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	<title><![CDATA[ カテゴリ「メモ」に属する投稿［11件］ - れきそう 歴史創作ネタLog ]]></title>
	<link>https://yurutan.net/rekisou/</link>
	<description><![CDATA[ 江戸期の北方探検家で歴史創作。絵・漫画・設定・調べ物などゆるゆるっとな。 ]]></description>
	<language>ja</language>
	<copyright>Copyright 2026</copyright>
	<lastBuildDate>Mon, 06 Apr 2026 02:20:02 +0900</lastBuildDate>
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<item>
	<title><![CDATA[ ◆『間宮林蔵と村上貞助の研究　村上島之允「蝦夷島奇観」の謎の… ]]></title>
	<description><![CDATA[ <span class="decorationC" style="color:#0099cc;"><b class="decorationB">◆『間宮林蔵と村上貞助の研究　村上島之允「蝦夷島奇観」の謎の解明の試み（アイヌ絵図と偽書）』 &nbsp;吉原裕　自家版　令和6年</b></span><br />
<br />
これはなんだか凄い本に出会ってしまったような感じがします。<br />
<a href="https://yurutan.net/rekisou/?postid=45" class="postidlink">&gt;&gt;45</a>で『蝦夷島奇観』の東博本は本当に秦檍丸（村上島之允）の自筆なのかという疑問の発端がこの本だったのですが、巷に多数存在する蝦夷島奇観の写本を比較検証し、その中でも年記と筆写（模写）した者の出自が判明している信憑性に足る写本を軸とし、他の写本の各絵図や文章との差異から東博本を蝦夷島奇観の原本（秦自筆）とするには多くの矛盾があるとのことで、それらを取り上げ検証した研究書になります。<br />
<br />
蝦夷島奇観の写本はこの本で紹介されたものだけでも20以上あり、そのうちネット上で閲覧できるものも半数ほどあるため当方もそれらを確認しつつ読みました。最も信憑性のあるクナシリ陣営の御備頭だった氏家厚時の筆写本（「氏家本」）、クナシリ通詞第五郎所有本を底本とした某氏筆写本（「通詞本」）（これら2つは内容から同じ底本からの写本だと推測される）、そして松浦弘（武四郎）写本（これも松浦筆かの疑念がある模様）の3つ以外は著者が秦とあっても著者の名を騙ることはいくらでも出来るため、比較の俎上には上げられていません。<br />
<br />
そもそも素人感覚でも、写本というからにはオリジナルの原本を遺漏なく忠実に写し取った上、筆写した者の名を明記するべきだとは思うのですが、寛政12年（1800）序の東博本を原本と設定すると、通詞本や氏家本が筆写された安政年間（1850以降）までの50年間は信憑性に足る写本や版行本が存在しないこと、また東博本に忠実な情報量の写本が存在しないこと、東博本の筆跡と重文『東韃地方紀行』『北夷分界余話』（間宮林蔵口述／村上貞助編・文化7年（1810）成立）（秦檍丸は文化5年没）の筆跡が同じことなどから、寛政12年秦檍丸名義の序も疑わしく、東博本『蝦夷島奇観』は後世（明治期以降か）に著されたものという結論に至っています。<br />
<small class="decorationS">※尚、重文『東韃地方紀行』『北夷分界余話』についても同様に明治期以降に著されたものだという同著者の研究本もありますが、そちらも読み進めている途中です（2026.4.5現在）。<br />
</small><br />
個人的に重文の『東韃〜』『北夷〜』を初めて見た時は、クセの強い流麗な文字の印象が強く、村上貞助はこういう字を書くのか〜と脳内にインプットされていたため東博本蝦夷島奇観の書き文字を見て強い既視感を覚えたのは間違いじゃなかったのかとは思うものの、師弟（養父子）の関係性で書き文字も師匠（養父）に寄せなければならなかったのかと若干考えましたが…そのあたりは著者も冗談交じりに突っ込みを入れておられます。<br />
<br />
皆まで言うのはどうかと思いつつも（物語などの創作物ではなく研究書なので、ネタバレの概念は無いと思い備忘として記しておきたい）、では「原」蝦夷島奇観の著者は誰だったのか。様々な検証を経た結果、松前藩の関係者だったのではないか、成立年代も嘉永〜安政年間、通詞本が筆写された安政4年（1857）よりそう遠くない以前という推論を導き出しています。<br />
そして東博本の成立は明治期以降とのことですがこれが事実だとすれば、何者かが何らかの目的で蝦夷島奇観は秦檍丸が著したものという証左を捏造したということになるのでしょうか。<br />
<br />
たしかに、アイヌに対して和人化を勧める幕吏の立場で、消え行こうとする異文化を惜しんで著したものに「奇観」というエキセントリックさを彷彿とさせる表題を付けるだろうかという極々個人的な疑問も持っていたもので（注：現代人としての個人の感覚ですが）。<br />
<br />
研究書のため、素人でも分かりやすい本では決してありません。参考資料絵図の掲載（転載）は一切なく、全て文章での解説になります。<br />
思うに、権利関係というのもあるかもしれませんが、写真や絵図を要所のみ掲載することで、「切り取り」による際立った印象になりかねないため、可能なら俎上に上げた参考本（写本）の全体を各々見られたし、ということだと勝手に受け取っています。<br />
それでも一応読了はしましたが、比較要素や項目が多岐に亘る上全ての写本を文章含め解読出来ていない（自分の能力も足りない）ため、正直整理と理解はおそらく全てしきれていません。<br />
<br />
この本は、著者の一連の偽書関連研究の最終巻（最新巻）であり、またこの辺りの研究は他者の手も含めこれからも進んでいくのだろうと思いますので、もっともこれが真なのか、最終結論になるのかは素人には判断が出来かねるのですが、かなり興味を惹かれるものなので他の巻も入手あるいは閲覧出来たら遡って追ってみたいです（市販はされていないのとそれなりに高価／北海道内の主要図書館には収蔵）。<br />
<br />
インターネット上で閲覧できる史料が増えたということもあり、昔に比べこのような研究が比較的しやすくなってきたというのもあるのでしょう。<br />
<br />
<br />
いやー、それにしても、研究って進むものなのだなと感心すると同時に、今までの（自分の中の）常識が覆るかもしれない怖さも感じています。<br />
そういえば秦檍丸は他にも『陸奥州駅路図』や『東蝦夷地屏風』なども制作しているけれど、特に後者は没年の前年の成立のため、蝦夷島奇観も合わせるとすると相当に筆が速かったことになり…幕吏としての仕事の傍ら果たしてそれだけのものを著すことが可能だったのかという疑問も湧いてきます。<br />
<br />
これから村上島之允の紹介的な漫画を描こうと思っていた矢先だったので、タイミングがいいのか悪いのか。<br />
こうなるとこの謎の多い人物について徹底的に調べたくなってきました（出来るかは別として）。<br />
<br />
<br />
<a href="https://yurutan.net/rekisou/?tag=%e6%9d%91%e4%b8%8a%e5%b3%b6%e4%b9%8b%e5%85%81" class="taglink" title="村上島之允">#村上島之允</a> <a href="https://yurutan.net/rekisou/?tag=%e9%96%93%e5%ae%ae%e6%9e%97%e8%94%b5" class="taglink" title="間宮林蔵">#間宮林蔵</a> <a href="https://yurutan.net/rekisou/?tag=%e6%9d%91%e4%b8%8a%e8%b2%9e%e5%8a%a9" class="taglink" title="村上貞助">#村上貞助</a> <br />
 -- Posted by shinozakitakato 〔2361文字〕 No.46 ]]></description>
	<link>https://yurutan.net/rekisou/?postid=46</link>
	<guid>https://yurutan.net/rekisou/?postid=46</guid>
	<category>memo review</category>
	<pubDate>Sun, 05 Apr 2026 21:27:16 +0900</pubDate>
</item>
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<item>
	<title><![CDATA[ No.42 ]]></title>
	<description><![CDATA[ <img class="embeddedimage " width="1000" height="1000" src="https://yurutan.net/rekisou/images/20260120032208-admin.jpg" alt="20260120032208-admin.jpg"><br />
「ゆるたん。」ブログの方で<a class="url labeledlink" href="https://yurutan.net/yurutan/?postid=93">以前の樽前登山</a> を記事化するにあたって、軽く樽前山のことをおさらい（地元の山なので調査というよりは）しようとWikipediaを見ていたら、アイヌ語由来で秦檍丸の『東蝦夷地屏風』が出てきておお？となったのでメモっておきます。思わぬところで出てきた島之允先生。<br />
<br />
とはいえこの東蝦夷地屏風の実物、実は以前見ているんですよね…2019年に北海道博物館で催されていた、「アイヌ語地名と北海道」で展示されていました。<br />
趣味ドンピシャな展示だったもので、伊能図から近藤重蔵、今井八九郎などの地図や山田秀三の調査資料等々、それはそれは佳い展示でした。前期後期共に足を運んだくらいにはハマりまして。その中に秦の例の屏風も展示されており、これは北海道特に道南〜道東に馴染みのある方には興味深いものだと思います。<br />
<br />
しかし観客の視線は主に伊能図の方に集まり、私は秦の屏風の方に熱視線を注いでいたという。いや伊能図も綺麗で良かったですよ。しかしこの屏風は実質秦の最後の大仕事の一つで、没年の前年に完成させたものらしく。49歳で亡くなったというのもなんだか胸に迫るのです。<br />
<br />
それほどまでに観ていたにもかかわらず、地元の周辺の山々の部分は見落としたのか、別件のWikipediaで再発見のような形になってしまったのは、記憶力の衰退かな…<br />
<br />
インターネットは偉大ですね、検索するとすぐ出てきて、しかも全6曲8隻が拡大付きで見られるなんて。<br />
<br />
<a class="url labeledlink" href="https://archives.c.fun.ac.jp/scrollframes/be000001">東蝦夷地屏風</a> （函館市中央図書館デジタル資料館）<br />
<br />
4隻目の2曲目にある「ヲフイノボリ」というのが、現在の樽前山に相当するらしいです。形が普通の山ですが、今のような陥没した形になったのは明治期なので、なるほどと思いましたね。元の形を見れたみたいで感慨深い。というか、普通の山の形だったので認識出来なかったのでは…？<br />
ただ、その上に恵庭岳らしき名の山もあるので、気づけよと。その間に支笏湖があるはずですが、この角度からだと山の間に隠れて見えないことになるのですかね。これも原因としてありそう。<br />
<br />
「燃える山」という意味のアイヌ語らしく、ヲフイノボリ→オフィヌプリ(ohuy-nupuri)→ウフィヌプリ(uhuy-nupuri／こちらが一般的) なのだとか。<br />
絵図が描かれたこの頃から、変わらず火山活動があったということなのでしょう。<br />
<br />
それにしても、気になる人物が地元や馴染みの地を記録していたことに勝手に親近感を抱いてしまいます。<br />
そして、シマ先生の画も良いですね…番屋や会所、温泉まで描き込んである。同じく『陸奥州駅路図』でもそうですが現在のような観光地としてというよりは、宿場としての重要なポイントだったから？なのかな…見ていて面白い。<br />
<br />
<a href="https://yurutan.net/rekisou/?tag=%e6%9d%91%e4%b8%8a%e5%b3%b6%e4%b9%8b%e5%85%81" class="taglink" title="村上島之允">#村上島之允</a>  -- Posted by shinozakitakato 〔1153文字〕 No.42 ]]></description>
	<link>https://yurutan.net/rekisou/?postid=42</link>
	<guid>https://yurutan.net/rekisou/?postid=42</guid>
	<category>memo</category>
	<pubDate>Tue, 20 Jan 2026 03:23:40 +0900</pubDate>
</item>
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<item>
	<title><![CDATA[ 2006年に知床へ旅行に行った際、ひかりごけ目当てに羅臼町の… ]]></title>
	<description><![CDATA[ 2006年に知床へ旅行に行った際、ひかりごけ目当てに羅臼町のマッカウス洞窟へ足を運んだのですが、そこに建っていた石碑と案内板の説明に惹かれました。<br />
<br />
<img class="embeddedimage " width="640" height="480" src="https://yurutan.net/rekisou/images/202508072341265-admin.jpg" alt="202508072341265-admin.jpg">そう、これが松浦武四郎との出会いだったわけです。<br />
当時の筆者は開拓期以前の北海道の歴史については無知で、幕末の時代に蝦夷地まで来てすごい冒険をした人がいたのだなぁと驚きつつこの看板を眺めていました。そしてこの洞窟に宿泊したのかと。クマが魚の骨をバリバリ食べる音って…それは現代人の我々も怖い…<br />
<br />
<img class="embeddedimage " width="640" height="480" src="https://yurutan.net/rekisou/images/202508072341264-admin.jpg" alt="202508072341264-admin.jpg">隣にあった詩碑。大分見づらいですが。<br />
<br />
<q class="decorationQ" style="display:block;">松浦武四郎　野宿の地<br />
<br />
仮寝する窟におふる石小菅　葦し菖蒲と見てこそハねめ<br />
<br />
安政五年五月●日　武四郎</q><br />
上の看板の説明のとおり、これは彼の著作『知床日誌』の中にある詩で、洞窟に野宿したことが書かれていますが、『戊午志礼登古日誌　乾』という日誌には、「チトライ川口（マッカウスから海岸を300ｍ程北上した所）の番屋に泊まった」旨のことが書かれており（参考：『松浦武四郎知床紀行』秋葉實編）、洞窟のことには触れられていません。『戊午〜』は実際の日誌（紀行文）と思われ、『知床日誌』は紀行を元にした作品、と見るべきものなのでしょう。日誌の著作は他にも『石狩日誌』『天塩日誌』『十勝日誌』など多数ありますが、これらは蝦夷地調査を終えてしばらく経ってから著され、広く民衆にも読まれるために潤色（アレンジ）を加えて出版されたものとのこと。<br />
<br />
ですので、実際に泊まったのは番屋の方で、このマッカウス洞窟には泊まっていないようです。<br />
ならクマの件も…？ ガッカリするやらホッとするやら。<br />
<br />
ですがまあ、著名な人物の著作に出てくる洞窟と思えば（洞窟の存在自体は見聞きしたものなのでしょうし）、これも史跡ですから。<br />
それにしてもこういうのは、案内板で馬鹿正直に説明しようとするといささか理屈っぽくなってしまうので悩みどころでしょうね…<br />
<br />
<small class="decorationS">※このパターンは、拙著同人誌<a class="url labeledlink" href="https://shinozakitakato.booth.pm/items/4601275">『希望と洞窟と石垣山』</a> に記したのと同じですね〜。武四郎が泊まったと云われる別の洞窟の実際的なことを書いています。まあそういうことです。洞窟に泊まるシチュエーション好きかよ。まあワクワクするよね。</small><br />
<br />
それはともかく、自分にとってここは&quot;北海道の名付け親&quot;松浦武四郎のことを知った思い入れの深い場所になります（他にも登山家、古物蒐集家の顔がある）。<br />
これをきっかけに、関連書籍を読んだり（彼自身の著作は膨大なので…さすがに全ては無理ですが）して関心を持ち、そして今に至ります。北方探検家に興味を持った源流が、彼を知ったことだったと思います。もう20年近くになるとは…色々な人物に寄り道してまだすべての著作を読めていない。本格的にハマってしまったら沼一直線なのでしょうね…<br />
<br />
ただこの思い出深いマッカウス洞窟も、崩落の危険のため今はもう見ることが出来ません。<br />
上の石碑と案内板は、かろうじて洞窟の囲いの外にあるようで通行止め地点から徒歩で入れば見られるようなのですが…<br />
<br />
<img class="embeddedimage " width="640" height="480" src="https://yurutan.net/rekisou/images/202508072341261-admin.jpg" alt="202508072341261-admin.jpg"><br />
<img class="embeddedimage " width="640" height="480" src="https://yurutan.net/rekisou/images/20250807234126-admin.jpg" alt="20250807234126-admin.jpg"><br />
<img class="embeddedimage " width="640" height="480" src="https://yurutan.net/rekisou/images/202508072341262-admin.jpg" alt="202508072341262-admin.jpg"><br />
<img class="embeddedimage " width="640" height="480" src="https://yurutan.net/rekisou/images/202508072341263-admin.jpg" alt="202508072341263-admin.jpg"><br />
雰囲気だけでも…（ひかりごけは柵の内側に自生していました。詳しくは<a class="url labeledlink" href="https://yurutan.net/yurutan/?postid=67">こちら</a> へ）<br />
<br />
※『知床日誌』の本文と訳文は、奈良女子大学学術情報センターの所蔵資料<a class="url labeledlink" href="https://www.nara-wu.ac.jp/aic/gdb/nwugdb/edokiko/k024/kaidai.html">『知床日誌』</a> を参考にさせていただきました。<br />
<br />
<a href="https://yurutan.net/rekisou/?tag=%e6%9d%be%e6%b5%a6%e6%ad%a6%e5%9b%9b%e9%83%8e" class="taglink" title="松浦武四郎">#松浦武四郎</a>  -- Posted by shinozakitakato 〔1360文字〕 No.39 ]]></description>
	<link>https://yurutan.net/rekisou/?postid=39</link>
	<guid>https://yurutan.net/rekisou/?postid=39</guid>
	<category>memo travel</category>
	<pubDate>Fri, 08 Aug 2025 04:27:46 +0900</pubDate>
</item>
<!-- One Entry Data for RSS Feed -->
<item>
	<title><![CDATA[ 当コンテンツ『ゆるたん。』ブログのこの記事 を纏めていて、羅… ]]></title>
	<description><![CDATA[ 当コンテンツ『ゆるたん。』ブログの<a class="url labeledlink" href="https://yurutan.net/yurutan/?postid=66">この記事</a> を纏めていて、羅臼の海岸から国後島が見える写真があり、そのシルエットが山のように見えるため山岳としての名前があるのかと調べてみると、泊山（とまりやま）という名前で、別名Golovninというらしい。<br />
<br />
ん？<br />
<br />
んんん…？？？<br />
<br />
Golovnin？<br />
<br />
<em class="decorationE">ゴロヴニン！！！</em><br />
<br />
あああ、あのゴローニンのことですね！？<br />
<br />
あのゴローニン事件の、まみりんとバチバチした、あの人ですね！（雑）<br />
<br />
ヴァシーリー・ゴローヴニン（日本語表記だと表記揺れの多い人ですが）はロシアの軍人で、ディアナ号での世界一周調査の途中、その数年前に発生した文化露寇の影響で警戒中の日本側に拿捕、身柄を拘束され箱館や松前に幽閉されていた人です。途中で脱走を試みるも連れ戻され、のちにロシア側のリコルドに拿捕された高田屋嘉兵衛が交渉の結果、互いに身柄を交換で帰還を果たしたという、波乱の人でもあります。<br />
<br />
日本での幽閉生活中に『日本幽囚記』を記し、日本での出来事や会った人々、日本の習慣習俗などに触れていますが、概ね日本人のことは好意的に見られていたらしく、日本語訳も出版されているものを読むと中々面白かったりします。日本ではロシア語がほとんど通じなかったため、会話は同行していた千島アイヌがアイヌ語に訳し、それを日本人のアイヌ語通辞が日本語に訳すという2段階通訳で意思疎通をしたといわれ、その後接見した日本役人にロシア語を教えることになったが、アイヌ語通辞の上原熊次郎は老齢だからか覚えが悪く、村上貞助はとても優秀だった旨のことが記されていたり。ゴロちゃん辛口で上原さんが気の毒。<br />
<br />
中でも間宮林蔵とのエピソードが面白すぎで、絶対印象悪いはずの人に数行費やして色々書かれているのは不思議。何度も通い詰めてきて測量法を聞き出そうとしてくるも事情があって教えられずにいるとブチギレられて、日本の軍船を差し向けるぞと恐喝してきたり（それならロシア側でもその何倍もの数で迎え撃つぞと反論してる）、自分の樺太探検の話を自慢気に延々と話す（なんだコイツは）などとまあ実にしつこい（病みそう）。と感じの悪さオンパレードなのに、悪いことばかりでもなく彼の話には未知の情報もあったり他色々と興味深い話もしたよと何故かフォローが入ったり。実は好いてんのかよ。良くも悪くも印象に残った人物なんでしょうが、両者負けず劣らず知的好奇心旺盛で勉強家、方向性は同じでも自国の立場があるために完全には親密になれなかったんだろうなあという感じもします。<br />
<br />
で、国後の泊山に何故彼の名が付いているのか。日本に捕まる前に国後島を訪れているらしく、その時にこの山を記したことで付いたのだろうか。土地や地形に人名を付すのは西欧にはよくあるけれど、日本では地名を人が名乗る（名字・姓）ことが多いなとふと思った。<br />
<br />
間宮海峡も間宮自身や日本側が付けた訳ではなくシーボルトの紹介で呼ばれた名（マミヤノセト）だったわけだし、ロシア側ではネヴェリスコイ海峡だし（間宮が探検したあとに大型船舶で初めて通過した人物の名）。今はタタール海峡が国際的な名称になっているけれど。<br />
<br />
うーん、とりとめがなくなってしまった。<br />
<br />
<img class="embeddedimage nolisted" width="640" height="480" src="https://yurutan.net/rekisou/images/20250804020208-admin.jpg" alt="20250804020208-admin.jpg"><br />
羅臼オッカバケ港付近から見た国後。<br />
多分あれが泊山(Golovnin)なのかなあ。近くて遠い、思わぬところで発見した知っている人。<br />
<br />
<a href="https://yurutan.net/rekisou/?tag=%e9%96%93%e5%ae%ae%e6%9e%97%e8%94%b5" class="taglink" title="間宮林蔵">#間宮林蔵</a> <a href="https://yurutan.net/rekisou/?tag=%e6%9d%91%e4%b8%8a%e8%b2%9e%e5%8a%a9" class="taglink" title="村上貞助">#村上貞助</a> <a href="https://yurutan.net/rekisou/?tag=%e3%82%b4%e3%83%ad%e3%83%b4%e3%83%8b%e3%83%b3" class="taglink" title="ゴロヴニン">#ゴロヴニン</a> -- Posted by shinozakitakato 〔1420文字〕 No.38 ]]></description>
	<link>https://yurutan.net/rekisou/?postid=38</link>
	<guid>https://yurutan.net/rekisou/?postid=38</guid>
	<category>memo</category>
	<pubDate>Mon, 04 Aug 2025 02:02:08 +0900</pubDate>
</item>
<!-- One Entry Data for RSS Feed -->
<item>
	<title><![CDATA[ 6月の北海道COMITIA21合わせに新刊を作ったのですが、… ]]></title>
	<description><![CDATA[ 6月の北海道COMITIA21合わせに新刊を作ったのですが、ちょうどこのブログで小幌海岸<a href="https://yurutan.net/rekisou/?postid=31" class="postidlink">&gt;&gt;31</a>を出したので、小幌駅の探索レポとして発行すべく色々調べていましたら、最寄りの岩屋観音絡みで興味深いことが判明したのでここに記しておこうと思います。<br />
<br />
<img class="embeddedimage " width="750" height="1000" src="https://yurutan.net/rekisou/images/20250713174037-admin.jpg" alt="20250713174037-admin.jpg"><br />
小幌駅へは2015年に、国道脇から林道へ入り徒歩で訪れているのですが、途中降りる浜に小幌洞窟があり、その中に「岩屋観音」が祀られています。<br />
上の写真がその小幌洞窟なのですが、鳥居も相まって凄い雰囲気です。こちらは今でも漁師の守り神として、毎年祭礼が行われています。<br />
<br />
<img class="embeddedimage " width="1000" height="667" src="https://yurutan.net/rekisou/images/20250713180947-admin.jpg" alt="20250713180947-admin.jpg">この岩屋観音、あの円空仏が祀られていることで有名です。こちらに祀られているのは「首なし観音」と呼ばれる（修復された）仏像になります。<br />
<br />
<img class="embeddedimage " width="1000" height="667" src="https://yurutan.net/rekisou/images/202507131740371-admin.jpg" alt="202507131740371-admin.jpg">入口の鳥居。岩壁の隙間に押しつぶされそうな場所に祀られています。神仏習合の祠になります。<br />
<br />
<img class="embeddedimage " width="1000" height="667" src="https://yurutan.net/rekisou/images/202507131740372-admin.jpg" alt="202507131740372-admin.jpg"><br />
<img class="embeddedimage " width="1000" height="667" src="https://yurutan.net/rekisou/images/202507131740373-admin.jpg" alt="202507131740373-admin.jpg">内部は外から見るよりもそこそこ広く、その昔円空上人がここに籠もって仏像を彫ったのだとか。<br />
両脇にあるのは仏像のレプリカで、本物の首なし観音はお堂の奥にあるのか普段は窺うことは出来ません。<br />
<br />
と、ここまでは予てから知っていた事柄ですが、実はここで円空上人が彫って安置した仏像は首なし観音の他に4体あったらしく、その4体は北海道内の各地に送られ、今でも祀られている寺社がある、ということを知りました。<br />
<br />
円空は1666年（寛文6）蝦夷地に渡り、渡島半島の数カ所で仏像を彫っては安置しています。洞爺湖の近く有珠山にも登り、下山後この小幌海岸に立ち寄り仏像を彫って安置しましたが、有珠山より奥（東側）へは進めなかったため、仏像の背中にはそれぞれ未踏の地名（祀るべく地、山）を彫り、計5体をその場に安置したといわれています。<br />
<br />
時は下って1791年（寛政3）、民俗学者の菅江真澄が小幌洞窟で5体の円空仏を発見し、そのうち1体は朽ちていて背中の文字も判別出来なかったとあることから、これが逸話のクマに襲われた首なし観音と思われます。<br />
<br />
更にその後、残り4体はその背銘通りにそれぞれの地に送られることになるのですが、それを命じ手配したのがあの松田伝十郎（当時は仁三郎）だったのです。松田がエトモ（室蘭）に勤務していた際<a href="https://yurutan.net/rekisou/?postid=29" class="postidlink">&gt;&gt;29</a>、小幌洞窟を巡検し発見した4体の円空仏の背銘を確認し（朽ちた仏像には言及していない）、その通りに各所へ送って安置するのがよいとの判断を下したようです。<br />
<br />
4体はそれぞれ有珠奥の院（洞爺湖観音島）、タルマエ（苫小牧）、クスリ（釧路）、ユウバリ（夕張岳が見える？千歳方面）に送られ、有珠奥の院の仏像は現在は有珠善光寺に、タルマエは錦岡樽前山神社、クスリは釧路市厳島神社に今も安置されています。有珠善光寺の仏像は現在北海道の有形文化財に指定されていますが、それに至るまでには紆余曲折があり…<br />
<small class="decorationS">（詳しくは拙新刊『<a class="url labeledlink" href="https://shinozakitakato.booth.pm/items/7067840">徒歩で来た。小幌への道</a> 』の後書きと年表に記しましたので、ご興味ある方はご覧いただけますと幸いです…）<br />
</small><br />
<img class="embeddedimage " width="1000" height="667" src="https://yurutan.net/rekisou/images/202507131740374-admin.jpg" alt="202507131740374-admin.jpg"><br />
<br />
ここでも松田伝十郎の名を見るとは思いませんでした。小幌の洞窟はそれまではどちらかというと小幌駅とセットのイメージだったので（そのつもりで駅を訪れた）、別ルートで知っている歴史人物に繋がるという意外性が。しかし円空はそれより昔の人物で、後世の人々の信仰の対象でもあったことを思えばまあ、色々繋がるものなんでしょうね。円空仏を彫ったのもそれを各地に送ったのも（和人が信仰している）仏の教えを広めたいという思惑も当然あったのでしょうし。<br />
今回大変興味深い新刊づくりとなりました。これからもそんな繋がりを沢山知ることになるのでしょう。<br />
<br />
このために、何処にも扱いがなく入手を諦めていた松田の『北夷談』の現代語訳を、某所で発見し漸く手に入れることが出来たのも嬉しい出来事でした。<br />
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<a href="https://yurutan.net/rekisou/?tag=%e6%9d%be%e7%94%b0%e4%bc%9d%e5%8d%81%e9%83%8e" class="taglink" title="松田伝十郎">#松田伝十郎</a> <a href="https://yurutan.net/rekisou/?tag=%e5%86%86%e7%a9%ba" class="taglink" title="円空">#円空</a><br />
 -- Posted by shinozakitakato 〔1583文字〕 No.37 ]]></description>
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	<category>memo travel</category>
	<pubDate>Sun, 13 Jul 2025 19:20:29 +0900</pubDate>
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	<title><![CDATA[ &gt;&gt;17 イノー先生の刀描くの難しかったなー、反… ]]></title>
	<description><![CDATA[ <a href="https://yurutan.net/rekisou/?postid=17" class="postidlink">&gt;&gt;17</a> イノー先生の刀描くの難しかったなー、反りの表現が出来なかったなーと思うも、蝦夷地測量当時って士分に取り立てられる前なので大小は差していないはずだし、あの手の御用旗もまだ掲げていなかったのではないかと思うので、これはあくまでイメージ画として見ていただきたく。<br />
<br />
伊能忠敬の差していた刀は竹光というのは有名ですよね。金属が帯びる磁気によって羅針が狂う危険性を考慮してのことらしいですが、実際狂うかどうかはともかく、かなり細心の注意を払っていたことが伺えます。このこだわりの賜物があの大日本沿海輿地全図だったのだなと思うと、職人気質でもあったのかもなと。<br />
<br />
間宮林蔵の方は肖像画にはっきりと大小差している姿が描かれているけど、やはり師匠にならって竹光だったのかどうか。北方謙三『林蔵の貌』では上記の伊能のエピソードを元にしてか、竹光だという設定になっている（そして肖像画のあの測量用の鎖を武器にして戦うという凄い場面が描かれる）。<br />
<br />
間宮自身は農民の出だし大小持つのはある意味憧れだったのではないかと。フヴォストフ事件では率先して交戦を主張したり、晩年の甲冑コレクター振りを見ると、自分の役割に真面目だしそこそこ勇ましいことが好きそうだし、竹光だといざというとき戦えないだろう！と叱られそう（笑）<br />
<br />
蝦夷地測量時にはシベチャリ川（今の静内川）をさかのぼって探索中に、舟が転覆して荷物と刀を流されてしまい、荷物は取り戻したものの刀は行方不明になってしまったという逸話も残されているようで。同行のアイヌ達にも探させたものの、結局取り返せず相当落ち込んでいたという話が残っている（松浦武四郎の記録より）。<br />
大事なものを無くして落ち込むまみりん、その哀愁の姿が見えるようだ…竹光だったらそんなに落ち込む必要はないと思うので、刀は真剣だったに一票。<br />
<br />
静内川に散った間宮の刀、時代を超えて何処かで見つかったら面白いのだが。ロマンですね。<br />
<br />
<a href="https://yurutan.net/rekisou/?tag=%e4%bc%8a%e8%83%bd%e5%bf%a0%e6%95%ac" class="taglink" title="伊能忠敬">#伊能忠敬</a> <a href="https://yurutan.net/rekisou/?tag=%e9%96%93%e5%ae%ae%e6%9e%97%e8%94%b5" class="taglink" title="間宮林蔵">#間宮林蔵</a>  -- Posted by shinozakitakato 〔829文字〕 No.18 ]]></description>
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	<category>memo</category>
	<pubDate>Wed, 04 Dec 2024 19:55:03 +0900</pubDate>
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	<title><![CDATA[ タグの人物名、あだ名だとぱっと見分かりづらいので、実名にしま… ]]></title>
	<description><![CDATA[ タグの人物名、あだ名だとぱっと見分かりづらいので、実名にしました。<br />
検索避けも意識していたんですが、そもそもRSS公開しているのであんまり意味ないんですよね…笑<br />
ここは、推し人物の小ネタとか妄想を垂れ流す程度の場所であります。そんな真面目じゃないです。<br />
<br />
タグを直していたらやっぱり変換でつまづくのがシマ先生。「允」の字が「じょう」で出てくれない（音読み「イン」で出る）。辞書登録するべきかなと思いつつ、「丞」の字を使っている資料もあるので、これはどうしましょうね。<br />
意味的には両方共、&quot;たすける&quot;的なものなので、どちらも間違いではないのだろうし、武士の名乗りとして多い字だけど、便宜上統一はしておきたいので、多くの小説や資料で用いられている「允」を当方では使うことにします。<br />
<br />
村上島之允（しまのじょう）は、私の中では「表記ゆれ大王」の異名を持っています。先のように島之丞と表記するものもあり。<br />
昔当時なら旧字の「嶋之丞」もあったように記憶している（嶋の方が当時は正なのでしょうが）。あと「志摩之丞」とか。<br />
伊勢の神職の出身で、そちらの方の別名が秦檍丸（はたのあわきまる）というのですが、この表記も読みもまあ、資料により統一しない。表記は他に「檍麿」「檍磨呂」「檍麻呂」、読みも他に「あわきまろ」「あわぎまろ」「あおきまる」「あおきまろ」など。<br />
島之允も「しまのすけ」とか、また第三者が村上檍丸と呼んでいる資料もあったりで、何通りあるねん！と突っ込みたくなる（笑）<br />
とはいえ、彼の著作絵図の自筆署名には「檍丸」と表記されているので、そちらが正規なのだろうと。<br />
<br />
昔の人、他人の名前の表記や読みが意外とアバウトなので、こういう現象が起こりがちなのかな。<br />
幼名や諱とか、また通称とかフリーダムに幾つも持っていたりコロコロ変えたりもあっただろうしな…聞き取りや発音の揺れも影響したのかもしれない。<br />
<br />
「檍」は日本書紀に「あわ（は）き」と読む植物（神木？）として登場するらしく、どんな木なのか詳細は不明らしい。園芸種のアオキとも異なるそう。これは神職の出らしい命名だなと思います。<br />
<br />
<a href="https://yurutan.net/rekisou/?tag=%e6%9d%91%e4%b8%8a%e5%b3%b6%e4%b9%8b%e5%85%81" class="taglink" title="村上島之允">#村上島之允</a>  -- Posted by shinozakitakato 〔896文字〕 No.13 ]]></description>
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	<category>memo</category>
	<pubDate>Thu, 07 Nov 2024 03:16:45 +0900</pubDate>
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	<title><![CDATA[ 今年のNHK大河『光る君へ』で、道長がまひろ（紫式部）に扇を… ]]></title>
	<description><![CDATA[ 今年のNHK大河『光る君へ』で、道長がまひろ（紫式部）に扇を贈る場面があり、そこには幼き日に出会った2人の姿が描かれていたという、あのシーンはグッと来たわけなのですが。<br />
最近、源氏物語を読み返したら、親しい者同士で扇を交換したり〜という趣旨の記述が出てきて、ああこの時代はそんな雅な習慣があったのだなーとか、これがあの脚本に活かされているのかなとか、ドラマと照らし合わせても中々興味深かった。<br />
初めて読んだのは小学生の頃（児童向けの日本の古典シリーズで）だったので、流石に完全理解出来るほどおませではなかったな…<br />
<br />
ところで間宮の蝦夷地測量の頃、彼と交際（婚姻？）していたアシメノコというアイヌ女性の存在が伝えられているのですが、2人の間に生まれた子供を祖先とする家系の家紋（イトッパもしくはシロシと呼ぶ）が、アイヌの他家にはない扇形のものが伝えられているといわれ、これは間宮がいつも持っていた扇子をモチーフにしたということらしい。扇はアイヌの道具ではなく、和人のものであるため、その系統に和人の存在があったことの証とも言えるのだとか。<br />
<br />
『旭川市史小話』（昭和38年発行）に扇形のイトッパのことが記され、近年では秋葉實氏（故人）により松浦武四郎の記録も精査されてその辺りの輪郭が描かれつつあるようで。アイヌ側の伝承と間宮の故郷の伝承、そして松浦の断片的な記録をつなぎ合わせると、信憑性があることなのではと言われています。<br />
<br />
結納とか結婚式では扇子はおなじみだけど、やはりそういうことなのでしょうかね。アイヌ式の婚礼なら扇子は関係ないはずだけど。<br />
もしや間宮が平安時代のノリでアシメノコさんに贈っていたのだとしたら、意外と風流でキザな事をやってるな？と、なんだか光源氏と被って見えて感心したり面白みがあったり、まあこれは妄想になりますね…<br />
<br />
この辺りのプライベートエピソード、わたし、気になります！（元ネタはミリしら）<br />
 -- Posted by shinozakitakato 〔810文字〕 No.12 ]]></description>
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	<category>memo</category>
	<pubDate>Wed, 06 Nov 2024 22:57:39 +0900</pubDate>
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<item>
	<title><![CDATA[ 以前五稜郭公園の箱館奉行所に行った時、資料展示コーナーに歴代… ]]></title>
	<description><![CDATA[ 以前五稜郭公園の箱館奉行所に行った時、資料展示コーナーに歴代の箱館奉行の年表に『函府人名録』が展示（写真・部分）されていて、何の気無く眺めていたら、見覚えのある名前がぽつぽつあって、思わず撮影してしまった。有料の施設のため、撮った写真は自分用としてここには挙げずにおく。<br />
<br />
○箱館奉行<br />
・堀織部正<br />
・村垣淡路守（村垣定行は御庭番家で有名な間宮の上司。人名録は安政4年頃なので範正に代替わりしている）<br />
<br />
○組頭勤方<br />
・安間純之進<br />
<br />
○調役<br />
・向山栄五郎（松浦武四郎と共に樺太・宗谷を調査し現地で亡くなった向山源太夫の養子）<br />
<br />
○調役並<br />
・間宮鉄次郎（間宮林蔵の士分を継いだ養子）<br />
<br />
○調役下役元締<br />
・梨本弥五郎（神威岬の女人禁制を撤廃させた）<br />
<br />
など、これまで北方関連の本を読んできた中で馴染みのある人名が見られて興奮してしまった。<br />
これらは奉行所に所属する役人で、明治以前の北海道史でも重要な位置にある人物だと思う。<br />
<br />
あと、調役に「村上愛助」と、調役下役に「最上徳三郎」という名も見えるのだけど、村上貞助や最上徳内の縁者だろうか。<br />
名前が似ているのと、蝦夷地絡みなもので、可能性はありそうだが確証が持てない。<br />
<br />
村上愛助は実際箱館奉行の役人として名前が出てくる書物は沢山あるが、続柄についての情報はざっと調べた限り出てこない。<br />
<br />
最上徳内の子孫に熊三郎という人物がおり、安政の年代に調役下役だったらしく、のち樺太の探索を行い調役並に昇格して名前を先人と同じく「徳内」と名乗った。元は徳三郎といったのかまたは誤字かも知れないが、同一人物の可能性はある。（参考：北海道史人名字彙 下）<br />
<br />
ともあれ、あの人物達の次世代の人達も活躍していた形跡を思わぬ場所で目に出来て、胸を熱くした。 -- Posted by shinozakitakato 〔739文字〕 No.8 ]]></description>
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	<category>memo</category>
	<pubDate>Wed, 25 Sep 2024 20:40:59 +0900</pubDate>
</item>
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<item>
	<title><![CDATA[ そういえば吉村小説を読み終えてまずやったのはGoogleMa… ]]></title>
	<description><![CDATA[ そういえば吉村小説を読み終えてまずやったのはGoogleMapでサハリンの地図を写真で確認したことですね。北部って本当に湿地帯で無数の沼地があるのですが、間宮の描いた地図にもちゃんと多数の沼地が描かれていて、それは現地の人の話も確認しているのだろうけど、高所に登った感じで（現地周辺に山のような高所は存在しないらしい）俯瞰で描かれているのは地味にすごいことなのではと思ったり。Map見てちゃんと現在でもその沼地が変わらずにあるというのが確認できて、感動してしまった。<br />
<br />
サハリンを取材した相原氏も著作で、彼には鳥の目が備わっているというようなことが書かれていたと記憶しているけど、測量術を身に付けた人が体得できる能力なのだろうか。距離感覚に優れていないと出来ないことだよなと思う。 -- Posted by shinozakitakato 〔340文字〕 No.7 ]]></description>
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	<category>memo</category>
	<pubDate>Sat, 21 Sep 2024 03:40:57 +0900</pubDate>
</item>
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	<title><![CDATA[ 年明けくらいから吉村昭の『間宮林蔵』を読み返そうと途中まで来… ]]></title>
	<description><![CDATA[ 年明けくらいから吉村昭の『間宮林蔵』を読み返そうと途中まで来て、年表化しつつ読み進めたいと思い直して幾星霜。ぼちぼちやりたいな…<br />
とはいえ史実に忠実とはいえ小説なので、人物叢書とかも参考にしつつやることになるかな。何故か島之允先生が登場したところで思い立った。蝦夷地御用掛雇とか役職もムズカシイね！会社とかもそうだけど役職とか組織図とか苦手過ぎ。幕府だともうさっぱりですわ…まあ下っ端だったということだけはわかる。<br />
それにしても吉村間宮を初めて読んだ時のあの興奮やワクワク感は、二度目以降はもう味わえないのだろうなと思うと少し寂しい。また違う感想や知見が得られるのかな…だといいな…<br />
 -- Posted by shinozakitakato 〔292文字〕 No.6 ]]></description>
	<link>https://yurutan.net/rekisou/?postid=6</link>
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	<category>memo</category>
	<pubDate>Sat, 21 Sep 2024 03:16:32 +0900</pubDate>
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