)1件]

頼城橋(廃橋)

頼城橋(廃橋)

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西芦別と東頼城地区を結ぶ橋。初訪は2009年、地図を頼りに炭鉱町の名残を求めて、見つけたのがこの古い人道橋だった。もう住む人も少ないであろうかつての炭住区から、川の方へ下る道を歩くと辿り着く。

三井芦別炭鉱が、社有地だった西芦別と東頼城を繋ぐために1943年(昭和18)に架けた木造橋だったが、その後芦別川の氾濫のために2度流され、1967年(昭和42)に今の形に架け替えられた。戦時中は近辺に朝鮮人労務者の宿舎もあり、終戦直後に橋近くで乱闘が起こるなど時代の激変を見つめた橋でもあった。2022年頃には老朽化のため床板が剥がされ、現在では両岸の渡口が封鎖され廃橋となっている。
地区の人口が激減し、車両が通行出来ないこの橋の需要がほぼ無くなったということだろう。

炭鉱操業時や戦争、災害などの歴史の遺産が、またひとつ消えようとしている。


▼2009年7月

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202508240200331-admin.jpg西芦別側の橋に近いエリアの炭住はおそらくこの時にはほぼ空き家だったと思われるが、菜園の手入れがされている場所もあった。

2025082402003316-admin.jpg平成17年、2005年から車両通行止めということは、それ以前は車も通行出来たということだろうか。だとしたら、その頃から老朽化が懸念されていたということなのだろう。補修工事も視野に入れていたのだろうか。

202508240200332-admin.jpg夏場の草木でこんもりした遊歩道のような道を下っていく。

2025082402003314-admin.jpg川向うの東頼城地区を望む。小雨の霧模様は物寂しさを際立たせる。

2025082402003315-admin.jpg石が並ぶ法面。デザイン的に味わい深い。

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202508240200334-admin.jpg消火栓や外灯がある。この辺りにも民家があったことの名残かもしれない。

202508240200335-admin.jpg川の増水注意の看板。「危ない!!」ではなく「危い!!」なのは、限られた文字スペースで効率的に危険を知らせるため、あるいは「な」の曲線的な描写に限界があるという理由もあるようだが、このような看板の場合は幼年・若年層にも向けてより直感的に注意を促す目的があるのだろう。

202508240200336-admin.jpg渡口に到着。車止めがある歩行者・自転車専用の橋だ。

202508240200337-admin.jpg幅は車がギリギリ通れる程度はあるが、床板の補強がかつては車両も通行出来たものなのかもしれない。

202508240200338-admin.jpg小雨だったが川の流れが速い。氾濫が度々起こったというのも納得してしまう。

202508240200339-admin.jpg欄干の錆も年月を思わせる。橋脚の形に合わせた退避スペースがある。

2025082402003313-admin.jpg一番外側の木材の腐食が激しい。むやみに近づけない。

2025082402003311-admin.jpg進んだ場所には橋脚をそのまま利用した待避所もある。

2025082402003310-admin.jpg下を見ると、何やら大きなコンクリートの塊が水没している。形状的にこの待避所兼橋脚のようだ。
新築されてから2度、うち昭和40年代に氾濫のため橋脚が流される事故があり、昭和42年に架け直されて今の形になったとある。撤去処分するにも費用がかかるためそのまま放置されたのだろう。

2025082402003312-admin.jpg対岸、東頼城へ渡りきったところ。普通に歩いて渡る分には問題なかったが、川が増水しているせいか多少のスリルと不安感もあった。


▼2016年7月

20250824145858-admin.jpg7年ほど経って傍を通りがかったため、国道の炭山川橋上から眺めてみた。中央が頼城橋である。

初訪と同じく7月だったが、こんなに森林然とした場所に架かっていたのかと驚く。芦別川の姿がそもそも見えない。


▼2017年3月

202508241504282-admin.jpg翌年、まだ雪深い時期だった。連なる山の向こうに芦別岳、更に遥か向こうには200名山の一つ夕張岳がある。

202508241504281-admin.jpg中央左上が頼城橋だが、こうしてみると他にも小ぶりの橋や橋脚らしきものがいくつかある。手前の小川は芦別川の支流、炭山川である。

20250824150428-admin.jpg頼城橋。この頃既に通行止めのバリケードが設置されており、除雪もされていない状態だった。


▼2017年4月

202508241527021-admin.jpg翌月、春めいてきた時期に再訪した。ひと月しか経っていないが雪は消えており、草花が芽吹いてきた。適度に暖かくまだ木々の見通しが良い最適の時期だった。

石の法面が美しい。

202508241527022-admin.jpg初訪時に見た赤い消火栓。その手前に黒いのもあったとはわからなかった。北海道では消火栓の色は大別して黄色と赤があるが、赤いのは豪雪地で目立つようにとのことらしい。しかし黒いのはよくわからない。元々黄色かったのを黒く塗っているように見え、消火栓の看板も赤い方だけにあるので、黒いのは廃止の意味なのだろうか。

2025082415270218-admin.jpg健在の危い看板。こちらも変わっていなさそうだ。

2025082415270221-admin.jpg渡口に着いた。やはりあれから10年近く、傷みが激しいのがここからでもわかる。

2025082415270220-admin.jpg近くで見るとかなりのものだ。寒暖の差と積雪もあり、劣化も速い。木材部分は自然に還っていくのだろう。

2025082415270219-admin.jpgトラスの鉄筋部分が見えてしまっている。さすがにもうこれだけで渡る気分にはなれない。

202508241527023-admin.jpg木々が生い茂る前なので、川辺に降りることが出来た。ここから眺める橋も味わいがある。

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202508241527024-admin.jpg下部のトラス部分に銘板があった。1967の年号がうっすら確認出来る。もっと遠景で撮ったのだが写真を見て初めて気づいた。わかっていればこちらをメインにズームで撮影していた。文字を確認したかったのだが残念である。

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2025082415270212-admin.jpg退避部分。橋脚から浮いて設置されており、張り出し部分の床に鉄筋が入っていない。これは危険だった。

2025082415270215-admin.jpg鉄骨に木材を並べて床が作られていたようだ。

2025082415270210-admin.jpg放置された橋脚があった。

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202508241527027-admin.jpg隣にももう1体、橋脚らしき構造物がある。これらは放棄されて50年ほど経つ。建造物としてはそれ以上だが。

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後に調べてみると、今の橋に架け替えられる前の終戦時のことだが、この周辺で三井芦別炭鉱に徴用されていた朝鮮人労働者と中国人労働者の間で乱闘騒ぎが起こり、双方に各1名の死者を出していることがわかった。直接の原因は朝鮮人慰安所に中国人が入店したことだったが、先に徴用されていた朝鮮人と後になって徴用された中国人の間に給与や待遇による格差があり、日頃の鬱憤が溜まり爆発したと見られる。

戦局が悪化し、人員も不足していたため労働者確保で連合国軍捕虜も徴用したが、捕虜の待遇の悪化や、特に中国人に関しては労働以前に連行時の船中環境の劣悪さで命を落とす人が多かったといわれる。

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202508241629281-admin.jpgどこからかキツネがやってきた。人の歴史や営みの傍らで変わらず命を繋いで生きている。

野生動物に触れることはご法度なので、遠くで見守った。こちらに寄ってくることもなく、そのまま立ち去っていった。

20250824152702-admin.jpg西芦別側の炭住の隅、ちょうど橋へ向かう道の傍らには地蔵が立っている。

2025082415270222-admin.jpg芦別川の氾濫時の犠牲者を弔うために立てられた。そのため川の方向を向いている。

傍らに何故かもう一つ地蔵の頭部が置かれていたが、これは以前に像の頭部のみが盗難に遭ったため新しく修復されたものの、のちに頭部が発見されたものだそうだ。
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#廃 #炭鉱 #古建築 #河川 #橋梁

道央,芦別