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江戸期の北方探検家で歴史創作。絵・漫画・設定・調べ物などゆるゆるっとな。


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年明けくらいから吉村昭の『間宮林蔵』を読み返そうと途中まで来て、年表化しつつ読み進めたいと思い直して幾星霜。ぼちぼちやりたいな…
とはいえ史実に忠実とはいえ小説なので、人物叢書とかも参考にしつつやることになるかな。何故か島之允先生が登場したところで思い立った。蝦夷地御用掛雇とか役職もムズカシイね!会社とかもそうだけど役職とか組織図とか苦手過ぎ。幕府だともうさっぱりですわ…まあ下っ端だったということだけはわかる。
それにしても吉村間宮を初めて読んだ時のあの興奮やワクワク感は、二度目以降はもう味わえないのだろうなと思うと少し寂しい。また違う感想や知見が得られるのかな…だといいな…

メモ

そういえば吉村小説を読み終えてまずやったのはGoogleMapでサハリンの地図を写真で確認したことですね。北部って本当に湿地帯で無数の沼地があるのですが、間宮の描いた地図にもちゃんと多数の沼地が描かれていて、それは現地の人の話も確認しているのだろうけど、高所に登った感じで(現地周辺に山のような高所は存在しないらしい)俯瞰で描かれているのは地味にすごいことなのではと思ったり。Map見てちゃんと現在でもその沼地が変わらずにあるというのが確認できて、感動してしまった。

サハリンを取材した相原氏も著作で、彼には鳥の目が備わっているというようなことが書かれていたと記憶しているけど、測量術を身に付けた人が体得できる能力なのだろうか。距離感覚に優れていないと出来ないことだよなと思う。

メモ

以前五稜郭公園の箱館奉行所に行った時、資料展示コーナーに歴代の箱館奉行の年表に『函府人名録』が展示(写真・部分)されていて、何の気無く眺めていたら、見覚えのある名前がぽつぽつあって、思わず撮影してしまった。有料の施設のため、撮った写真は自分用としてここには挙げずにおく。

○箱館奉行
・堀織部正
・村垣淡路守(村垣定行は御庭番家で有名な間宮の上司。人名録は安政4年頃なので範正に代替わりしている)

○組頭勤方
・安間純之進

○調役
・向山栄五郎(松浦武四郎と共に樺太・宗谷を調査し現地で亡くなった向山源太夫の養子)

○調役並
・間宮鉄次郎(間宮林蔵の士分を継いだ養子)

○調役下役元締
・梨本弥五郎(神威岬の女人禁制を撤廃させた)

など、これまで北方関連の本を読んできた中で馴染みのある人名が見られて興奮してしまった。
これらは奉行所に所属する役人で、明治以前の北海道史でも重要な位置にある人物だと思う。

あと、調役に「村上愛助」と、調役下役に「最上徳三郎」という名も見えるのだけど、村上貞助や最上徳内の縁者だろうか。
名前が似ているのと、蝦夷地絡みなもので、可能性はありそうだが確証が持てない。

村上愛助は実際箱館奉行の役人として名前が出てくる書物は沢山あるが、続柄についての情報はざっと調べた限り出てこない。

最上徳内の子孫に熊三郎という人物がおり、安政の年代に調役下役だったらしく、のち樺太の探索を行い調役並に昇格して名前を先人と同じく「徳内」と名乗った。元は徳三郎といったのかまたは誤字かも知れないが、同一人物の可能性はある。(参考:北海道史人名字彙 下)

ともあれ、あの人物達の次世代の人達も活躍していた形跡を思わぬ場所で目に出来て、胸を熱くした。

メモ

今年のNHK大河『光る君へ』で、道長がまひろ(紫式部)に扇を贈る場面があり、そこには幼き日に出会った2人の姿が描かれていたという、あのシーンはグッと来たわけなのですが。
最近、源氏物語を読み返したら、親しい者同士で扇を交換したり〜という趣旨の記述が出てきて、ああこの時代はそんな雅な習慣があったのだなーとか、これがあの脚本に活かされているのかなとか、ドラマと照らし合わせても中々興味深かった。
初めて読んだのは小学生の頃(児童向けの日本の古典シリーズで)だったので、流石に完全理解出来るほどおませではなかったな…

ところで間宮の蝦夷地測量の頃、彼と交際(婚姻?)していたアシメノコというアイヌ女性の存在が伝えられているのですが、2人の間に生まれた子供を祖先とする家系の家紋(イトッパもしくはシロシと呼ぶ)が、アイヌの他家にはない扇形のものが伝えられているといわれ、これは間宮がいつも持っていた扇子をモチーフにしたということらしい。扇はアイヌの道具ではなく、和人のものであるため、その系統に和人の存在があったことの証とも言えるのだとか。

『旭川市史小話』(昭和38年発行)に扇形のイトッパのことが記され、近年では秋葉實氏(故人)により松浦武四郎の記録も精査されてその辺りの輪郭が描かれつつあるようで。アイヌ側の伝承と間宮の故郷の伝承、そして松浦の断片的な記録をつなぎ合わせると、信憑性があることなのではと言われています。

結納とか結婚式では扇子はおなじみだけど、やはりそういうことなのでしょうかね。アイヌ式の婚礼なら扇子は関係ないはずだけど。
もしや間宮が平安時代のノリでアシメノコさんに贈っていたのだとしたら、意外と風流でキザな事をやってるな?と、なんだか光源氏と被って見えて感心したり面白みがあったり、まあこれは妄想になりますね…

この辺りのプライベートエピソード、わたし、気になります!(元ネタはミリしら)

メモ

タグの人物名、あだ名だとぱっと見分かりづらいので、実名にしました。
検索避けも意識していたんですが、そもそもRSS公開しているのであんまり意味ないんですよね…笑
ここは、推し人物の小ネタとか妄想を垂れ流す程度の場所であります。そんな真面目じゃないです。

タグを直していたらやっぱり変換でつまづくのがシマ先生。「允」の字が「じょう」で出てくれない(音読み「イン」で出る)。辞書登録するべきかなと思いつつ、「丞」の字を使っている資料もあるので、これはどうしましょうね。
意味的には両方共、"たすける"的なものなので、どちらも間違いではないのだろうし、武士の名乗りとして多い字だけど、便宜上統一はしておきたいので、多くの小説や資料で用いられている「允」を当方では使うことにします。

村上島之允(しまのじょう)は、私の中では「表記ゆれ大王」の異名を持っています。先のように島之丞と表記するものもあり。
昔当時なら旧字の「嶋之丞」もあったように記憶している(嶋の方が当時は正なのでしょうが)。あと「志摩之丞」とか。
伊勢の神職の出身で、そちらの方の別名が秦檍丸(はたのあわきまる)というのですが、この表記も読みもまあ、資料により統一しない。表記は他に「檍麿」「檍磨呂」「檍麻呂」、読みも他に「あわきまろ」「あわぎまろ」「あおきまる」「あおきまろ」など。
島之允も「しまのすけ」とか、また第三者が村上檍丸と呼んでいる資料もあったりで、何通りあるねん!と突っ込みたくなる(笑)
とはいえ、彼の著作絵図の自筆署名には「檍丸」と表記されているので、そちらが正規なのだろうと。

昔の人、他人の名前の表記や読みが意外とアバウトなので、こういう現象が起こりがちなのかな。
幼名や諱とか、また通称とかフリーダムに幾つも持っていたりコロコロ変えたりもあっただろうしな…聞き取りや発音の揺れも影響したのかもしれない。

「檍」は日本書紀に「あわ(は)き」と読む植物(神木?)として登場するらしく、どんな木なのか詳細は不明らしい。園芸種のアオキとも異なるそう。これは神職の出らしい命名だなと思います。

#村上島之允

メモ