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江戸期の北方探検家で歴史創作。絵・漫画・設定・調べ物などゆるゆるっとな。


2025年8月8日の投稿1件]

2006年に知床へ旅行に行った際、ひかりごけ目当てに羅臼町のマッカウス洞窟へ足を運んだのですが、そこに建っていた石碑と案内板の説明に惹かれました。

202508072341265-admin.jpgそう、これが松浦武四郎との出会いだったわけです。
当時の筆者は開拓期以前の北海道の歴史については無知で、幕末の時代に蝦夷地まで来てすごい冒険をした人がいたのだなぁと驚きつつこの看板を眺めていました。そしてこの洞窟に宿泊したのかと。クマが魚の骨をバリバリ食べる音って…それは現代人の我々も怖い…

202508072341264-admin.jpg隣にあった詩碑。大分見づらいですが。

松浦武四郎 野宿の地

仮寝する窟におふる石小菅 葦し菖蒲と見てこそハねめ

安政五年五月●日 武四郎

上の看板の説明のとおり、これは彼の著作『知床日誌』の中にある詩で、洞窟に野宿したことが書かれていますが、『戊午志礼登古日誌 乾』という日誌には、「チトライ川口(マッカウスから海岸を300m程北上した所)の番屋に泊まった」旨のことが書かれており(参考:『松浦武四郎知床紀行』秋葉實編)、洞窟のことには触れられていません。『戊午〜』は実際の日誌(紀行文)と思われ、『知床日誌』は紀行を元にした作品、と見るべきものなのでしょう。日誌の著作は他にも『石狩日誌』『天塩日誌』『十勝日誌』など多数ありますが、これらは蝦夷地調査を終えてしばらく経ってから著され、広く民衆にも読まれるために潤色(アレンジ)を加えて出版されたものとのこと。

ですので、実際に泊まったのは番屋の方で、このマッカウス洞窟には泊まっていないようです。
ならクマの件も…? ガッカリするやらホッとするやら。

ですがまあ、著名な人物の著作に出てくる洞窟と思えば(洞窟の存在自体は見聞きしたものなのでしょうし)、これも史跡ですから。
それにしてもこういうのは、案内板で馬鹿正直に説明しようとするといささか理屈っぽくなってしまうので悩みどころでしょうね…

※このパターンは、拙著同人誌『希望と洞窟と石垣山』 に記したのと同じですね〜。武四郎が泊まったと云われる別の洞窟の実際的なことを書いています。まあそういうことです。洞窟に泊まるシチュエーション好きかよ。まあワクワクするよね。

それはともかく、自分にとってここは"北海道の名付け親"松浦武四郎のことを知った思い入れの深い場所になります(他にも登山家、古物蒐集家の顔がある)。
これをきっかけに、関連書籍を読んだり(彼自身の著作は膨大なので…さすがに全ては無理ですが)して関心を持ち、そして今に至ります。北方探検家に興味を持った源流が、彼を知ったことだったと思います。もう20年近くになるとは…色々な人物に寄り道してまだすべての著作を読めていない。本格的にハマってしまったら沼一直線なのでしょうね…

ただこの思い出深いマッカウス洞窟も、崩落の危険のため今はもう見ることが出来ません。
上の石碑と案内板は、かろうじて洞窟の囲いの外にあるようで通行止め地点から徒歩で入れば見られるようなのですが…

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雰囲気だけでも…(ひかりごけは柵の内側に自生していました。詳しくはこちら へ)

※『知床日誌』の本文と訳文は、奈良女子大学学術情報センターの所蔵資料『知床日誌』 を参考にさせていただきました。

#松浦武四郎

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